モーツァルトはダ・ポンテ台本の《フィガロの結婚》を前年、サリエーリが《トロフォーニオの洞窟》を初演した直後に作曲し始めた。
この台本の原作はフランスの劇作家カロン・ド・ボーマルシェ(本名はピエール=オーギュスタン・カロン)による戯曲で、一七八四年にパリで上演された戯曲は貴族を痛烈に批判する内容であり、ルイ十六世を始め貴族たちを激怒させた。ヨーゼフ二世もボーマルシェの戯曲を上演する事を禁じていたのだが、ダ・ポンテはどうしてもこれをオペラにしたいと直談判した。
「貴族批判の部分は薄めます。どうかオペラ化をお許しください!」
「そなたがそんなに書きたいのならやるがいい」
ヨーゼフ二世はこれを許可するが、劇場支配人ローゼンベルク伯爵は激怒する。貴族批判の劇を皇帝に直訴してまで上演しようというのだ、腹を立てないわけがなかった。
「ダ・ポンテにモーツァルトめ、どこまで好き勝手するつもりだ」
いつもならローゼンベルク伯爵をなだめるサリエーリだが、彼は直接対決の直後にパリへ行くための休暇を申請していた。以前オペラ座理事会から依頼されていたオペラ《オラース家》と《タラール》の作曲をしており、その上演に向けた準備に忙しい。
彼はモーツァルトのオペラを見てすぐにパリへ旅立つという計画を立てていた。そのため、長期の不在間自分の代わりを務める人物を選出し、引継ぎを行っていたのだ。それがヴィンチェンツォ・リギーニと弟子のヴァイグルである。
リギーニは後にダ・ポンテ台本のオペラ《デモゴルゴネ》を初演するが、《フィガロの結婚》が五月一日、《デモゴルゴネ》が七月一二日と初演時期が近く、台本作家が同じであるために陰謀論に巻き込まれた。
「サリエーリとモーツァルト、そしてリギーニが上演される順番を争い、サリエーリが他の二人を妨害して《トロフォーニオの洞窟》を先に上演したのだ」
このような事を言う者もいたが、モーツァルトは《トロフォーニオの洞窟》初演の後に《フィガロの結婚》の作曲を始めているので、まったく根も葉もない噂である。
なぜそのような根も葉もない噂が立ったのか?
ダ・ポンテは《はじめに音楽、次に言葉》で揶揄された事を恨み、主にカスティを追い落とすためにカスティ台本の《トロフォーニオの洞窟》を
二人の台本作家の、言葉による戦いが舞台裏で繰り広げられていたのだった。
かくして《フィガロの結婚》は初演を迎えるのだが、カスティはこれが成功しないように更なる妨害工作を行う。
「お前たち、客席で騒いでオペラを台無しにしてこい」
彼に雇われた粗野な若者たちは、上演中に下品な物音を立てて妨害した。これによりオペラの評価は真っ二つに分かれる事となる。
「成功はしたけど、もっと上手くいくはずだったのに」
モーツァルトはがっかりするが、サリエーリはこのオペラを非常に気に入った。晩年になって彼がモーツァルトの思い出を語る時に最も気に入ったオペラとして名を挙げたのが、この《フィガロの結婚》である。
「素晴らしいオペラだった。余計な雑音の入らない場所で上演すれば、きっと正当な評価を得るはずだ」
妨害行為があった事には顔をしかめたが、モーツァルトの曲に満足したサリエーリはパリへと旅立った。彼の思った通り、ヴィーンではそこそこの成功だったこのオペラは、プラハで爆発的なヒットを記録する。そのため翌年一七八七年一月にプラハから招待されてモーツァルトが訪れた時、彼は大歓迎を受ける事になるのだ。
フィガロ以外語られない、上演もされないといった有様で、あまりの人気ぶりにモーツァルト自身が驚く。そしてその場で新作オペラ《ドン・ジョバンニ》の契約も交わすのだった。
さて、サリエーリがパリに到着したのは一七八六年八月である。コルネイユ原作の『オラース』を二コラ=フランソワ・ギヤールが脚色した
焦ったサリエーリは結末を変えて二度挑戦するが、既に失望したパリの観客に受け入れられる事はなかった。
だが、これでサリエーリという作曲家がパリから拒否されたわけではない。もう一つのオペラ《タラール》があり、そちらは台本がボーマルシェによるものだった。《ダナオスの娘たち》で成功したサリエーリと上演禁止を解かれたボーマルシェのコンビが提供する新しいフランス・オペラにパリの人々の期待は高まっていくのであった。