静かだった。あまりにも。
風が止んだわけではない。灰も舞っている。
いつも通りに鼻や皮膚をこそばゆくする気候をしている。
だが、今の彼には周囲の音が、妙に遠く感じる。まるで耳の奥に厚い膜が貼られたかのような感覚――
あるいは鼓膜が破れそうなほど、心音が強く響く。
世界が一歩、引いた感覚。
そんな中に神経を使って集中していると体はなかなか動かせない。
先に動いたのは、あの黒い存在だった。
強者の余裕か、あるいは男への苛立ちからか、
それともその両方か。
相手は全速力で駆けてくる、防御体制や着地できるような姿勢ではない。
その勢いの強さはとても強く、黒い衣が大嵐の中にいるような感じで揺れる。
その気勢に相応しくも黒い影が一瞬のうちに数歩先まで迫ってくる、四肢を異質な形に曲げるほどの勢いだった。
腕を引いては伸ばして、脚を伸ばしては引いてと、全く体幹と協働してない動き方だった。
しかし異様に速い。
男は応じるように、左手の斧を腰の低い位置に下ろし直す。右手の皮剥ぎ鉤は、まだ軽く握ったまま。体制を保つ。相手と反対の決断を下したようだ。
「確実に殺す、次の一撃は頭蓋を穿ち、脳髄を狙う」
影のような存在が予告をしてきた
だが解体人は依然として姿勢を変えていない
打ち込む角度を決めていないからだ。
決める必要がないからだ。
(決めさせなければ良い、打ってくるものを撃ち返す。)そう心の中で決めた
「......」
影が立ち止まる。距離は六歩。近くもなく、遠くもない。
「……ここだ。最適距離」
黒い存在は、そう言った。声に熱はない。ただ決定事項を伝えるような口調だった。
一拍。地面を覆っていた灰が水面の波紋のように揺れた。
地面を強く踏んで、こちらの体勢を崩すつもりだ。
(まずい!)と気づいたした瞬間には、もう体重を支える地面は変形していた。斜めの角度に揺れてしまったために。体勢が崩れる。彼、解体人はさらに前のめりになってしまった。首筋が見えてしまうほどで、あきらかに隙だらけだ。
だがすでにそれを織り込み済みいた。鉤を低く、斧を肩に。勢いのままに低空で半回転する回転して。
黒い影の腕が先に振られる。見えなかったが、感覚だけで把握できる。刃物に近い四肢、それを男は斧の背で弾く。明らかに不利な体勢で力も出ない、しかし、黒い影が思っていた着地点から近いと言うことの方が、男をもっと有利にする、攻撃の勢いが足りない。
次の瞬間、影の身体が異様に“沈んだ”。
全身の関節を外してその振動の反動で男に向かって加速するつもりだ
(引きつけたか——)
予想になく、想像よりも早い動き。
これに対して斧で薙ぎ払うのではなく、皮剥ぎ鉤を攻撃した相手に引っ掛けていた。
加速が完了したこの状態の影に距離を近づけては、先刻と正反対の結果が生じる。
一撃、重なる。
キィン! 甲高い金属音が鳴り響く。解体人の斧が、鋼鉄のように硬い影の体を真正面から受け止めた。
影の速さについていけないと悟った、解体人はあり得る着地点だけに集中し、最大の範囲となる胸元に斧を構えた。
斧と腕がすれ違う時、灰が弾ける。火花は出ない。影の存在が湿っているからだ。
ギーン!大きな音の後
斧の刃が折れて、飛び散る。
その破片は解体人に叩きつけられ、彼の肩に深く突き刺さる。
また斧が跳ね返されると同時に、男の手元がズレ、危うく鉤が外れかけた。
初の交戦、実力差は明白だった。誰が見てもその傷で理解できる。
しかし男は傷を負っても冷静だった。
「目的は達成した、お前の力を測れた、攻撃を喰らう距離からも離れた。次はもうないと思え。バケモノがよ」少し興奮気味な口調で、男はそう吐き捨てた。
だが、そいつは怯まない。
「力のない脅迫は虚栄でしかない、策略ではない。殺す」
「人間の体なんて、構造上、急所は決まってる。そこさえ押さえればいい。そして、お前の攻撃は、その程度で防げる。」
「俺も先ほどから予告しているが、お前を殺す」
次の瞬間彼は手首を回して、鉤を逆手に持つ。
こんな不利な状況から攻め入るつもりだ。全開の状態でも、かなり痛手を負ってしまった相手にだ。
逆手持ちは防御するのに必要な力が増して、守るのに不向きだ。だが同時に逆さまの刃先は傷が治りにくい。
——攻撃してくるつもりだ。
影はそう確信した。だが解体人の行動には動揺していない。
しかしその考えが彼の頭の隅にこびりつき、そこで集中力の一部を消耗させてしまう。
解体人の目的の一部にはそれがある。だからあえて突き進まず、鉤を何度も握り直し、身体を捻り、影の周辺を囲むかのように周り続ける。
だがその時間も長く続かない
最初に動いたのはやはり黒い者こと影
「無駄な行為、体力の消耗だけだ」
そう言って黒い者は高速で突進する
それに対して解体人は鉤を投げつけてきた
黒い者は手首で受ける。予想外の行動で少し驚いたが
「格の違いが...これは?」
火花。いや、これは——
「……皮じゃないな。金属か、いや、違うな。
最初からわかっていたさ、焼結骨」
その様子を見て男は思わず口にしていた。勝利への予兆が、男の血を熱くする。熱い脈動が、血管を駆け巡る。
影の金属のような腕の皮膚が剥がれ落ち、骨が見えた。
影の足が勝手に後退する。解体人はその距離を詰めてくる。距離は変わらないが、局面は変わったように見える。
戦術的に優位に立った解体人は、距離を取らずに間合いを詰める。
先ほどとは打って変わった戦法だ。
「解体人か」
影が言う。
そして返事をさせる時間も与えずに話しだす。
「武器、道具……全部から解析できる。
手癖が存在。先刻の斧、停止に全霊、攻撃の軌道を変えられない。
私が腕を少し捻れば、お前の頭蓋は粉砕する。
鉤、左足で一歩踏み込む癖。
……順番に、順に削る。殺す。」
男は答えない。負傷してない右手を開いたまま、息を調える。
心拍数は、普段のまま。ただし両耳が少し熱い。酸素が脳に回っている証拠だ。
「……今はまだ、喋る余裕があるってことだな」
「次はもうない」
即答。次は間髪入れず来た。
ズーン!
鋭い、だが重い――そんな踏み込み。
“最短距離”で放たれた最大の速度。
目が反応するよりも速く、視界の中央に影の右腕が突き立ってくる。
見てからでは間に合わない。
男は即座に前屈みになり、残された斧の柄を盾のように構えた
衝突。弾かれる。なりたての防御体勢は一瞬にして解かれる。同時に脳内をただ一つの思いが埋まる
(いってぇ)
次に
斧どころか腕が持っていかれそうになる。衝撃で吹き飛ぶ。と思う。
岩などに激突すると思ったが、影がすでに回り込んでいた
左膝で解体人の胸骨を砕こうとしているから。
岩に激突する――そう思われた瞬間、影はすでに回り込んでいた。
左膝が、解体人の胸骨を砕かんと突き上げられる。
しかし、解体人は倒れない。
荷物の中にあった防具が、辛うじて致命打を防いだのだ。
……だが、衝撃を完全には殺しきれなかった。
防具の装甲が悲鳴を上げ、亀裂が走ると同時に内部で破裂音が響きついに破裂する。
解体人の上半身は無防備な状態に晒され、両腕は動かず、胸骨も砕けている。
そんな中男は――わずかに残った意識と力を振り絞り、最後の勝機を掴もうとする。
やつの関節の構造がどうも、普通ではない。それが巨大な威力を生み出す。骨格が特殊なはずだ。解体用の“あれ”を喰らっていたこともその証明になる。
そこで、視線が交差した。
——目がない。
布の奥、目のはずの位置に光がなかった。焦点も、動きもない。視線を向けていないはずなのに、正確にそこを見ているように動いてくる。
「……視覚ではないな。嗅覚でもない。動きか……いや、音か?」
言葉を呟きながら、男は地面を転ぶ。相手が足を動かすタイミングで、その小さな音が揉み消される。男の考えなど無関心のように、影は何度も男を蹴る。
(……音で位置を補正してるか)
(骨格....うっなんて蹴りだ...)
情報は揃ってきた。まだ戦える。
だが、ここで一つ、重大な問題がある
傷だらけの体がもう全く動かない。