一七九一年一月二五日、レーオポルト二世はサリエーリをイタリア・オペラ指揮者から解任した。他にもダ・ポンテやローゼンベルク伯爵も解任される。
ダ・ポンテはサリエーリの差し金で解雇されたと恨み言を言うが、そのダ・ポンテがサリエーリは皇帝に嫌われて宮廷劇場から追放されたと証言している。矛盾した発想だが、それほどショックを受けて思考の辻褄が合わなくなっていたのだ。後に彼はスキャンダルで皇帝の不興を買いヴィーンから追放される。
レーオポルト二世はサリエーリを宮廷礼拝堂の宗教音楽指揮者に任命し、オペラは必要があれば年一作書けばいいと伝えた。
イタリア・オペラ指揮者にはサリエーリの弟子であるヴァイグルが、宮廷詩人には《やきもち焼きの学校》を書いたマッツォーラが任命される。ローゼンベルク伯爵の後任となったヨハン・ヴェンツェル・ウガルテ伯爵は「オペラ指揮者には配役と歌手団に口出しする権利がない」と言ってオペラ上演に関する全ての権限を自分に集中させた。
「あの皇帝は何を考えてるんだ? パパ・サリエーリにオペラを書かせないなんて」
モーツァルトがレーオポルト二世の宮廷劇場人事に不満を述べた。だがサリエーリは涼しい顔をして言う。
「簡単な事さ、レーオポルト二世は先帝の行った全ての行いを消し去り、宮廷を完全に自分のものにしたいんだ」
それでも不満そうなモーツァルトに、サリエーリが悪戯を思いついた子供のような顔で提案した。
「ところで、新作の準備は順調かい? もう一作、オペラを作る余力があるならお願いしたい事があるんだ」
レーオポルト二世はボヘミア王としても戴冠する必要がある。そう遠くないうちに祝賀用のオペラを依頼されるだろう事が分かっていた。七月にプラハの興行師ドメーニコ・グアルダゾーニが委託を受け、作曲をサリエーリに依頼した。それをサリエーリは宮廷劇場の仕事が忙しいからと断る。この時は実際にヴァイグルの仕事を代行して宮廷劇場の仕事も兼務していたのだが、これによりモーツァルトに作曲依頼が行く。
モーツァルトは二〇〇ドゥカートという高額の報酬を提示され、引き受けた。マッツォーラ台本のオペラ・セーリア《皇帝ティートの慈悲》である。
モーツァルトは弟子のフランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤーと共に戴冠式の行われるプラハへ八月二八日に到着する。
八月三一日、プラハの聖ヴィートゥス大聖堂でサリエーリは
ここでサリエーリは自作を演奏せず、モーツァルトの曲を演奏した。そのさらに二日後、九月六日の正式な戴冠式ではサリエーリの指揮でモーツァルトのミサ曲を演奏し、サリエーリの曲は演奏しなかった。その夜、《皇帝ティートの慈悲》が国立劇場で上演される。これは皇妃マリーア・ルイーゼに「ドイツ人の汚らしいもの」と酷評されたが、プラハでは九月いっぱい再演され、喝采をあびた。
サリエーリはその他にも九月八日に皇女マリーア・アンナのプラハ王立女子修道院長就任式典でモーツァルトの《ミサ》を指揮し、九月一二日に行われた皇妃マリーア・ルイーゼのボヘミア王妃戴冠式典でもモーツァルトの戴冠ミサを指揮した。
徹底的にモーツァルトの曲を指揮し、自作を演奏しないサリエーリの意図を誰もが勘ぐる。皇帝に冷遇されている事への抗議の表れとする者もいたが、サリエーリは一貫してこう主張した。
「最高の式典に、最高の音楽を用意させて頂いたものであります」
式典が終わり、モーツァルトはサリエーリを訪ねた。
「あれはいくら何でもやりすぎだったんじゃない?」
そう言いながらも、彼の顔には悪戯を成し遂げた子供のような笑みが浮かんでいた。同じ笑みを浮かべるサリエーリは、悪びれた様子もない。
「いやいや、まだ足りないぐらいさ。徹底的にモーツァルトの存在をアピールしないとな。陛下はずっと君の存在を無視し続けていたから、これでやっと目に入っただろう」
二人は、これまでで一番仲良く接していた。まるで共に生まれ育った幼馴染のように。
さて、少し時間が戻り、モーツァルトはジングシュピールの興行師エマーヌエル・シカネーダーと一七八〇年ザルツブルグで知り合っていた縁で作曲を依頼された。一七九一年五月にモーツァルトはジングシュピール《魔笛》の作曲を開始していたのである。
前述の《皇帝ティートの慈悲》はその作曲を中断し、十八日間で書き上げたものだ。
六月になってモーツァルトの妻コンスタンツェがバーデンへ湯治に行くと、シカネーダーはモーツァルトが作曲に専念できるように小屋を建てた。この小屋は後年『魔笛の小屋』と呼ばれるようになる。
モーツァルトはこの《魔笛》を、貴族ではなくヴィーンの一般大衆が見るためのジングシュピールとして作るのであった。