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第2話 喰えぬ灯りを

灰の大地に火が灯された。


 俺の身体は、瞬間的に硬直した。

火は禁忌だった。

灰に埋もれたこの世界で、火を灯すことは、過去の記憶を呼び覚まし、忘却を裂く行為だ。


 火は忘れ去られた歴史の残滓。

灰の下で封じられたはずの真実の証明だった。


それでも――彼女は火を灯した。


神の眼窩の中。


 漆黒の闇のなか、古代の巨神の骨に囲まれて揺れる火は、細く弱く、それでいて確かな存在感を放つ。

灰の冷たさに囲まれて、その火だけが唯一の暖かさを湛えていた。


 俺は息を呑む。

火の揺らぎに呼応し、灰が微かに舞う。

そこに、かすかな人影が浮かび上がる。


 女だ。


 いつも見ているよな人の形ではない。

だが、生きている者の気配が、確かにそこにあった。


 斧を腰に差したまま、神の顎の骨を乗り越える。

灰の音がかすかに響き、足元が崩れ落ちる感覚。

火に近づくほど、胸の奥がざわつく。


不安と期待が入り混じった、妙な感覚だった。


「何をしている」


声をかけると、女はゆっくり振り返った。


 火の光に照らされたその顔は、まだ輪郭がぼやけている。

だが、目があり、鼻があり、口がある。

灰に覆われていても、どこか温かみのある表情だった。


「名はまだない」


その声は細く震えていた。


空腹の音が腹の奥から響く。


 女は腹を押さえ、かすかに震えた。

灰だけでは満たされぬ飢え。

火を灯したのは、その飢えに抗うためだったのかもしれない。


「火を喰うのか?」


俺は問いかけた。


女は首を振る。


「違う。これは灯り――“記憶の残火”なの」


その言葉は謎めいていた。


 だが、なぜか懐かしく、俺の骨の奥にまで響き渡る。


「火は食べられない。だが、思い出せる」


「何を?」


「なぜ、灰を喰うしかなかったのかを」


 それは誰も語らぬ秘密。

灰を喰うことは生きる術であり、祝福でもあった。

だが、選択の余地はなかった。

灰を吸い、詰めること以外に、生きる道はなかった。


「だから火を灯した」


 女は言い、灯りを神の骨のくぼみに置いた。


その灯りは、ここに息づく何かの象徴だった。


「まさか……神はまだ……?」


 俺の声は思わず漏れた。喉が締め付けられる感覚だ。


女は首を振る。


「神は死んだ。

だが、思い出そうとしている」


「誰が?」


「神が。私たちが。かつてのすべてが」


 俺は斧を引き抜いた。

鉄の冷たさが掌に伝わる。

この斧は俺の存在の証明。


斧を神の大きな顎の骨に静かに置き、俺は問う。


「その火で、何が見える?」


女は斧を見て、再び灯りの奥に視線を戻す。


「まだ、ぼんやりと」


「何が?」


「心臓。あの奥に、脈打つものがある」


俺は息を呑む。

神の心臓。

禁忌の奥深く。

肉も骨も超えた深淵の中心。


火も斧も届かぬその場所に、彼女は脈動を見た。


「見せてやる」


俺は斧を手に取り、火の奥へ足を踏み出した。


 灰が崩れ、細かな塵が舞い上がる。

一歩一歩が、時間を揺らすような感覚だった。


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