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第6話 音に名前をつけるなら

人はよく、神谷奏多、僕のことを「無表情」だという。

 「冷たい」と言われることもあるし、「何を考えているかわからない」とも言われる。


 でも、違う。

 僕はただ、“音だけが感情を語ってくれる”と信じてきた。

 感情を外に出す必要なんて、最初からなかった。


 少なくとも、あの日までは。




 アンサンブルを選んだのは、仕方なくだった。

 本当はソロを志望していた。ひとりで完成できる音楽の方がずっと自由だったし、誰かと感情を交わすなんて、煩わしいと思っていた。


 それでも、今年の講師陣は「表現の幅を広げるため」と言って、僕をアンサンブルに回した。


 最初にメンバーを聞いたときは、正直どうでもよかった。

 フルートの石井澄香は優等生で、チェロの佐伯陸は技術派。どちらも妥協できる範囲だった。


 問題は──日向心音。

 あの名前を聞いたときだけ、なぜか胸の奥がざわついた。


 (まさか、同じクラスになるなんて)


 講堂でひとり弾いていたヴァイオリン。あの演奏は、今も耳に残っている。

 不安定で、感情が溢れて、形になりきっていなかった。でも、確かに心に触れた。




 初めて一緒に演奏した日、僕は試すように彼女を見ていた。

 予想どおり、彼女の音は揺れていた。感情に飲まれて、周りが見えなくなっていた。


 だけど、その“揺れ”こそが、僕にとっては新鮮だった。


 僕の音はいつも“正しい”と評価される。

 でも、その正しさの中には、何の熱もない。

 言葉にするなら、「無味無臭の正解」。


 心音の音は違った。

 不器用で、まっすぐで、感情が先に走っている。


 (こんな音があるんだな)


 そして、2日目の練習。

 彼女の音が、少しだけ変わったことに、誰よりも僕が気づいていた。


 支えてくれる誰かを、意識した音──

 寄り添おうとする、音。


 それが、自分の音にまで何かを伝染させるのを、感じてしまった。


 (……やめろよ、そんな風に近づいてくるな)


 感情に、名前をつけたくなかった。

 恋とか、憧れとか、羨望とか。

 そういう“雑音”は、僕には必要なかった。


 でも、演奏が終わったあと、彼女が佐伯の方を見て微笑んだ瞬間。

 胸の奥が、かすかにざわついた。




 練習後の音楽室。

 ひとり残ってピアノの鍵盤をなぞっていると、ドアの向こうで足音が止まった。


 「……まだ、いたんだ」


 振り向くと、澄香が立っていた。

 彼女は穏やかに笑っていたが、その目は少しだけ濁っていた。


 「ねえ、神谷くん」


 「何?」


 「あなた、本当はどうしてアンサンブルに来たの?」


 僕は答えなかった。

 代わりに、低く短い旋律を奏でた。それは今日、心音が弾いた小節の変奏。


 澄香は、それを聴きながら言った。


 「……私ね、もう知ってる。

  あなた、心音の音に……惹かれてるんでしょう?」


 その瞬間、指が止まった。


 (……言葉にするな)


 音に名前をつけたくない理由が、今、はっきりした。

 名前をつけた瞬間、それはもう戻れない。


 奏多は黙って立ち上がった。


 「……明日の練習には、遅れないように」


 それだけ言って、音楽室を後にした。

 感情を閉じ込めたまま、誰にも気づかれないように。




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