人はよく、神谷奏多、僕のことを「無表情」だという。
「冷たい」と言われることもあるし、「何を考えているかわからない」とも言われる。
でも、違う。
僕はただ、“音だけが感情を語ってくれる”と信じてきた。
感情を外に出す必要なんて、最初からなかった。
少なくとも、あの日までは。
アンサンブルを選んだのは、仕方なくだった。
本当はソロを志望していた。ひとりで完成できる音楽の方がずっと自由だったし、誰かと感情を交わすなんて、煩わしいと思っていた。
それでも、今年の講師陣は「表現の幅を広げるため」と言って、僕をアンサンブルに回した。
最初にメンバーを聞いたときは、正直どうでもよかった。
フルートの石井澄香は優等生で、チェロの佐伯陸は技術派。どちらも妥協できる範囲だった。
問題は──日向心音。
あの名前を聞いたときだけ、なぜか胸の奥がざわついた。
(まさか、同じクラスになるなんて)
講堂でひとり弾いていたヴァイオリン。あの演奏は、今も耳に残っている。
不安定で、感情が溢れて、形になりきっていなかった。でも、確かに心に触れた。
初めて一緒に演奏した日、僕は試すように彼女を見ていた。
予想どおり、彼女の音は揺れていた。感情に飲まれて、周りが見えなくなっていた。
だけど、その“揺れ”こそが、僕にとっては新鮮だった。
僕の音はいつも“正しい”と評価される。
でも、その正しさの中には、何の熱もない。
言葉にするなら、「無味無臭の正解」。
心音の音は違った。
不器用で、まっすぐで、感情が先に走っている。
(こんな音があるんだな)
そして、2日目の練習。
彼女の音が、少しだけ変わったことに、誰よりも僕が気づいていた。
支えてくれる誰かを、意識した音──
寄り添おうとする、音。
それが、自分の音にまで何かを伝染させるのを、感じてしまった。
(……やめろよ、そんな風に近づいてくるな)
感情に、名前をつけたくなかった。
恋とか、憧れとか、羨望とか。
そういう“雑音”は、僕には必要なかった。
でも、演奏が終わったあと、彼女が佐伯の方を見て微笑んだ瞬間。
胸の奥が、かすかにざわついた。
練習後の音楽室。
ひとり残ってピアノの鍵盤をなぞっていると、ドアの向こうで足音が止まった。
「……まだ、いたんだ」
振り向くと、澄香が立っていた。
彼女は穏やかに笑っていたが、その目は少しだけ濁っていた。
「ねえ、神谷くん」
「何?」
「あなた、本当はどうしてアンサンブルに来たの?」
僕は答えなかった。
代わりに、低く短い旋律を奏でた。それは今日、心音が弾いた小節の変奏。
澄香は、それを聴きながら言った。
「……私ね、もう知ってる。
あなた、心音の音に……惹かれてるんでしょう?」
その瞬間、指が止まった。
(……言葉にするな)
音に名前をつけたくない理由が、今、はっきりした。
名前をつけた瞬間、それはもう戻れない。
奏多は黙って立ち上がった。
「……明日の練習には、遅れないように」
それだけ言って、音楽室を後にした。
感情を閉じ込めたまま、誰にも気づかれないように。