目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第7話  四人の音、ひとつの舞台

春の風が、校舎の外からそっと吹き込んでくる。

 小さなホールに集まった聴衆は、保護者や教職員、そしてごくわずかな在校生たち。

 年に一度の「室内楽発表会」。アンサンブル専攻の生徒にとって、最初のステージだった。


 日向心音は、緊張に包まれながら楽屋の椅子に座っていた。


 (大丈夫、大丈夫……)


 隣で石井澄香が、明るく微笑んでいる。

 その笑顔に、どこか翳りがあることに、心音はまだ気づいていなかった。


 佐伯陸は静かに楽譜を見つめ、神谷奏多は目を閉じて、自分の呼吸を整えている。

 この4人で過ごした数週間。

 重なった音と、重なりきれない想いと──すべてが、今、ひとつの舞台に向かっている。




 ステージの幕が上がる。

 最初の一音を鳴らしたのは、心音のヴァイオリンだった。


 (落ち着いて……ちゃんと、みんなの音を聴いて)


 心音の弓に続いて、澄香のフルートが空気に色をつけ、陸のチェロが低く支える。

 そして、奏多のピアノが4人の音をつなぎとめた。


 音は確かに重なっていた。

 けれど、「完璧」ではなかった。


 (何かが、少しだけずれてる)


 ほんのわずかに噛み合わない呼吸。

 それぞれが誰かを見ていて、誰かを見ていない。


 心音の視線が、思わず陸を探す。

 陸はまっすぐ前を見つめていた。フレーズに迷いはなかった。けれど――そこに、「感情」は見えなかった。


 (さっきのリハまでは、もっと……)


 そう思ったとき、ふと視線を感じた。

 顔を上げると、神谷奏多がこちらを見ていた。


 目が合った瞬間、心音の胸に、なにか熱いものが走った。

 彼は何も言わず、ただひとつの和音を弾いた。


 その音が、心音の中で、なにかを変えた。




 ──ひとりで走っても、音楽は成立しない。


 そんな当たり前のことに、心音はようやく気づいた。


 奏多のピアノが寄り添うように響き、澄香のフルートが温かさを足す。

 そして、陸のチェロが少しだけ音量を上げた。


 (今……合ってる。私たち、ちゃんと重なってる)


 四人の音が、初めて“同じ場所”に集まった瞬間だった。

 それは完璧ではない。けれど、心が混ざった。


 言葉では伝えきれない感情が、音に乗って客席に届いていく。

 1フレーズ、1小節ごとに、誰かの想いが溢れ出す。


 終盤の静かなパッセージ。

 心音は最後の一音を弾く前、そっと目を閉じた。


 (ありがとう。みんなと、ここにいられてよかった)


 その想いとともに、最後の音が静かに鳴った。


 ──そして、沈黙。


 やがて、ホールに温かな拍手が満ちていった。




 舞台裏に戻った4人は、まだ言葉を交わしていなかった。


 先に口を開いたのは、佐伯陸だった。


 「……悪くなかった。今日の演奏」


 澄香がくすっと笑う。


 「うん、“悪くない”でいいよ。初めてにしては、ね」


 心音も微笑んだ。

 奏多は少しだけ口元を緩め、ピアノ椅子に腰をかけたまま言った。


 「不協和音だったけど……ちゃんと、音楽にはなってた」


 その言葉に、4人はそれぞれの胸の奥で、なにかを感じていた。


 これから、まだすれ違うだろう。

 それでも、今日の一音が、確かに“始まり”になったことを──


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?