大きな黒い馬が立て髪をなびかせながら歩いている。馬は車輪がついた大きな箱を
馬は一度鳴いた素振りを見せると、立派な邸宅の前で停まる。
すると馬の
次に男が取った行動はまた馬車の入り口に戻るというもので、彼の手を補助にして一人の女性が降りてきた。
踏み台から地面へと降り立った女性の恰好は、日本では絶対に見ることのない服だ。
地面につきそうなほど長く、裾に向けてとっぷりと膨らんだスカート。女性が被った帽子には白い羽が何重にもついていた。
(誰か嘘だと言って……。ドッキリだとか、映画の撮影なんだよ、とか。お願いだから)
信じきれなかった事実が、ここにきてようやく現実として認識される。いや、認識せざるを得なかった、が正しい。
梓は頭を振って、目を閉じて、また目を開けて。何度も無意味な動作を繰り返す。その度に現実が梓を叩きのめしてきた。梓がどんなに願おうとも、現実は変わらない。
「うっ」
喉が熱くなった。鼻の奥がジリジリと痛い。
思わず窓の
胃がひっくり返りそうだ。何かこみ上げてきそうな不快感がある。
梓は
これは──涙だ。
「うぅ、うあぁぁぁっ、ああああああ!!」
頬に流れる雫が涙だと気が付いた途端、梓はその場に力なく座り込んだ。
言葉にならない声が出る。発した声が「なんで、どうして!」「お父さんっ、お母さんっ!」を意味しているなんて、きっと梓にしかわからない。
「帰りたい……!!」
この言葉も途切れがちであったり、鼻声であったり、濁音がついていたり、と
梓は同じ空間に男がいるのも
日が沈みきるよりも、床に出来る涙の染みの方が勢いが強い。このまま塔を涙でいっぱいにしてしまいそうなほどに、梓の涙は止まらかった。
涙がこぼれるたびに目が痛い。痛くて目を瞑むっても外の風景が瞼の裏にはっきりと映る。
開いたとしても景色は変わらない。
のどかで美しい光景。しかし梓にとっては残酷な光景に、ここは異世界なのだ、と突きつけられてしまう。梓の目からはますます涙が落ちていった。
(こんなところ来たいだなんて思ったことないのに!! 私が何をしたっていうの!!)
心の中で梓の声が反響する。とても虚しい悲鳴だった。
◇
それからどのくらい泣いていたのだろうか。
塔を沈めてしまいそうだと思った涙は時間が経過していくにつれ静まっていった。
ポタ、ポタ、と途切れがちになったあたりで、
(涙って永遠に出続けることはないんだな)
と、思う。さらには、
(いや、私の神経が鈍いだけなのかもしれない。泣いたら少しスッキリしてるんだもの。異世界に来たって言うのに)
といったことを梓は思った。
目元を拭えば、どうやら最後の一粒だったらしく涙はもう零れ落ちることはなかった。
鼻をひとすすりして窓を見る。日はすっかりと暮れていた。
(それとも……異世界に来る際に人間らしさをなくしちゃったのかな)
眩しかったオレンジ色はなりを潜め、代わりに星がきらめく夜空が広がる。
たくさんの星。元の世界ではこんな星一面の空など見たことがない。
梓は自嘲めいた嘆きを心の中で言うと、乾いた笑いを出した。もう一度目を拭う。痛いだけで手は濡れなかった。
「すみませんでした」
立ち上がって窓を閉める。開けた時よりも静かに。
そして入口の方を向いて言う。
男は最初に会った時と同じ場所で壁にもたれて本を読んでいた。
男の顔にはかすかに青白い光が当たる。月明りだ。その月明かりが、男の美術品らしさに拍車がかける。
触れたら冷たそうな、無機質な出で立ち。
だが怖くはないと思うのは、目の前に立つ男は優しい人間なのかもと思ったからだ。
この男は泣きわめく梓を追い出したりしなかった。
月明りを利用して本を読んでいた男は視線を梓へと動かす。入り口を塞いでいたチェアはいつのまにか部屋の隅へと移動していた。碧い瞳が梓をじっと捉える。
「ありが、」
「年齢相応の泣き方を身につけたらどうだ? 騒がしくて仕方がなかった」
泣き喚く梓を静かに放っておいてくれたお礼を言おうとしたのに。梓の言葉を遮る形で男が被せてくる。
前言撤回。全くもって優しくない。
「あと、気が済んだなら、さっさと出ていってくれ」
「い、言われなくても出ていきます!」
梓に向けていた視線を本に戻す男。かなりの速読家なのか、すごいスピードでページがめくられていく。男はパタン、と本を閉じると別の本を棚から取り出した。
男が入口から本棚へと移動したことで入口が梓の視界に入ってくる。入口より先は暗闇。明かりが一切ない。
「あ、あの。照明を貸してもらえますか? 手で持てるやつ」
天井がガラス張りだったのだ。であれば、階段には月明りが差し込んでいるはずだ。
だとしても、ランプ等なしで階段を下る勇気は梓にはなかった。足を踏み外して階段を滑り落ちる。それにランプがなければ塔を這いながら出たとしても庭園で迷子だ、確実に。
塔に来るまでの間、庭園に外灯を一つも見かけていない。庭園は階段と違って出口を指し示す手すりもなければ、ルートも一方通行ではなかった。
ランプなしに部屋に戻るなんて不可能だ。だから恥を忍んでお願いしたのだが。
「そんな物はない」
男は本から視線を外すことなく、希望をばっさりと切り捨てる声で言うだけだった。