私はあやめを連れて、藤原家へ戻った。
その頃、景久は宮中に宿泊しており、陛下との政務に勤しんでいた。
私はその間、久しぶりに父母のもとで静かな時間を過ごすことができた。あやめは旅の疲れもあって、早々に眠りについた。
私は灯りを灯し、帳簿を広げて、筆を取る。
橘家に置いてきた
夜も更けた頃、ようやく筆を置き、休むことにした。
翌朝、まだ空が白むころ、私は牛車数台と、数十名の従者を従えて、橘家へ赴いた。
何の隠し立てもなく、公然と。
安倍芙絵が慌ただしく駆けつけたのは、ちょうど藤原家の奥女中が、持参金の目録を手に、中身をひとつひとつ確認しているときだった。
目を丸くした芙絵が、私のもとへ駆け寄ってきた。
「お姉さま……これは、何かの誤解ではありませんか?」
「ご主人様は、まだお姉さまと和離されていないのに……こんなにも急いで橘家と縁を切るなんて……」
私は彼女の言葉を静かに聞き、ふと微笑んだ。
「聞いているわよ、澄信があなたを娶ったとき、
芙絵は、ほんの一瞬驚きの表情を見せ、頬に淡い紅を浮かべてうなずいた。
「……はい。」
「それなら、あなたは正式に迎えられた正妻。」
「この国において
芙絵は目を伏せ、視線を揺らがせた。その手が私の袖口を掴み、膝を折りかける。
「やはり……お姉さまは、そこを気にされていたのですね。芙姫は、妾でも構いません。正室の座をお姉さまにお返しします。」
私は理解できなかった。
なぜ彼女は、わざわざ
澄信に「妻を妾にした」という汚名を着せることが、どれほどの政治的失態であるか、彼女は分かっているはずだ。
それとも……
私は嫌悪を押さえきれず、彼女の手を強く振り払い、芙絵はよろめいて尻もちをつき、濡れたような瞳で私の背後を見上げた。
その姿は、髪も乱れ、儚げながらもどこか芝居がかっている。
……来たのだな。
私は気づいた。澄信が、背後に立っている。
だが、彼は芙絵を助け起こそうとはせず、私の前に進み出てきた。目の下には濃い影が落ち、やつれた顔には明らかに疲労の色が滲んでいた。
「もう調べた。」
「お前が京に戻ってきた時、藤原家の牛車には乗っていなかった。その代わり、非常に格式の高い牛車だったと。」
「そんな乗り物に乗れるのは、尋常の身分の者ではない。」
「出雲国で、お前は孤児だったはずだ。つまり、あれは……」
彼の言葉が止まった。目が揺らぎ、唇がかすかに震える。
「……お前が夫と呼ぶ、その男のものだろう。」
「だが、出雲国でそれほどの地位にある者は、すでに全員が結婚している。」
「まさか、お前……妾として生きているのか? それとも……外室か?」
それ以上、聞きたくなかった。
私は、近くに置かれていた女中のそろばんを手に取り、躊躇なく彼めがけて投げつけた。ずしりと重い紫檀の和算盤が、澄信の肩を直撃する。
「……っ!」
彼は痛みに呻きながら、肩を押さえ、額には冷や汗が滲んでいた。
安倍芙絵は悲鳴を上げ、怒りに満ちた眼差しで私を睨みつける。
「殿は、朝廷の高官です! あなた、何様のつもりでそんな真似を!」
私は、怒りに震える指で澄信を指差した。
「この男は、公の場で私の名誉を貶めた。それが、どういう意味を持つか、分かって言っているのか?」
そのとき、人垣の中から、彰忠の声が上がった。
「父上が、何か間違ったことを言いましたか?」
幼さを残しながらも、まっすぐな声だった。私は冷たい視線で彼を見据えた。もはや、情など残っていない。
「橘彰忠、跪きなさい。」
夕鈴が進み出て、彰忠の肩を押して、土下座を促す。決して優しい力ではなかった。
彰忠は眉をひそめ、苦しそうにうめきながらも、なお言い返した。
「どうして、僕があなたに跪かねばならないんですか!」
私は、一片の揺らぎもなく、告げた。
「第一に、私はお前の生母。母に子が跪くのは当然。」
「第二に、私は斎宮親王妃。僕は君主で、君はその家臣。跪くのも、また当然。」