目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第10話

私は他言を好まない。


景久が私に向ける感情は、年齢でも、身分でもなく。ただ、へのものだった。


出雲国へたどり着いた当初、私は手元に残った唯一の耳飾りを売り、紙と墨を買った。草紙に絵を描き、それを生業にして暮らし始めた。

ある日、私の絵を見た国司の夫人が、「これはただ事ではない」と目を留めてくれた。


反対を押し切り、私を屋敷へ迎え入れ、姫君や若君たちへの絵の手ほどきを任せてくれたのだった。



翌年。


文人たちの集いにおいて、国司の次男が描いた絵が評判を呼び、その縁で斎宮親王・景久殿下が、彼の絵師を見たいと仰った。


そのこそが、私だった。


その日、私はまだ顔に谷で負った傷が残っていたため、面紗を付けて王府を訪れた。


景久は高座に座し、白玉のように清らかな佇まいだった。

手にしていたのは印籠いんろう


それを弄びながら、静かに私に尋ねた。


「汝は、どの師に学んだのか?」


記憶を失っていた私は、何も思い出せず、ただ静かに答えた。


「……独学です。」


景久は小さくため息をついただけで、咎めることもせずやがて立ち上がり、一枚の絵を私に見せた。


それは、未完成の一幅だった。


「この絵を、模写し、完成させることはできるか?」


その筆致には、見覚えがあった。幼いころの私が描いたような、未熟だが、確かに心がこもった線。

私はしばらく目を凝らして言った。


「……可能かと存じます。ただ、少々お時間を頂きます。」


こうして私は、斎宮親王の絵師となった。


もっとも、本当は二日もあれば描ける絵だった。だが、長く時間をかければ、その分だけ俸禄が入る。

景久は急かさなかった。時折絵の様子を見に来ると、ほんの少し話をして帰っていった。

「焦ることはない。彼女は才を持っていた。模写が遅くとも、仕方のないことだ。」

……そう言いながら、目を細めて微笑んだ。


次第に、私も遠慮なく口を開くようになった。


「殿下は、この絵をどこで?」


彼は少しだけ目を伏せ、答えた。

大宮御所母上より譲り受けた。文定二十三年、大宮御所の寿宴で、名家の姫君たちが招かれ、彼女もその場にいた。そして、この絵を献上したのだ。」

私は絵の隅にある署名に目を向けた。


――甲辰きのえたつ


私が裳着を受けた年。景久は、そのときまだ十二歳だった。


「……とは?」


と尋ねると、彼は一言だけ、こう答えた。


「……憧れた人だ。」


それは、恋というよりも、深い敬慕の念のようだった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?