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第9話

澄信は、私をじっと見つめたまま、しばらく言葉を失っていた。


まるで、目の前に立つ私が、もう見知った女ではないとでも言いたげに。


橘彰忠もまた、呆然としていた。口を開こうとしても、言葉が出てこない。

そんな中、ただ一人、安倍芙絵だけが冷静さを装って立ち上がり、優美な笑みを崩さぬまま、私を見据えて言った。


「斎宮親王妃様は、確かに舞陽姫君ぶようのひめぎみとも伺いましたが……それはとても高貴な方。殿下にふさわしい御方ですわ。まさか、姉さまが、そのお方を騙っているなどとは?ここには外の者はおりません。今ここで訂正なされば、この件は表には出ませんわ。」


澄信はようやく我に返り、嗄れた声で問いかける。


「そもそも、王府の門をどうやってくぐった? 斎宮親王ほどの方が、わざわざ身元の怪しい、年上の女など選ぶわけがない……」


その言葉に、傍らの夕鈴が思わず吹き出した。


「ふふ……橘大人、今さら自分をごまかしても、仕方ありませんのに。」


私は黙って彼を見つめた。証明の言葉を重ねることに、もはや興味はない。


「殿下は、あなたのような人とは違います。」


そのひとことを残して、私は奥女中に持参金の確認を続けさせた。


次々と唐櫃が担ぎ出されていく中、私は扉をまたぎ、外へと歩き出す。後ろで喧騒が広がっていても、振り返る気にはなれなかった。


そのとき、橘彰忠がつまずきながらも追いかけてきた。


「……母上、本当に……行ってしまうのですか?」


私は立ち止まり、ほんの一瞬だけ振り返る。


そして、その背後にいる安倍芙絵をひと睨みして言った。


「あなたの母上は、そこに立っているじゃない。」


彰忠は言葉を詰まらせ、肩を落とした。私は黙って牛車に乗り込んだ。


もう、振り返ることはなかった。

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