モーツァルトは《レクイエム》が自分の死を暗示しているのではないかという恐怖にかられながらも作曲を続けた。
この曲の報酬は四五〇フローリンで、前金として二二五フローリン手渡された。たった一曲、葬送曲を作るだけでオペラ一作分に匹敵する報酬が得られるのだ。困窮していたモーツァルトが断れるはずがなかった。
九月末の《魔笛》初演後は、自分が命を狙われているのではないかという不安が心を蝕んでいく。
長い事金に困り、知人に無心をしてきた生活も、彼の心と身体を弱らせていった。そしてついに一一月二〇日、モーツァルトは病に倒れるのだ。
この《レクイエム》の依頼者は、実はモーツァルトを怖がらせる意図など持っていなかった。正体はフランツ・ヴァルゼック・フォン=シュトゥパッハ伯爵という音楽好きの貴族で、二月に亡くなった妻アンナのための葬送曲を必要としていたのだ。
彼は有名作曲家に曲を作らせては自分でパート譜におこして自前の楽団に演奏させ、誰の作品かを当てさせるという趣味を持つ変わり者だった。
自分の妻のための葬送曲でもそれをやろうとしたところに彼の変人ぶりがうかがえるが、それが偶然モーツァルトの貧困や反体制的なジングシュピール発表と重なり、致命的な
病床にあるモーツァルトをサリエーリが見舞う。そしてその姿に強いショックを受けた。モーツァルトはまだ三五歳なのに、かつて自分が見舞ったガスマンやグルックと同じように死の淵にいたのだ。
「モーツァルト……君はまだ若いんだ。もっともっと、多くの曲を作らないと」
震える手でモーツァルトの手を握り、口づけをする。その耳に、か細い声が届いた。
「リーバー・パパ……来てくれて、ありがとう」
弱々しく手を握り返し、また意識を失った親友の姿に、サリエーリは涙を禁じ得なかった。
「夫はずっと毒殺を恐れていました。もしや誰かが彼に毒を盛ったのでは」
モーツァルトの妻コンスタンツェがそう言うと、サリエーリは首を振った。
「毒を盛られた痕跡があれば、主治医のクロセット博士が見逃すはずがありません」
直前には義理の兄フランツ・ホーファーらと共に《レクイエム》の出来上がっていた部分を歌っていたのだ。毒による衰弱の兆候があれば本人からの聞き取りで判断がつく。何よりも、毒殺となれば一番に疑われるのは最も近しい人間、すなわちコンスタンツェ自身である。サリエーリはそのような余計な嫌疑を生む証言をするべきではないと諭したのだった。
一二月五日、モーツァルトは帰らぬ人となる。博士の診断は発疹を伴う熱の一種というものだった。診断名としては『急性
いずれにせよ、モーツァルトは病気によってこの世を去ったのである。
次の日、スヴィーテン男爵が中心となって聖シュテファン大聖堂で葬儀が行われた。そして一〇日、宮廷の聖ミヒャエル教会で更なる葬儀が行われ、モーツァルトの未完の《レクイエム》から〈入祭唱〉と〈キリエ〉がサリエーリの指揮にて演奏された。
神童と呼ばれた天才作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、三六年に満たない生涯において、実に六二六作もの曲を作り上げたのだった。その人生はあまり品行方正とは言えないものだったが、常に音楽と共にあった。
(私がもっと強くモーツァルトを推していれば、違う結果になったのだろうか? あるいは仕事の斡旋をもっと積極的に行えば……)
その天才に見合った評価を得られぬまま、若くしてこの世を去ったモーツァルト。神の愛を受けられなかった不憫な親友を思い、サリエーリは後悔と自責の念にかられるのだった。
「めざわりなドイツ人が勝手に死んでくれたぞ。空席になった宮廷室内作曲家に相応しい人物を呼ぼうじゃないか」
レーオポルト二世は自分のお気に入りの作曲家がヴィーンに来ていたので、宮廷に招き入れる。その名はチマローザ。女帝エカチェリーナ二世の宮廷楽長を務めていたが任期切れとなり、かつてヨーゼフ二世に歓待されたヴィーンにやってきたのだ。トスカーナ大公時代に彼の肖像画を自室に飾るほど惚れこんでいたレーオポルト二世は音楽に興味が無かったわけではないのだったが、兄のお気に入りより自分のお気に入りを優遇したかったのだ。
一七九二年二月七日、ブルク劇場にて皇帝の寵愛を受ける宮廷室内作曲家チマローザの《秘密の結婚》が初演され、大成功を収める。サリエーリは窮地に立たされるのだが、ここでもまた彼に幸運が舞い降りた。
わずか一ヶ月後の一七九二年三月一日、レーオポルト二世は急死する。彼は非常に性欲旺盛で大量の妾を持ち、性的な快楽に溺れていた。それが祟って身体を壊したのだった。皇后マリーア・ルイーゼも後を追うように五月一二日に亡くなり、彼等の長男フランツが皇帝となった。
これによりサリエーリは窮地を脱し、先帝と同じような寵愛を受けられないと知ったチマローザはヴィーンを後にするのだった。
モーツァルトの分も吸い取っているのではないかと思えるほど、人生が幸運の連続であったサリエーリは、親友の不幸な人生を思い出す度にわきあがる複雑な気持ちを拭えずにいた。