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第4話

私は深く息を吐いた。


気持ちを落ち着かせてから、何より気がかりだったのは、あの二人の子どもたちのことだった。


安倍芙絵が彼らをどう育ててきたのか。そう考えれば考えるほど、不安が胸をよぎる。


「夕鈴、少し西席に断って、若君をこちらに連れてきて。」


私はそう命じて、庭の東屋に身を置いた。ほどなくして、彰忠がやって来た。


まだ幼さの残る顔に、二つのお団子髷まげを結っている。

ふっくらとした頬は赤みを帯びて、どこか澄信の面影が浮かぶ。けれど、その表情には、まるで笑みがない。


夕鈴がそっと耳打ちした。


「若君、こちらが母君様です。」


彰忠は、もじもじと視線を落としながら、小さな声で言った。


「……お母さま。」


私は、しばらく言葉も出せず、ただ彼を見つめた。視界が滲んでいく。


私がいなくなった時、彼はまだ一歳だった。

こんなに大きくなって……


震える手で、そっと彼の頬に触れようとした。けれど、彰忠はすっと身体を引いて、それを避けた。


私は手を引っ込め、苦笑を浮かべる。


「怒ってはいないわ。少し話を聞かせて。あなたのお父さまと、橘夫人は……どうだった?」


彼は少し口を尖らせて答える。


「父上は、出世のことで忙しくて、あまり私たちに構ってくれません。でも橘夫人は、僕の好きなものをよく覚えていて、いつもおいしいものを用意してくれます。先生も、彼女が探してくれた人です。」


彼の瞳が、安倍芙絵の名を出した途端に明るくなるのを、私は見逃さなかった。


胸の奥に、苦いものが込み上げてくる。だが少なくとも、虐げられてはこなかったようだ。


私は、無理に笑みを浮かべた。


彼は真っ直ぐ私を見上げて、尋ねてきた。


「でも母上、どうして戻ってきたんですか?」


その言葉に、私は笑みを凍らせた。


彼は気づかないまま、話を続ける。


「橘夫人は、どうなるんですか?」


私は心を静めて答える。


「彼女はあなたの父上の妻。それは変わらないわ。」


「じゃあ……母上は?」


「私は、もう他の人と結婚したの。だけど、あなたとあやめのことが気がかりで……それで戻ってきた。」


私が言い終わる前に、彰忠は目を見開いて、声を荒げた。


「……他の人と?」


私は頷いた。


彼の顔が、怒りに染まっていく。


「母上は、外で何年もどう生きていたのか分からないけど、もう名誉なんてないんでしょ?そんな人を、誰が娶るっていうの?そんな人に、父上の代わりが務まるはずがない!」


そうか。澄信の言葉は、彼にも受け継がれていたのか。


目の前の少年は、確かに私の息子だ。けれど、どこか遠く、別人のようにも思えた。


私はじっと彼の顔を見つめた。


「その言葉、誰に教わったの?」


彰忠は、唇を固く結び、何も言わなかった。


……答えは、もう見えている。


私はそっと目を伏せ、ため息混じりに言った。


「私が戻ってきたのは、あなたをもう一度、私の手で育てるため。だから、あなたの師匠も替えるわ。」


彰忠の眉がぴくりと動いた。


「母上は、もう他の家の人でしょ?なのに、どうして橘家のことに口を出すの?」


数言交わすだけで分かる。

彼はもう、誰かの言葉に染まってしまっていた。それでも、私は彼を憎めなかった。


だって、私は彼を育ててこなかったのだから。


私は、腰の守り刀の鞘を外し、そっと彼に差し出す。


「いつか……もし、あなたが後悔する日が来たら、これを持って、私のもとへ来なさい。私は一度だけ、あなたを助ける。ただし、条件つきよ。」


彰忠は迷いながらも、それを受け取った。

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