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第11話

景久は、私によく話をしてくれた。


夜が更け、私は筆をとって絵を描く。


彼は庭の石の腰掛けに座り、月光をその身に浴びながら、杯を小さく傾ける。


「……実のところ、彼女のことは数えるほどしか会っていない。」


私は筆を止め、そっと耳を澄ます。墨を磨く手をゆっくりと動かしながら、聞き逃すまいと息を潜めた。


「幾重にも垂れた御帳越しに見ただけだが、その瞬間、もうこの世の人ではないと思った。」


……彼は、しみじみと語る。


私はその語りに夢中になりすぎて、墨を磨き続ける手が止まらなかった。


ふと彼が眉をひそめて言った。


「もう半刻も墨を磨いているな。」


たかが数回の邂逅。されど、それを語る彼の声には、半刻の時間では収まらない情が込められていた。


私は咄嗟に筆を取り、画布へと向かった。沈黙がしばし続いた後、彼はぽつりと口を開いた。


「……文定二十四年。彼女は婚礼を挙げた。私が封国へ向かう、ちょうどその前年のことだった。」


思わず、私は彼を振り向いた。彼は少し体を仰け反らせ、手の甲で目元を覆っていた。


月光に満たされた庭は静まり返り、彼の溜息だけがやけに響いた。


「……彼女が、幸せならば……それでよかったのだが。」


私は続きを待った。けれど彼は、それ以上何も語らなかった。


やがて手を下ろし、照れ隠しのように私を睨んで言った。


「……いいから、早く描け。」

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