「──お……! ……い!」
遠くから梓に呼びかける声が聞こえる。その声は切羽詰まっていて、途切れ途切れでしか聞こえない中でも、いかに焦っているかがよくわかった。
梓よりも低い声、男性の声だ。
彼はなんて言っているのだろう。目を開けようとしても、一回では開かない。
身体も床に縫い付けられたように、力が上手く入らなかった。
「しっかり……しろ! ロイド! 医師たちはまだ……いのか!」
「……呼んだ……ですが、……のようで」
「くそっ。おい! おい! 目を……ろっ」
どうやら梓の近くには男性が二人いるらしい。
男性と言っても、主に梓に呼びかけている方は声音に渋みがなく、青年……いや青年になる手前の少年と言った方が正しそうだ。
(目を開けろ、と言ってるんだろうけれども……身体が動かない。返事も出来ない)
身体が重いわけではない。倦怠感とも違う。
例えるなら、脳の信号が分断されている感じだ。身体よ動け、と必死に脳から命令を出しているのに、胴体も四肢も全てがノーと答えている。
かと言って神経が通っていないわけではなく、床に触れた肌に伝わる冷たさはしっかりと感じ取っていた。
「たのむっ。目を、開けてくれ……っ!」
切迫していた声に悲哀じみた物が混じり始める。泣いているかのようにも聞こえるその声は、空気を震わすほどで、床の冷たさを感じ取る肌をヒリヒリとさせた。
(起きなくちゃ)
力なく倒れ込んだままの身体に全神経を集中させる。
普段なら考えることもなく動く身体だ。それを今は、回路を繋げるのをイメージしながら一つずつ解放させ、力を送り込む。
指先どころか、爪先を動かすつもりで。
「……うっ、」
喉にあった閉塞感のせいで、うめき声が出た。声が通った道に空気が入ってくる、肺が膨らみ、自然と外へと押し返す。
するとあれだけ力が入らなかった身体がすんなりと動いた。と言っても、今度は重力を感じて、動かすのが
それでも数分前に比べれば、かなりマシだ。自分の身体がようやく戻ってきた。そう安心する。梓は手をやんわりと動かしてみた。冷たさだけでなく、床のタイルか何かの継ぎ目を感じ取れた。
「?! おい! 聞こえるか?!」
梓に何度も何度も呼びかけていた声が、しっかりとはっきりと聞こえる。
一度ギュッと瞼を強く閉じると、ゆっくりと瞼を開けていく。
「本当に、生き返った……」
梓の顔色を窺っている人物より低い男の声もしっかりと耳に届いた。金色の髪の奥に深い緑色の短い髪を持った男が立っている。
その男の持つランプが眩しい。暗闇で梓を率いた光が柔らかい明るさなら、蝋燭の火は目をしばたたかせる無機質な明かり。
またも梓はくぐもった声を出す。
梓がうめいたのを聞いて、金色の髪の人物が語りかけるような声を出した。
「こ、こ、は……」
「塔の部屋だ。もうすぐ医師が来る、そのまま意識を手放すな!」
いいな?!、と聞かれ、ゆるゆると頷く。
碧い瞳には動揺が走っており、力の込められた眉は苦しそうだ。
金色の髪の人物はランプを手にしていた緑髪の男に向けて指示を出す。
喋り終えた男は後方に下がり、入れ替わる形で緑色の髪の男が前に出た。
緑髪の男は「失礼しますよ」と言うと、梓の手首と首に触れる。
(誰だっけ、この人……)
緑髪の男が触れた部分が脈打つのが梓自身にもわかった。
全身に血液を送る脈動が痛い。
その痛みはあらゆる場所にチリチリ、ピリピリとした感覚を送り届けた。
痛みが目にかかっていた霞を取り払っていく。ボヤけていた視界を徐々にクリアにしていく。ようやく焦点が定まり始めた目を使って、梓は金髪と緑髪の二人が誰だったのかを思い出そうとする。
(あ――)
記憶が少しずつ掘り返されていく。
塔で夕陽を見て、ランプに触れて、そして床に倒れ──。どうして床に倒れたんだったか。
思い出そうとすると、急に右手が熱くなった。
燃えるような熱さ。
外から火を当てられている熱さではなく、内側、身体の中から火が溢れ出そうな熱さだ。
梓は熱さに顔を歪め、「うっ、」とうめき声をあげた。
金髪の男がその声を聞き、梓の顔を覗き込む。その顔はとても苦しそうで、何かを我慢するように唇を噛んでいた。
男の綺麗な唇が青白くなり、端に血が滲む。
だが男は梓に声をかけることはせず、再び緑髪の男と話し始める。
二人はお互いに確認し合う動作をした。
そして金色の髪の男は梓の顔を伺うのをやめると、
──その時だ。
金色に隠れていた耳飾りが揺れる。
花を
蝋燭の火が反射したのか。それがキラリ、と光った。
(いや、蝋燭の火じゃ、ない)
蝋燭のように目の奥を刺すほど強くはない。
この光は、暗闇で梓を守りながら歩いてくれた光だ。
柔らかく、暖かい光が耳飾りともに揺れている。悲しそうだ。泣きだしそうだ。
梓は喉を開ける。痛みが走るものの、ちゃんと開いてくれた。そのままお腹にも力を込め、梓は話し出す。
「待っ、て」
金色の髪の男が動きを止めた。
そして間を開けて振り返ると、遠心力で耳飾りが一際大きく揺れる。
「泣かな、いで」
「!」
「だいじょ、うぶだから」
息も絶え絶え。
金色の髪が梓の指先を掠めた。
見た目通り、癖のないまっすぐな髪。指で弾けば音も奏でそうなほど綺麗だ。
瞳の深い碧も、梓が両親と訪れたことがある場所の海みたいだ。
身体が思うように動かないから。笑えているのか、梓にはわからなかった。
でも光も笑いかえしてくれた気がして、安堵した梓は気合で持ち上げていた腕から力を抜く。
その腕に金色の髪の男が咄嗟に支えようとしたが、その人物と触れあうことはなく、軽い衝撃と同時に床の固さが伝わってきた。
(あー、痛みがあるって凄いな)
床に当たった際に痛みが腕に走る。暗闇の中では痛覚どころか触覚もなかったから。
こうして感覚が身体に宿っていることに素直に感謝した。
床に倒れたままの梓の身体にゆっくりと怠さがやってくる。意識が遠のいていく。
けれどもまるで昼寝をする時のように、梓の気持ちは穏やかだった。
――よく頑張ったね
心に語り掛けるようにして聞こえてきたのは、誰の声なのだろう。
優しい、心地の良い声だ。クライツ王国に来て、異世界に来て。こうも心が落ち着いたのは随分と久しぶりな気がする。
あぁ、そうだ。自分は異世界に来たのだ。
突如、日本から異世界であるクライツ王国に。そして聖女だと言われて、結婚を強要されて、そして──目の前の男の呪いで死んだ。
「おい! 目を閉じるな!!」
再び目を瞑ろうとする梓に、またも金色の髪の人物が慌てた声で何度も呼びかける。
この人物こそが王子であり、呪いの持ち主であり、梓を殺した人物。
梓に声をかけ続けるキラの横顔に汗が流れ、床に落ちた。
身体から力が抜けていくのを感じながら碧い瞳を見つめ返すと、梓はゆるく笑顔を作った。
「また明日ね」
その言葉がキラに向けてなのか、光に向けてなのか。はたまた心に聞こえた謎の声に向けてなのか。
梓自身もわからないまま、梓はそっと目を閉じた。塔の最上階に梓の呼吸音が静かに響いた。