景久は、私によく話をしてくれた。
夜が更け、私は筆をとって絵を描く。
彼は庭の石の腰掛けに座り、月光をその身に浴びながら、杯を小さく傾ける。
「……実のところ、彼女のことは数えるほどしか会っていない。」
私は筆を止め、そっと耳を澄ます。墨を磨く手をゆっくりと動かしながら、聞き逃すまいと息を潜めた。
「幾重にも垂れた御帳越しに見ただけだが、その瞬間、もうこの世の人ではないと思った。」
……彼は、しみじみと語る。
私はその語りに夢中になりすぎて、墨を磨き続ける手が止まらなかった。
ふと彼が眉をひそめて言った。
「もう半刻も墨を磨いているな。」
たかが数回の邂逅。されど、それを語る彼の声には、半刻の時間では収まらない情が込められていた。
私は咄嗟に筆を取り、画布へと向かった。沈黙がしばし続いた後、彼はぽつりと口を開いた。
「……文定二十四年。彼女は婚礼を挙げた。私が封国へ向かう、ちょうどその前年のことだった。」
思わず、私は彼を振り向いた。彼は少し体を仰け反らせ、手の甲で目元を覆っていた。
月光に満たされた庭は静まり返り、彼の溜息だけがやけに響いた。
「……彼女が、幸せならば……それでよかったのだが。」
私は続きを待った。けれど彼は、それ以上何も語らなかった。
やがて手を下ろし、照れ隠しのように私を睨んで言った。
「……いいから、早く描け。」