時間が少し経ち、神の顎を越えた外縁部に戻ってきた。
男は打って変わって、いつもの無表情の硬い顔ではなくなっていた。 不変なのは良い顔をしていない。
顔を顰めて辺りを見渡しているからだ。
相も変わらず薄明るい空の下で、灰の粉塵が舞い、かすかに風が流れていた。
ここまでいつも通り。
しかし、ほかに違和感があった。
——“濃い”。
灰の粒子の密度ではない。空気に混じる“何か”が、男の呼吸に引っかかる。
「……くる」
そう言って男は走り出す、それには目的がある。
目的地は前の解体人が休息地としてる小屋だ。
それは小屋と呼ぶにはあまりにも脆く、朽ち果て、荷物が大雑把に置かれた場所だった。
この風化した拠点。そこには何代かの解体人の器具、防具、寝具などが散らばっていた。
いくつか今は使えないものがある。
「今使えるのは...」
大型はやめておこう、例えば杭を撃つ機械など。
小型なら、手に持てる解体用の器具がある、生物を殺すには十分だ。
防具も解体時に崩落してくるもの対策だが、ないよりマシだ。
そう思いながら。
俺は近くに置いてあった器具を手に取ると、掌に鈍い重みが伝わってくる。
「これは……」
錆びた解体用の皮剥ぎ鉤。
皮剥用と言っても、今じゃ分厚く、雑に増殖する神経の束を断つもの。
皮のほとんど風化しているからだ。
神経は増殖しているのに皮は腐っている。
実際。最初にそれを切った時に感じた。
解体日じゃないし、皮の状態は見た目でもわかっていた、が、手にとってみないと気が済まない男だった。
そうして嫌な状況に追われた、こんな今も手触りを確かめるように、皮剥ぎ鉤を左手に持って何度も強く握り締めて、そして放す。
何回か繰り返すと
男の指の跡が、そこにくっきり残る。
「こいつを使ったのは、あの“記憶”の時……?」
依然として力は衰えていないことを実感する。
次に記憶の中みたくこの道具が硬いことを確信した。
こんな錆びている見た目をしていてもだ。
ギシ
「……?」
風の音ではない。
何かが“近づいてくる”鈍い足音。
感覚的には、蛆虫が肉の中を食い進むような、湿り気のある嫌な音。
音の方向を探して数瞬。
そこに見えたのは人影。
女が言う。
「来てる……」
男は斧を左手に持ち直し、右手には皮剥ぎ鉤を持って一歩踏み出す。
いつものように落ち着いた声だったが、その眼差しだけは深く揺れていた。
「——おかしい」
おかしい、おかしい、おかしいぞ。
体格はごく普通、足音が異様に大きい。
周りには、灰が波のように巻き上がっている。
全身黒い布や帽子で身を隠している人の姿。
少なくとも形は人。
⸻
「その女を渡せ」
黒い存在の声がはっきりと聞こえる。大きな声ではないが、周りの音を揉み消したかのように、そうはっきり聞こえる。
「断ると言ったら。」
「殺す。……闘争は好まない。逃げろ。」
「逃げろ、そうすれば許してくれるんだ。」
「そうだ、」
相手の話が突然として切れる
話を遮るように男が笑ったからだ。
「いい提案だ。だがもっといい提案がある
——ここでお前が死ぬことだ」