「出雲国だと?」
澄信の声が、ひときわ大きく響いた。
長い沈黙の後、彼は私をじっと見つめ、やがて何かに気づいたように、唇を吊り上げた。
その目に浮かぶのは、疑念と、見下しと、嘲り。
「……なるほどな。これが、お前の手か。俺を揺さぶるために、一度下がってから攻め直す。そういうつもりか。だが言っておく。芙姫は正式に迎えた妻だ。お前に譲る理由など、どこにもない。」
彼のその自信に、私は思わず笑いそうになった。
それは、彼自身へのあまりにも過剰な信頼。そしてかつて私が見抜けなかった、驕りの姿。
「……私の夫は、出雲国にいます。」
その言葉に、澄信の表情が凍りつく。顔から血の気が引き、口元がわずかに開いたまま、言葉が出てこない。
「……出雲国で、嫁いだと?」
私は頷き、あやめの手を引いて、彼の脇を通り過ぎようとした。
そのとき、袖が引かれた。
澄信の手が、私の衣を乱暴に掴み、布が破れかけるほどの力が込められていた。その顔は、怒りと、取り乱しと、執着に染まっている。
「……信じられるものか。」
「俺は今や、皇子に仕える身、式部大輔の位にある。お前はその地位を捨ててまで出雲国の国司や郡司など、お前にふさわしい男がいるものか?あんな寒村で、貧しい暮らしに甘んじるのか?」
口調は次第に荒くなりながらも、声は震えていた。
私が振り返ると、澄信は悔しさを滲ませたまま、目を逸らそうともしない。
「……澄信、私はあなたとは違う。私が欲しいのは、肩書きでも地位でもない。私が欲しいのは、その人自身。」
澄信は、それでもなお手を放さなかった。
その目には、濡れたような光が宿り、けれど口元は固く結ばれ、怒りが勝っていた。
「じゃあ……あやめと彰忠はどうするつもりだ?子どもたちも、どうでもいいのか?」
あやめは不安げに私の手を握りしめ、肩を震わせた。
「あやめは、私と一緒に行くわ。彰忠のことは……」
私は視線を伏せ、わずかに間を置いた。
「彼が望むなら、ここにいればいい。」
私はもう、彼に選択肢を与えた。それだけで、十分だった。
澄信はなおも立ちはだかろうとする。
私はあやめの手を一度だけ離し、懐から細剣を取り出し、掴まれた衣を一気に断ち切った。
布が裂ける音。
その瞬間、屋根の上から護衛が舞い降り、太刀を横たえて澄信を制止する。
彼は動けなくなりながらも、なお歯を食いしばる。
「……あやめは、橘の姓を持つ子だぞ。」
私はあやめの手を再び取って、澄信に背を向ける。
「もう、橘ではありません。」