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借金漬けのモーツァルト

 モーツァルトはまず一〇〇フローリン、一七日に二〇〇フローリン、二七日には『相当の長期間、相当の金額を』申し込んだ。


 さらに七月には「質札を抵当にいくらかのお金を立て替えて欲しい」と言い出した。


 既に語った通り、当時は五〇〇フローリンもあれば一家が一年暮らせた。それを考えるとモーツァルトの借金は異常な額だ。


「モーツァルト、音楽家協会に入らないか?」


 宮廷で顔を合わせたサリエーリは、特に含みも無くモーツァルトを音楽家協会に誘う。慈善演奏会にも何度か呼んだし、彼の曲も何度も演奏しているのだから、そろそろ良いだろうと思っていた。ヴィーンの宮廷作曲家になったので反対もされないだろうという思惑もある。


 音楽家協会は別名を『ヴィーン音楽家の未亡人と孤児の会』というので、ヴィーンに来た当時ザルツブルグの宮廷作曲家だったモーツァルトはあくまでゲスト扱いだったのだ。


「いや……会費が払えないから」


「? 君の収入なら大して負担にもならないだろう。この前もリヒノフスキー侯爵に五〇ドゥカート(二二五フローリン)貸していたじゃないか。住み込みの弟子ヨハン・ネーポムク・フンメルには無償で教えているし」


 歯切れ悪く答えるモーツァルトに、不思議そうな顔をするサリエーリ。当時モーツァルトは困窮していたが、周囲にはその暮らしぶりから金持ちだと思われていたのである。


「それが……給料全部使っちゃって」


「……まさか、賭博に手を出したのか!?」


 この時代も、賭博が流行っていた。特に貴族が行う賭博は実に恐ろしいものである。


「凄い、一〇〇〇ドゥカートも負けてるのに平気な顔をしている! さすが大富豪だ!」


「ふふふ、まだまだ行けますよ」


 といった具合に、どれだけ大金を負けられるかを競って見栄を張るのが貴族たちの賭博の楽しみ方であった。胴元にとってはこれほど楽に稼げる相手もいない。


 モーツァルトは交友関係が広く、多くの貴族と仲良くしていた。その上彼はプライドが高く激情家だ。悪い友人に誘われて賭博に手を出し、むきになって大金をスッてしまうのも自然な成り行きと言える。


「いやー、つい夢中になっちゃって」


「家族もいるんだ。そんな事はやめて作曲や指導に専念した方がいい。せっかくの天才がもったいないぞ」


 大人がする事だ。頭ごなしに否定するのもはばかられるが、サリエーリは心配でしょうがなかった。


「……天才、か。うん、気を付けるよ」


 寂しそうにつぶやくと、背を向けてその場を離れるモーツァルト。その背に声をかけ引き留めるべきか迷い、そのまま見送るサリエーリだった。




 サリエーリの《オルムスの王アクスール》は、モーツァルトの《フィガロの結婚》と《ドン・ジョバンニ》を完全に脇へ追いやってしまった。ヴィーンでの《ドン・ジョバンニ》の失敗を戦地で聞いたヨーゼフ二世は「特に驚かない」と語る。


 モーツァルトの人気は散々だった。一七八八年八月、通称ジュピターと呼ばれる彼の最後の交響曲、交響曲第四一番を作曲したが予約演奏会を開こうとしても予約者が集まらない。自分の音楽が受け入れられる場所を求めて旅に出たモーツァルトはドイツ諸国を回り、開いた演奏会は一応の成功を収めるが収入は乏しかった。


「事情により作曲の継続が困難になってしまった。この台本を引き継いでくれないか?」


 サリエーリはダ・ポンテが彼のために書いた台本コジ・ファン・トゥッテをモーツァルトに託す。これを作曲し、一七九〇年一月二六日ブルク劇場で初演すると、これは成功を収める。


 だが、ここでまた不運が襲う。一七九〇年二月二〇日、皇帝ヨーゼフ二世が四九歳の若さでこの世を去る。肺疾患によるものだった。これにより《コジ・ファン・トゥッテ》の上演は打ち切られる。


 この後に開いた予約演奏会に名を連ねたのは、スヴィーテン男爵ただ一人だった。


 モーツァルトは繰り返しプフベルクに借金を申し込む。と同時に、皇帝の代替わりを機に自分の出世を企んだ。新皇帝レーオポルト二世(ヨーゼフ二世が度々サリエーリの楽譜を送っていた弟)の長子フランツ大公(ヴュルテンベルク公女と結婚した人。妃エリーザベト・ヴィルヘルミーネはヨーゼフ二世より二日早く二月一八日に妊娠中毒で亡くなっている)に宮廷第二楽長のポストを求める請願のとりなしを依頼する。


『あの非常に腕の良い楽長サリエーリは教会様式に専心しておりませんが、一方、私は幼い頃から完全にこの様式に通じてきました』


 しかし、新皇帝レーオポルト二世は非常に強引に近代化を図った前皇帝の失政を払拭すべく政治に忙しい。そのあおりでヨーゼフ二世に気に入られていたサリエーリはじめ音楽家たちも冷遇され、首を切られるのではと噂が立つほどだった。


 そのため、モーツァルトの請願は完全に無視される。それどころか、伯父と妻を失ったフランツ大公にそのような書簡を出した彼は皇帝からサリエーリ以上に嫌われるのであった。

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