私は深く息を吐いた。
気持ちを落ち着かせてから、何より気がかりだったのは、あの二人の子どもたちのことだった。
安倍芙絵が彼らをどう育ててきたのか。そう考えれば考えるほど、不安が胸をよぎる。
「夕鈴、少し西席に断って、若君をこちらに連れてきて。」
私はそう命じて、庭の東屋に身を置いた。ほどなくして、彰忠がやって来た。
まだ幼さの残る顔に、二つのお
ふっくらとした頬は赤みを帯びて、どこか澄信の面影が浮かぶ。けれど、その表情には、まるで笑みがない。
夕鈴がそっと耳打ちした。
「若君、こちらが母君様です。」
彰忠は、もじもじと視線を落としながら、小さな声で言った。
「……お母さま。」
私は、しばらく言葉も出せず、ただ彼を見つめた。視界が滲んでいく。
私がいなくなった時、彼はまだ一歳だった。
こんなに大きくなって……
震える手で、そっと彼の頬に触れようとした。けれど、彰忠はすっと身体を引いて、それを避けた。
私は手を引っ込め、苦笑を浮かべる。
「怒ってはいないわ。少し話を聞かせて。あなたのお父さまと、橘夫人は……どうだった?」
彼は少し口を尖らせて答える。
「父上は、出世のことで忙しくて、あまり私たちに構ってくれません。でも橘夫人は、僕の好きなものをよく覚えていて、いつもおいしいものを用意してくれます。先生も、彼女が探してくれた人です。」
彼の瞳が、安倍芙絵の名を出した途端に明るくなるのを、私は見逃さなかった。
胸の奥に、苦いものが込み上げてくる。だが少なくとも、虐げられてはこなかったようだ。
私は、無理に笑みを浮かべた。
彼は真っ直ぐ私を見上げて、尋ねてきた。
「でも母上、どうして戻ってきたんですか?」
その言葉に、私は笑みを凍らせた。
彼は気づかないまま、話を続ける。
「橘夫人は、どうなるんですか?」
私は心を静めて答える。
「彼女はあなたの父上の妻。それは変わらないわ。」
「じゃあ……母上は?」
「私は、もう他の人と結婚したの。だけど、あなたとあやめのことが気がかりで……それで戻ってきた。」
私が言い終わる前に、彰忠は目を見開いて、声を荒げた。
「……他の人と?」
私は頷いた。
彼の顔が、怒りに染まっていく。
「母上は、外で何年もどう生きていたのか分からないけど、もう名誉なんてないんでしょ?そんな人を、誰が娶るっていうの?そんな人に、父上の代わりが務まるはずがない!」
そうか。澄信の言葉は、彼にも受け継がれていたのか。
目の前の少年は、確かに私の息子だ。けれど、どこか遠く、別人のようにも思えた。
私はじっと彼の顔を見つめた。
「その言葉、誰に教わったの?」
彰忠は、唇を固く結び、何も言わなかった。
……答えは、もう見えている。
私はそっと目を伏せ、ため息混じりに言った。
「私が戻ってきたのは、あなたをもう一度、私の手で育てるため。だから、あなたの師匠も替えるわ。」
彰忠の眉がぴくりと動いた。
「母上は、もう他の家の人でしょ?なのに、どうして橘家のことに口を出すの?」
数言交わすだけで分かる。
彼はもう、誰かの言葉に染まってしまっていた。それでも、私は彼を憎めなかった。
だって、私は彼を育ててこなかったのだから。
私は、腰の守り刀の鞘を外し、そっと彼に差し出す。
「いつか……もし、あなたが後悔する日が来たら、これを持って、私のもとへ来なさい。私は一度だけ、あなたを助ける。ただし、条件つきよ。」
彰忠は迷いながらも、それを受け取った。