——死んだはずの世界が、まだ蠢いていた。
俺がさっきから蛆みたいに蠢いてるせいか。
空や大地ではいつもに増して灰が舞っていた。戦いによる熱風は止まり、ただその名残として大気そ濁らせる、熱波となっていた、そんな熱だけが残されていた。
爆裂した気圧管と焼結骨の破片、巻き上がった内臓片のなかに、それでもなお「人間の姿」を保ったものが一つだけあった。
解体人——。
彼の皮膚は裂け、骨は軋み、血は干からび、右目は潰れたままだった。口を開けば、焼けた肉片がこびりついた歯茎が覗いた。
「……死んだか……ベックオ……」
その声はかすれていた。声を発する体も、限界の先を通り越していた。血液の半分以上が流れ出ており、視界を赤黒く濁らせてしまう。
相手が自爆できるなんて微塵も思っていなかった。
吹き飛んだベックオ・メロストの肉片が、解体人の体にいくつも付着していて、潰された虫のように痙攣していた。
(気色悪いな)
「そうだ...女...あのこ..」
焼け焦げた喉でつぶやく。
あたりを見渡すと
——乱雑な環境の中で、彼女はいた、廃墟に背中を合わせて静かに座り、静かに呼吸をしていた。
場所は崩れた荷物置き場の端、解体人とベックオの死闘の爆心地から、わずかに外れた場所にいた。
女は気絶こそしていて、顔も煤にまみれていたが、身体に致命傷はなかった。
解体人は彼女の隣にしゃがみ込み、傷だらけの手を首筋に当てての脈を確かめる。
生きている。
「……お前、あのとき、俺に“火”をまた見せた……」
口に出してみる。
帰ってくるのは沈黙だ。
こんな中で答えられる者などいるはずもない。
唯一感覚に伝わるのは焼け焦げた鉄などの鼻を曲げる臭いと、不安を煽る沈黙だけが返ってくる。
そして疑問をされた張本人の彼女は夢の中にいるような表情をしていた。
だがその額には、うっすらと汗が浮かんでいた。明らかに異常だった。
解体人は彼女を抱えて立ち上がる。理解はしていなかったが、直感的に思った。
「俺が“火”を使うと……こいつの何かが、削られていく。」
——ここに長くいてはいけない。
一度襲われたのなら二度の可能性も否めない。
少しでも早く安心して休める場所に行く必要があった。
解体人は女を抱えたまま、瓦礫で転ばないように歩き出す。崩壊した施設の骨組みの中を抜け、歪んだ道路を踏み越える。
当然今の彼に目的地はなかった。ただ、離れることが必要だった。
しばらくして解体人は足を止めた。
行き着いた先は彼は自分が数ヶ月前に身を置いていたはずの廃村であった。そこには何もなかった。かつて寝泊まりした家屋、と呼んでいいかわからないものは、風に崩れていた。
「……誰もいねぇ。」
当たり前だった。居るはずがない。記憶が曖昧な自分の頭なんて信用にならない、そう思っていた解体人であった。
だが、こうも空白じゃあ、どこか寂しさを感じる。
けどこうも空白だと敵もいないはずだ、そうなれば...
男は抱えていた女をその場の一角に寝かせ、装備の整理をする。手がうまく動かないため、作業は休憩を交えながらゆっくりと進められていく。
戦闘の衝撃がまだ全身を鈍く締めつけていた。
まず解体した杭打ち機械を再調整して弓弩のような形にした。あくまで形が弓弩だ。
その大きさは大型の弓弩よりも遥かに大きくて無骨な造形であった。
次に解体中に余ったパーツを村に残されたぼろ布と組み合わせて防具を作った。
最後に改造した杭打ち機械の杭の点火材として、石に灰を固めた。神術を使ってないから結構な時間が掛かってしまう。
うまく作業がいったおかげか男は鼻歌を交じりながら作業をするようになった。そして所々とポツポツと独り言を漏らす。
「...ふぅんふぅん、備えあれば憂なし、石や灰はどこにもあるけど...咄嗟に焼けない状況だって...」
そうして、半日ほど時間が経過する。
ふと、空気が変わった、と感じる。
あれほど積まれてた灰が、気づけば風に吹き飛ばされていた。離れた場所の地面に、草の芽が見え始めていた。
彼は眉をひそめる。自分でもどこから知った不明な知識によれば..草の芽が出るのは普通のことだ。
だがここでは、おかしかった。
この地では風が吹かぬ。
火を灯せず、鐘も鳴らず、木すらも生えぬ。
ただ、灰が降る。それだけだ。
「...ん?なぜ鐘が出る。」
いや今、鐘が鳴ることは関係ない。ほかのことは生きるのに必要で、急に生存に無関係な鐘が出ることは確かにおかしい。
けれど今の要点はひとつ
——何か違う
先ほどから妙に眩しい
そう思って空を見上げると
空は青く澄んでいた。いつもの灰の地と同じ世界とは思えない、静かで、心地のよい空。
遠くの地平線からもなんだか違う景色がする。
男は確かめずにはいられなかった。
鉤を初めて手にした時と同じだ。
ならやることは一つだけだ。とそう言って男は女をかけて地平線に向かって進み出す。
歩くこと暫く。灰が消えた。
そして泥や土でできた地面は消えて、代わりに足元に石畳が現れる。
見渡せば
まず目に入ったのは高い石壁だった。淡い黄土色の石が隙間なく積まれ、その上には鉄の飾り槍が等間隔に並んでいる。壁の内側からは、市の喧騒が漏れていた。人の話し声、荷車の軋み、鍛冶場の打音、香草を煮る香りが風に乗って流れてくる。
男は思わず「懐かしいな」と言の葉を漏らす。
自分すら知らない記憶がこの光景を懐かしむ。
人の気配がある。扉の軋む音。馬の蹄。
(なんだよ..これ。)
足を進めてみる。
正門は堂々と開かれていた。鉄と木を組み合わせた大きな城門二つがが横に押し開かれていて、出入りする人々の列が絶えない。旅人、荷運び、子供、そして見張りの兵士たち。みなそれぞれの目的を持ち、町へ出入るする。
門番の兵士は赤い羽飾りのついた兜をかぶり、無言で目を配っている。奇怪な衣装の解体人と女が近づいての、一瞥するだけで通してくれた。
どうやらこの町は、よほど怪しい者でもない限り拒まぬ方針らしい。
門をくぐると、景色が一変した。今までいたの荒れ果てた灰の地とはまるで別世界のようだった。
道は広く、敷石が整然と敷き詰められている。両脇には二階建ての白壁の家屋がずらりと並んで、花の咲く窓辺から人々の声が漏れてくる。商店の軒先では、記憶にある果物や香辛料、見慣れぬ、むしろどう扱えば良いかすらわからない、そんな金属の器具が所狭しと並べられていた。その横で客と店主が軽口を交わしていた。
解体人は思わず唖然とする。
暫く進んでみると市場らしき場所に辿り着きそこはさらに賑わっていた。
獣の皮を敷いた簡易の店らしきものがずらりと並び、客たちがあっちこっちで値段を交渉してたり、荷下ろしに勤しむ商隊らしき男たちがいた。
大抵売られている品は野菜、薬草、木彫りの仮面、金属の破片を組み上げた小道具、どれもに見慣れないものであった。
「キィー」
嫌な獣の叫び声が伝わってくる
解体人は後ろを振り返り、そこで子供たちは走っていて、犬が吠えていた
その先の空では翼のある生き物がゆっくりと旋回し、それを見上げながら、誰かが言う ——
「またあの飛獣が出てるよ。今週でもう三回目だよ、なんとかしてほしいものだ」
(なんだあれ...?頭が三つで一個は尻尾にあるぞ。)
しかし町の住民たちはどこか落ち着いており、解体人から見ても異形な存在が飛んでいても、ちらと見るだけで騒ぎにはならなかった。
慣れているのだろう。この町は旅人や力ある者がよく来て居座っているのだろうか。
「うっ...」
女の苦しむ声だ
解体人はその声に目を細めた。女の額には汗がにじみ、浅く呼吸している。目が覚めるまで、動かすのはあまり得策とは思えない。
そう思って町の中を歩く。
ただむやみに歩くのも許されない状況であった。
見知らぬ土地ではあるが町人に聞いてみよう。
案内されたのは路地だった
奥には、小さくダリアシアと書かれた看板が見えた。町人の言う聖環連会の集会のひとつらしい。
(こんなところに本当に...いや泊まれるならなんでもいい。)
入り口の扉に近づくと、壊れたランタンが軒下に吊るされ、黄ばんだドアに看板があり、掠れた字が彫られていた。おそらく聖なんちゃらだろ。
「……借りるぞ。」と、誰にともなく呟いて、彼は扉を押した。
中は意外にもきれいだった。
解体人は、無言で女を抱き直し、そのまま扉の仕切りを跨ぐ。
「誰かいないか?」
呼んでも反応はない。
あるのはいくつか文字が書かれた羊皮紙であった
解体人は女を部屋の隅の寝床に寝かせてその羊皮紙を読み始める。
(....パンを食っていい...なんで俺パンなんて知ってるんだ?...部屋は.....我が慈悲深き....なんだこいつら恐ろしいぞ。)
そう言っても背に腹は変えられない。だが毒があるか気になる。
「...ここは一旦宿屋とやらに泊まってそこでほかの客が頼んだパン…おそらくその場で切るから、毒があるかどうかもわかるし、それを一切れ..」
(いいや危険だ...道の土地で人に囲まれるのはまずい。)
女に水でふやかしたあれ...俺にはできない。
“グゥーウ”
腹のなる音があたりに響く
葛藤する解体人であったがこの音を皮切りに、決意した。
男は静かに、パンの前に座っていた。
その目には警戒と葛藤と欲望が浮かんでいた。
複雑な眼差しをしていた。
その眼差しの先には、小さな茶色い物体がひとつ。
彼の記憶通りのパンが一つ。
ライ麦の香りが鼻腔に滲んでくる。
手に取ると石よりも柔らかく、灰よりも硬い存在だった。
(柔らかい。)
この柔らかさと固さを同時も持つ存在に、男の眉はわずかに動いた。
「これは……腐っていないのか?」
当然この問いかけに答えてくれる者はいない。
それでも彼の語調は相変わらず平坦で、口調も乾いている。
灰のような生活に染まった舌と喉の言葉はいわば色を失っているような、着飾りのない感じだった。
男はパンに歯を当てた。
歯に伝わる、体験したことのない固さに弾力。
それは、彼の知る「食事」とは異質だった。
今まで彼が喰らってきたもの——
焼け残りの骨、腐った肉とか皮とかそんなもの。
あるいは本当に“灰”そのもの——
熱を失い、命を持たぬ粉末である“灰”
ただ、飢えを塞ぐため、それだけの存在だった。
口の中でパンをゆっくりと噛む
しずかに沈んで、柔らかく戻る。
彼はゆっくりとちぎったパンの残りをみる。
パンの内部が現れる。龍の骨の空洞を彷彿させる細かい組織には空気が包まれていた。
香ばしさの奥に、何かに似たやさしい匂いが潜む。
そして、彼は——
喉を鳴らして、そのパンの欠片を飲み込む。
……何かが崩れた。
初めて食べたらまず舌が驚いた。
それは“味”と呼ぶべきものだった。
柔らかい。臭くない。じんわりと甘い。
歯が沈むたびに小麦の香りが口中に広がる。
喉が、飲み込むことを一瞬ためらった。
体が、本能的に“これは危険ではないのか?”と問いかける。
だが、その疑念すら、食への欲によって溶かされていく
食べていくうちに、男の表情がみるみると変わっていく。
最初はわずかに目を見開いた。
その黒曜石のような瞳が、一瞬だけ、揺らいだ。
次にまばたきを一つ。
そうして顎を動かせたままに、次の欠へとに手が伸びる。
指の動きは先ほどより速い。
パンを再び口へ。噛む。
もっと深く噛む。
味が、広がる。
知らぬ感覚が、舌から神経を駆けのぼる。
胸のあたりが、じん、と温かくなる。
「……これが、『食事』か」
静かな声に、かすかな震えがあった。
パンは、あっという間になくなった。
最後の一口を飲み込んだあと、彼はしばし動かなかった。
そして——
両手をじっと見つめた。
まるで、自分の指先が、何かにしてはいけないことをしてしまったように
まだ信じられずにいるかのように。
ほんのわずか。
ほんの少しだけ、口元が動いた。
笑った——ようにも見えた。
それは、頬の皮膚が長い間忘れていた動きだった。
心からの、一切の悪意も含まない笑みであった。
まるで——
灰の世界に、一筋の火がともったかのような。
暫くして解体人は起き上がる。
扉がしっかり閉ざされているのを確認し、女の様子を見た。
そのあと部屋の壁に凭れ掛かりゆっくりと目を閉じる。
戦闘の名残りがまだ全身を鈍く締めつけていた。
しかし疲れからかすぐに眠りへとつく。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
疲労は、実在の現象ではない。
存在が過剰を受け入れた証であり、
内なる秩序が、わずかに混乱へと崩れた兆しでもある。
熱狂する意思。
それはなおも肉体を内側から束縛していた。
だが、眠りは理性の門を閉ざし、
思考と感覚は連続性を断ち切る。
秩序無き意識は、無へと沈む。
それは救済ではなく、ひとつの“断絶”――
連なりの鎖から切り離された、短き自由であった。
解体録 ― 旧き構造体の終焉 3章24節・13章6節
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー