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第10話  知らなかった旋律

 朝比奈美月は、ほとんど音を立てずに椅子へ腰を下ろした。


 音楽室の空気が、わずかに緊張する。


 神谷奏多の表情も、いつもの無関心とはどこか違っていた。

 静かに何かを噛みしめるように、彼は視線を楽譜に落とす。


 (……知ってる顔だった、明らかに)


 心音はピアノ越しに見える二人の“沈黙”に、妙な違和感を覚えていた。

 初対面とは思えない、けれど言葉の少ない距離感。


 「この曲、イ長調のピアノ五重奏ですね。ソロよりも、内声のバランスが大事なタイプ」


 美月が、何の迷いもなく言った。


 「私、オーボエは好きです。特に、こういう“綺麗すぎない”曲のほうが」


 (綺麗すぎない、か……)


 その言い回しに、奏多がわずかに眉を動かした。


 澄香はフルートを磨きながら、さりげなく問いかける。


 「朝比奈さんは、神谷くんと知り合いなの?」


 心音も、その答えを待つように目を向けた。


 美月は、一瞬だけ目を伏せ、そして微笑んだ。


 「……中学の頃、少しだけ。同じ音楽教室に通っていました」


 「へえ……」


 その言葉に、心音の胸の奥が、わずかにきしむ。


 (同じ教室……昔から一緒に演奏してたの?)


 神谷奏多は何も言わなかった。

 否定もしなければ、肯定もせず。

 ただ、静かにピアノの鍵盤に手を置いていた。




 その日の放課後、心音は楽譜を抱えて帰り道を歩いていた。

 空は茜色に染まりかけている。


 (私、何を気にしてるんだろう……)


 神谷と美月の間に、過去があった。それだけ。

 だけど、胸の奥が苦しくて、妙に落ち着かなかった。


 (演奏に集中しなきゃ……私たちは、アンサンブルなんだから)


 自分に言い聞かせるように呟いたときだった。


 「……日向」


 振り返ると、そこに神谷奏多が立っていた。


 「え……神谷くん?」


 「少しだけ、話せる?」


 驚きながらも、心音は頷いた。

 二人で歩いたのは、音楽科棟の裏庭。春の風が、制服の袖を揺らす。


 「朝比奈のことだけど……」


 奏多が、先に口を開いた。


 「昔、同じ教室にいた。でもそれだけ。特別な関係じゃないよ」


 「……どうして私に、それを?」


 「分からない。でも……なんか、日向が、気にしてるように見えたから」


 心音は小さく目を見開いた。

 ほんの数秒、言葉が出なかった。


 「……見てたんだ、私のこと」


 「そりゃ、見るよ。同じグループだし」


 その言い方はぶっきらぼうだったけれど、どこか優しかった。

 風が吹いた。髪が揺れ、心音の目に前髪がかかる。


 「……じゃあ、これからも、私の音……ちゃんと聴いてくれる?」


 問いかけた声は、自分でも驚くほど小さくて震えていた。


 神谷奏多は、少しだけ視線をそらし、やがて答えた。


 「……ああ。お前の音、ちゃんと聴く」


 胸の奥に、温かくて切ないものが灯る。

 でも、それが何かは、まだ分からなかった。



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