濡れた目を手首で擦る。
がさつに強く動かせば、目も手もどちらも痛い。
梓は「あーーーー」となげやりな声を出した。もちろん梓以外に部屋には誰もいないので、返事が返ってくることはなかった。
意味もなくだした声が空しく部屋に響いて消える。
「あの子がついて来てくれてれば、こんな時もはげましてくれたんだろうな」
目を閉じれば、瞼の裏に光の残像がチラチラと輝いていた。一面黒に塗られた景色に浮かぶ白い残光。あの光のことを思い出す。
漆黒の闇を、死後の世界を歩いていた時に、梓を出口まで先導してくれた光たちのことだ。彼らは陽気で元気で、それでいて優しい。
梓が弱音を言いそうになるたびに、背中を押して励ましてくれた。
(一人で乗り越える強さは私にはない)
結局、梓はただの平凡な女子高生だ。聖女の力だとか、女神の加護だとか言われたところで、精神的なものは年相応。
自分の許容量を超えた逆境に対処できるほど大人ではない。困ったことがあれば誰かに
敵意を向けてくる人物もいるここで、梓が頼りたいと思えるのは暗闇の中で出会った光たちだけだった。
梓は擦って痛い目で指先を凝視する。変哲もない指や爪に光が降り立つことはない。
「あの子たちにまた会いたい」
あれだけ優しい光だったのだ。お願いしていればついて来てくれたかもしれない、と後悔しても今更なこと。
梓が「おーい」「光くーん」と指に向かって声をかけても、そこにいないのだから反応など何もない。
素直に寂しい。きっと光がいたらこの辺り。と、想像して空いている手で撫でてみる。
「どうしたらまた会えるのかな」
もちろん感触が伝わるわけもない。
でも、もしかしたら、と信じてしばし眺める。やはり変化はない。丸く切りそろえられた爪が見えるだけ。
梓は名残惜しそうに手を引っ込めようとした。その時。ドアが音を立てて開いた。
「失礼します。なんだ、起きてたんですね……って、何してるんですか?」
ベッドの上で深緑の髪の男と目が合う。ロイドだ。
彼は雑なノックに梓が返事をする前にドアを開け、梓を視界に入れると
「それは向こうの世界での儀式か何かで?」
「あ、いや、別に」
ごにょごにょと「これはなんていうか、爪の長さを確認していた、というか」だなんだと適当に誤魔化そうとすれば、ロイドは吐き捨てるような顔をして後ろ手にドアを閉める。
梓は天井に向けて伸ばしていた腕を引っ込めると、素早く上体を起こして居住まいを正した。
塔での記憶がなくなっていない今、少しの粗相でもロイドに指摘される種となることはわかっていたからだ。
「ここは王の住まう城の中なので、変なことしないでくださいね。処理に困りますから」
「……しませんよ」
だが、梓が気を付けようとも彼の粗を探す術が卓越していては付け焼刃だ。
膝に乗せた手をロイドが注視する。咄嗟に右手の跡を隠せば、彼は長い長いため息を吐いた。
今度は何を言われるのか、と梓の肩がびくつく。
「脱走した人がよく言う」
「……脱走なんてしてないです。あれは塔から外の景色が見たかっただけで」
「似たようなもんですよ。ハァ、まったく。キラ様がこの件を収めてくれたんですからね。そのことに深ーく感謝してください」
またため息を吐かれてしまった。
彼のため息はいつでも、どんな時でも棘だらけだ。
(でも、文句を言えるわけないし)
梓としては脱走などしたつもりは毛頭ない。
けれども。書置きも
まだまだ子供の梓。だとしても、自分がしでかしたことを周りはどう評価するか、という推測が出来ないほど幼稚ではなかった。
(それにきっとここに運んでくれたのも、キラ王子かロイドさんなわけで)
意識を失う直前、キラが梓に何度も声をかけていた。
医師を呼ぶから。そう言ってもいた。
誰がどんな方法で塔からこの部屋まで運んだのかは不明だが、指示を出したのがあの二人の内のどちらかなのは明白。
梓は膝に置いた手を見やる。稲妻の形をした跡が指先から手首にかけて走っているだけで、手錠などはかけられていない。足も自由だ。
ロイドの言う通り、キラの温情があってこその今の待遇なのだろう。
「人の話、聞いてます?」
ユーリの声が近くから聞こえた。
ハッとして、思考を目の前のことに戻せば、彼はドアから梓が座っているベッド付近まで歩いてきていた。
深緑の前髪を中央で二つに分けていることによって、眉間の皺がよく目立つ。
彼はおもむろにベッド近くに置いてあるチェアに腰を下ろす。
梓がユーリ達と会話した時に使った、テーブルとチェア四脚のセットの物とは違い、背もたれのない簡易的なチェアだ。
簡易的と言っても座面全面に細かい刺繍が施されていて、豪華であることには変わりはないが。きっと靴を履き替える時などに使うために置いてあるのだろう。
「返事」
「え、あ、はい」
「
「聞いて、ました。すみません」
「まったく。異世界に礼儀や作法ってものはないんですかね」
一字一句同じセリフをロイドに返したいのをぐっと堪える。
王子とロイドの関係性を見るに、彼は王子の側近のようだが、チェアに長い足を組んで座る態度は王子どころか王様のごとく。実に偉そうで、梓を底辺として見ていることを表現していた。
(――私に丁寧に接する必要なんてないもんね)
彼は未だに“異世界”も“聖女”も信じていないのだろう。
梓に争う意思はないとしても、仕えているキラにとって害がある人物という可能性が消えない限り、梓は永遠に怪しい人物のまま。
警戒心むき出しの態度は王子に従属する人間として当たり前だった。
まさしく、ロイドの言う“立場”というやつだ。彼は立場を
(だからって暴言吐きまくっていいわけにはならないと思うんだけど!)
だとしても。彼の態度や思考を理解は出来ても納得はできない。ロイドが横目で見てくる。
梓が「すみませんでした。あと、ありがとうございます。王子様にもお会い出来たらお礼を言います」と言えば、彼はとりあえずは