「……あれ? 日向さん、ひとり?」
放課後の音楽室。
心音は、楽譜を見つめたまま、ぼんやりしていた。
声をかけてきたのは、クラスメイトの女子だった。
「あ、うん。ちょっと譜読みしてて……」
「あの演奏会、よかったよ。最後のヴァイオリンの音、すごく綺麗だった」
「ありがとう」
少し頬が熱くなる。
けれど、演奏の手応えは「よかった」の一言では言い尽くせなかった。
(私、ちゃんとみんなの音、聴けてたかな……?)
まだ心の中は余韻の渦中にある。
演奏中、奏多と目が合ったあの瞬間。
たった一つの和音が、すべての呼吸を変えた。
(あれは、なんだったんだろう……)
胸がざわついたまま、答えは出ない。
一方、図書室の隅。
佐伯陸はチェロの資料を広げていたが、ページは一向に進まなかった。
(……心音、やっぱり、神谷の音を追ってたな)
そのことに気づいた瞬間、喉の奥がひどく乾いた。
自分の音が、彼女に届いていない気がした。
ステージ上では、ただの「一人の演奏者」。
けれど、舞台を降りたら……ほんの少しだけ、特別な存在になりたかった。
(もっと“うまくなれば”、見てくれるだろうか)
その答えを探すように、また資料へと目を落とす。
けれど、文字はぼやけて見えた。
音楽室の別の一角。
澄香はフルートの手入れをしていた。無言のまま、機械的に。
心音が陸を見るあの瞬間。
そして、奏多が心音を見るあの瞬間。
(……私だけ、誰からも“見られてない”んだよね)
そう思ったとき、フルートの管体を持つ手が止まった。
(でも、いい。私は音で勝負する)
誰かの“心”を奪えるほどの音を──
それが、澄香の中に芽生えたささやかな嫉妬の正体だった。
そして──神谷奏多は、ホールの舞台袖にひとり残っていた。
誰もいない客席を見下ろしながら、昨日の演奏を思い返している。
(……あの最後の音。日向の音に、俺は何を重ねていた?)
誰にも言えない。
あれは、明らかに“答えてしまった”音だった。
彼女が見たのは、佐伯かもしれない。
けれど、あの一瞬、視線が交差したのは──自分だった。
(それが、嬉しかった。……悔しかった)
奏多はそっと鍵盤に手を置き、低い和音を一つだけ鳴らした。
誰のための音かも分からぬまま。
その響きは、しんとしたホールに溶けていった。