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モーツァルトの絶望

 レーオポルト二世はオスマン帝国との休戦条約を締結するために尽力していた。政治的な問題を解決するのに忙しく、劇場に足を運ぶ暇もない。


 サリエーリは自身の処遇が決まらずに悶々としていた。その間もパリのボーマルシェからは何度も熱烈なラブコールが来る。


『あなたはこちらに戻って私たちの劇場のために働くのを諦めているのですか? (中略)我がよき友よ、あなたに忠実なボーマルシェをずっと愛してください』


 一七九〇年八月一五日付の手紙だ。だが長く続くフランス革命(一七八九年~一七九九年)のニュースを目にしない日はない。その気になったとしても皇帝に休暇をもらう事もできない。


「どうしたものか。モーツァルトも心配だ」


 サリエーリは自分以上に冷遇されているモーツァルトの身を案じる。休戦条約締結によってレーオポルト二世が神聖ローマ帝国皇帝の戴冠式をフランクフルトで行う事になったが、そこにサリエーリは呼ばれてもモーツァルトは呼ばれない。


 一〇月九日の戴冠式を前に、九月一九日にヴィーンに到着したナポリ王夫妻をもてなす歓迎晩餐会ではサリエーリが食卓音楽の指揮を任された。更に九月二〇日には新皇帝の存在感を演出するためにサリエーリの大人気オペラ《オルムスの王アクスール》を利用するなど、新皇帝の下でも宮廷楽長としての存在感を見せるサリエーリだったが、モーツァルトは戴冠式の行われるフランクフルトまで自費で向かわなくてはならなかった。姉の夫であるフランツ・デ・パウラ・ホーファーと共に自家用馬車でサリエーリたちの後を追う。費用は銀器を質入れして工面した。


 一〇月九日に行われた戴冠式では、サリエーリがこのために作曲した《テ・デウム・ラウダムス》が演奏されたが、遅れてフランクフルトに到着したモーツァルトが一〇月一五日に開いた演奏会は客も少なく、客が昼食を取りたいと望んだために最後に予定していた交響曲が演奏できずに終わる。マインツ、マンハイムを経てミュンヒェンでナポリ王夫妻を歓迎する演奏会に出演したものの、存在感を示す事はできなかった。


 新皇帝の下でも、対照的な扱いの二人だった。そしてついにモーツァルトは自分の中にわだかまっていた思いを吐き出す。




「何故を推薦してくれなかった!」


 新皇帝にではない。ヨーゼフ二世の時代にサリエーリが自分を皇帝に推薦していれば、今のような惨めな境遇にはなっていなかったはずだとなじる。一一月にヴィーンへ戻り、結局旅先で何も得るものがなかったモーツァルトが、宮廷楽長としての煩雑な業務をこなすサリエーリに怒りをぶつけたのだった。


「皇帝の寵愛を受け、地位も名誉も人気も欲しいままにしていたのに。ちょっと俺の事を皇帝に紹介するだけの事も嫌だったのか? 俺を天才だと言ってくれたくせに! どれだけ素晴らしい音楽を書いてもまったく評価されない絶望なんて、お前には分からないだろう」


 強い怒りと憎しみのこもった目で睨みつけるモーツァルトに、サリエーリは静かに落ち着いた声で答える。その目には深い悲しみの色をたたえて。


「何度も推薦したさ。本当に何度も、色々な人に。だが、君の才能を理解する者はわずかしかいなかったんだ。……モーツァルト、世の中の多くの人々は、正しく価値判断が下せない。

 偉い人が褒めているから素晴らしい。

 みんなが楽しんでいるから楽しいに違いない。

 沢山金がかかっているから価値のあるものなんだ。

 それが、人々の判断だ。私は、そんな人々からずっと褒め称えられてきた。分かるか?

 正しく価値判断が下せない人々に、価値ある人間だともてはやされる苦痛を、長年味わってきたのだ!

……それがどのようなものか、君に想像がつくのかい?」


 真っ向から目を見据えられ、落ち着いた口調からの、魂の叫び、そしてまた穏やかな、そして悲しい微笑みを向けられたモーツァルトは、その場に膝をついた。


 分かってしまったのだ。天才であるが故に。人々が彼の高みについて来れなくなってしまったが故に。その高みを知る者が人々にもてはやされる苦しみの意味を。


 サリエーリは、彼をもてはやす人々から「お前はその程度の作曲家だ」と責められ続けてきたようなものなのである。


「……あああ、何故、何故音楽はかくも残酷なのか」


「いいや、音楽は神が与えたもうた幸福だ。モーツァルト、君はどんなに人気が衰えても、迎合する事無く自分の理想とする音楽を追い求めた。それは何故だい? 素晴らしい音楽が好きだからではないか」


 力無く首を振るモーツァルト。そんな事は分かっている、だがそれだけではないのだ。


「好きな音楽を作っていれば腹がふくれる世界に生まれたかった」


 モーツァルトの頬から、涙がこぼれる。サリエーリは無言でうなずくと、神の愛を受けられなかった天才を強く抱きしめ、共に涙を流すのだった。

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