灰の大地に火が灯された。
俺の身体は、瞬間的に硬直した。
火は禁忌だった。
灰に埋もれたこの世界で、火を灯すことは、過去の記憶を呼び覚まし、忘却を裂く行為だ。
火は忘れ去られた歴史の残滓。
灰の下で封じられたはずの真実の証明だった。
それでも――彼女は火を灯した。
神の眼窩の中。
漆黒の闇のなか、古代の巨神の骨に囲まれて揺れる火は、細く弱く、それでいて確かな存在感を放つ。
灰の冷たさに囲まれて、その火だけが唯一の暖かさを湛えていた。
俺は息を呑む。
火の揺らぎに呼応し、灰が微かに舞う。
そこに、かすかな人影が浮かび上がる。
女だ。
いつも見ているよな人の形ではない。
だが、生きている者の気配が、確かにそこにあった。
斧を腰に差したまま、神の顎の骨を乗り越える。
灰の音がかすかに響き、足元が崩れ落ちる感覚。
火に近づくほど、胸の奥がざわつく。
不安と期待が入り混じった、妙な感覚だった。
「何をしている」
声をかけると、女はゆっくり振り返った。
火の光に照らされたその顔は、まだ輪郭がぼやけている。
だが、目があり、鼻があり、口がある。
灰に覆われていても、どこか温かみのある表情だった。
「名はまだない」
その声は細く震えていた。
空腹の音が腹の奥から響く。
女は腹を押さえ、かすかに震えた。
灰だけでは満たされぬ飢え。
火を灯したのは、その飢えに抗うためだったのかもしれない。
「火を喰うのか?」
俺は問いかけた。
女は首を振る。
「違う。これは灯り――“記憶の残火”なの」
その言葉は謎めいていた。
だが、なぜか懐かしく、俺の骨の奥にまで響き渡る。
「火は食べられない。だが、思い出せる」
「何を?」
「なぜ、灰を喰うしかなかったのかを」
それは誰も語らぬ秘密。
灰を喰うことは生きる術であり、祝福でもあった。
だが、選択の余地はなかった。
灰を吸い、詰めること以外に、生きる道はなかった。
「だから火を灯した」
女は言い、灯りを神の骨のくぼみに置いた。
その灯りは、ここに息づく何かの象徴だった。
「まさか……神はまだ……?」
俺の声は思わず漏れた。喉が締め付けられる感覚だ。
女は首を振る。
「神は死んだ。
だが、思い出そうとしている」
「誰が?」
「神が。私たちが。かつてのすべてが」
俺は斧を引き抜いた。
鉄の冷たさが掌に伝わる。
この斧は俺の存在の証明。
斧を神の大きな顎の骨に静かに置き、俺は問う。
「その火で、何が見える?」
女は斧を見て、再び灯りの奥に視線を戻す。
「まだ、ぼんやりと」
「何が?」
「心臓。あの奥に、脈打つものがある」
俺は息を呑む。
神の心臓。
禁忌の奥深く。
肉も骨も超えた深淵の中心。
火も斧も届かぬその場所に、彼女は脈動を見た。
「見せてやる」
俺は斧を手に取り、火の奥へ足を踏み出した。
灰が崩れ、細かな塵が舞い上がる。
一歩一歩が、時間を揺らすような感覚だった。