梓は何もない空間に一人立っていた。いや、立っていた、という表現は相応しくない。黒一色の空間には空もなければ、地面もない。浮遊、もしくは漂っている、という言い方の方がこの場では適している。
本当の暗闇とはこのことなのか、と思うほどに暗い。
街灯も車のランプもコンビニの明かりもない。月明りも星明りも何もない空間。その暗さは見ているだけで心を
(帰らないといけないのに)
梓の頭はまだ混乱したままだ。
前も後ろも右も左もわからない、虚空の中で梓は一人膝を抱えるようにしゃがむ。
波に乗った海藻のごとく、身体がじわじわ揺れて
その揺れに安心するし、不安にもなる。子守歌など聞こえないのに、眠気を誘ってくる。でもすぐに、寝てはいけない、と思い直す。
まとまらない思考がますます、まとまらなくなっていく。
梓はスン、と鼻をすすった。が、無音。すする感覚も鼻の奥に伝わってこなかった。
(なんか……疲れちゃったな)
頬を触る。あれだけ出した涙は渇き、頬に濡れた様子はなかった。頬は温かくも、冷たくもない。梓はため息を吐く。そのため息もやはり音を形成しない。
(帰り道がわからない。自分がなんなのかもわからない)
ふよふよと漆黒を漂う。このまま流れに身を任せていれば、家に辿りついたりしないだろうか。だなんて考えるが、そんなことは一切起きないとわかっている。
膝を抱える腕に自身の髪の毛が触れる。手で髪を引っ張ってみたが、痛くないのは何故なのだろう。
(いっそのこと消えてしまいたい)
手を宙にかざして見る。かすんで見えたのは錯覚か幻覚か。
存在意義が揺らいでいるためにそう思うのか。
弱音を口にすれば、眠気が一気に増す。梓は本能に
ヒタ、ヒタ、ヒタ。
足音らしき幻聴が聞こえ、梓の足先や指先から何かが這いあがってきた。
梓の身体がどんどん、黒に
生暖かい黒に身を
(ん、なに――?)
そう決めて瞳を閉じれば、瞼の裏側が明るくなった。
(蛍――?)
光は梓に動ける?とでも聞くかのように上下に跳ねたあと、梓から少し離れてまた上下に跳ねる。
(おいでっていってる?)
動き出さないまま光を見つめていると、光が梓のところに戻ってきて跳ねた。
かと思えば先ほどと同じく、数歩前を行き上下に跳ねる。
こっちにおいで。そう言っているらしかった。
梓は丸くなっていた身体を伸ばし、立とうとする。だが四肢がとてつもなく動かしにくかった。まるで
(この、黒いのが重いんだ……)
漂っている間に随分と黒に飲まれてしまっていた梓の身体。着ている白い服がほぼ見えない。足なんて何重にも黒がまとわりついていた。
痛みも苦しみも感じないのに、重さだけはしっかりと伝わってくる。黒は胃や肺にも入っているらしく、身体の中も重かった。
光に待って、と声を出して言ってみるも、口に
歩けない。すぐにそう思った。
すると黒が梓の負の感情を読み取り、何倍にも重くなる。梓はあまりの重さに膝から崩れ落ち、手をついた。
(黒に沈む)
手をついた先は底なし沼だった。
不安に駆られるよりも早く、手足が沈んでいく。
(怖い……!)
ズブズブ。ヒタヒタ。
またも幻聴が聞こえる。
さきほどまでは黒にまとわりつかれていても何も思っていたかったくせに、今では黒がとてつもなく怖い。しかも怖いと思えば思うほど、沈む速度は速くなっていった。
(! ……光が応援してくれてる)
沼に沈む速さに
光は梓の周りを何度か飛ぶと、沈んだ身体の近くに止まる。すると梓の肌に触れてる光を黒が飲もうとヒタヒタという音を立てて近寄る。
光は黒が嫌いらしい。近づいてきた黒から逃げるそぶりを見せる。が、すぐさま梓の元に戻ってきては沈んだ身体を引き上げるような動作をした。
手のひらに収まるほど、小さな光。
彼は梓に頑張れと言っているようだった。身を
小さな体で巨大な黒に戦う姿に、純粋に胸を打たれる。梓は心の中で光にお礼を言うと、身体に力を込めた。
へばりつく黒が重い。だが、歩けないほどではなかった。
◇
「ありが、とね」
暗闇の中。梓を先導する光に声をかける。
今までずっと出てなかった声は、以外にもすんなりと出た。
声は光にも届いたのか、前を飛んでいた光が振り返るとクルクルと嬉しそうに回った。
それを見て、梓は笑う。
「はは。元気だねぇ」
光も梓の鼻先に止まると笑った。
もちろん相手はただの光。顔も姿もない。だが光に対して、梓はそう思った。
光が梓の数歩前へ飛んでいくと、おいでおいでと跳ねる。
「うん。今行くよ」
歩く距離が伸びていくほど、身体に纏わりついていた黒が離れていく。
声も一度出てしまえば、淀みなく普通に話せるようになった。
梓は光と
しかし歩くのを止めない。足が止まりそうになるたび、光が元気づけてくれるからだ。
「君はお友達が沢山だねぇ」
気が付けば梓の周りにはたくさんの光が舞っていた。
黄色い光、赤い光、白い光。同じ光ながら個性が溢れる。
性格だって違う。先導する光、梓の背中を押す光、梓の髪の毛や肩で遊ぶ光などなど。
たくさんの光で包まれている様は、まるで光の粒子の中を歩いているようだ。
「え? 歌をうたうの? なににしよ~。うーん。あぁるこぉ~、あるこ~。わたしは、げんきぃ~」
光たちはとても賑やかで、お転婆で、元気いっぱいで。
歌をうたってと言われて、適当に歌えば声なき声でキャッキャッと笑うのが聞こえた。中には梓の歌声に合わせて鬼ごっこをしたり、ダンスをしたりする子もいる。
保育園の先生にでもなった気分だ。
パワフルな光たちを見ていると、心が晴れやかになっていくのがわかった。
ここ最近で大きく笑った梓を見て、最初に梓の前に現れた光が頬にすり寄る。
その子を撫でる手にはもう黒はこびりついておらず、重く感じることはない。
「あ、出口だ」
そうして長い長い散歩を続けていれば、急に目の前に人一人分の大きさのトンネルが出現した。トンネルは煌々《こうこう》と明るく輝いている。
直感でわかった。出口だ。
梓は光たちに振り返ると、「みんなが居たから頑張れたよ」と言って笑いかけた。
友達に接する時のように手を振れば、梓の指先に一つの光が乗る。
光なりのお別れの挨拶なのだろう。
親指から小指に向かって一つずつ跳ねると、その子はみんなの元へ戻って行く。
少し、いやかなり別れがたい。
(でも戻らなきゃ)
光は梓をここに連れてくるために、一緒に歩いてくれたのだとわかっていた。
ここで離れたくない、と駄々をこねては彼らの優しさを無下にしてしまう。
梓は名残惜しそうにもう一度手を振り、「ありがとう」と大きな声を出した。
そして青空に浮かぶ太陽のごとく、燦々と輝く出口に飛び込んでいった――。