「……くそっ……!」
ガルシドュースはようやく、何か、そこから身を引き剥がすようにして膝をつく。
そして
息を吐いた。
嫌なほどに全身に汗が滲んでいる。だが、それが恐怖か、歴戦の神術持ちすら恐怖させたのか?
「“次は誰を”……? 誰を連れていく……?」
塔の壁面には、女が消えた場所に何の痕跡も残っていなかった。ただ、塔の表面に張り付く無数の線──それはまるで、血管のように脈動し、何かを吸っているような錯覚さえ与える。
「……連れていくってなんだ……?」
(そもそも、なんで俺はこうも怖がるんだ...?これに。)
誰かが攫われる?
失踪した子供か?
言うより、その声は確かに、何かを選んでいた。
選び、連れ去る。そうだろうか。
じゃあ何のために──?
そのときだった。
塔の地面近くに張り出した根が、ガクリ、と小さく動いた。
それに反応して、ガルシドュースは咄嗟に一歩跳び退く。
凄まじい反射神経と視力が反応する。
根からは人面のようなものが一瞬だけ浮かび上がる。それはまるで、押しつぶされたような顔面であった。根だかなんだかわからない、赤いそれから浮かぶ姿は、なんだか泥の中から覗かせるような、息苦しさがある。
つまり輪郭は曖昧で、そして苦悶に歪んだ人間の顔だった。
「……っ、今のは──!」
(ころ!...す、じゃなかった。襲ってこないぞ..?)
しかし嫌で、嫌で、嫌なことだ。
どうも背筋に走るものがある。
この塔の根──この地に張った無数の“管”は、もしかして人間のなれ果てか?
(なんだよここ、気味悪いにもほどがある。)
“……次は、誰を、連れていくの?”
あの女の言葉の意味が、じわじわと背後から迫るようにわかる。
誰を攫うか、誰を残すか。
視線を、村の方向へと戻す。
赤黒い根が地面に並んでいる。
(変わってはないな。)
そう思って、大丈夫か、大丈夫かの思いはあるが、戻る暇もなく、異変がない今に根本から打ち砕くべきとガルシドュースは決意した。
⸻
同刻、村。
「ん……?」
アスフィンゼを看護していた。リドゥが。
(相当に激しく消耗されているみですね..アスフィンゼさん…)
そう思いながらもリドゥは、アスフィンゼの額に羊毛の手拭いを当てて汗を拭こうとするが、リドゥが何かの気配を感じて顔を上げる。
隣でアスフィンゼはまだ布に包まれ、浅い眠りの中。だが、額には汗が滲み、指先が微かに震えていた。
「……シ……?」
彼女が、夢の中で誰かに助けを呼んでいるのかもしれない。そこまで大変な目にあるんだ。なんて、
リドゥはそう思いながら、その手を取る。
そのときだった。
音がした。
家の外から。
──ズ……ズズ……ズ……ズ……
何かが地面を這う音。それも、ただの風の音ではない。粘質で、生きているような音。
リドゥは顔を強ばらせ、すぐに立ち上がる。
「……やばい」
アスフィンゼの肩を揺らして、起こそうとする。
「アスフィンゼさん! 起きてください、何か……何か来てます!」
アスフィンゼの瞼がうっすら開く。
「……唄が、また……聞こえる……」
「唄? まさか……」
「くっそ、逃げるしか──!」
しかし足が止まる。
窓の方は、視界が塗り潰されている。
赤い。
だがそれはなぜか襲って来なかった。
リドゥはあの老婆の言葉を思い返す。
“あんたらにゃ悪いが、今夜は眠らん方がいい”
(幸いしましたね...あそこで飛び出したらまずいことに..寝てはいけない?そういえば寝たアスフィンゼさんが唄を聴いてたと...まさか!?)
塔の外だ。
(入れそうなところもないな、しばらくやるか。)
ガルシドュースが走っていた。
全力疾走だ。
塔を凄まじい勢いで登る。
(てっぺんまで一旦様子見だ。)
その時だった。
彼の頭上少し上あたりだろうか、おそらくは塔の中腹に位置する。そこが、開いた。
いや、裂けた。
“目”があった。
塔の中腹に現れた巨大な“眼球”が、こちらを──ガルシドュースを、真っ直ぐに見下ろしていた。
(……!?)
思考が、心が、すべてを覗かれているような感覚。
次に、その頭上から──
唄が響いた。
子守唄。
女の声。
誰かを慰めるような、誰かを眠らせるような、
そして、それに応えるように。
あちこちから、声が聞こえる。
しかし見返しても何もない。
「いっしょに──いっしょに──」
「つれてって──もういかないで──」
「こわくない、こわくないよ」
──子供のような声だった。
無数の声。
やがて言葉変わる。
ガルシドュースはこの場所の人間じゃ絶対にわからない言葉と確信する。彼の記憶がそう呼びかける。
ナルグ シルア
眠れ、静かに。
ガルド ニリマ マイザ
私の子よ。
グレン ドリアダ ニルフェ
星々はそれを見守る。
ゾルアム ニリマ マイザ
光の意志はおまえに宿る。
バルシオ リダグ ザルガス
命は守護に包まれている。
グラナ ニリマ ザルガス
守りの囲いの中で。
ヒリザルン ラミナ
不滅の王の名において。
ゾグリ トゥーラ
闇は退いていく。
「ッ!」
全身が脈打ち、頭の芯が灼けつくようだ。体内に神術の力が充満する、そこからくる異常な高揚と、少しだけ自分が異様に思えてしまうそんな違和感。
「目があって、目はない!いおおおおお、ああああ」
ガルシドュースは柱から落ちていた。あまりに浮遊感がして思わず叫んでいた。
自由に落ちている。自由に動きは取れないが。
ドーン
背中が塔の根が多く這ってあるところにぶつかる。そこだけかなりと出てた。
背中が張り裂けるように熱い。
骨が軋み、筋がうなり、皮膚が内側から突き破られそうだ。
今のガルシドュースの体の強度でこんなに痛いわけもない。これぐらいの高度なんかで痛いはずもない。
本当に奥から何か突き破るようになっているのか、やがて彼の体からは、塵?灰?なんと言えないものが出始める。
大きさはバラバラではあるが、形が少し灰や塵ぽくはなかった。まるで生き物の古くなった皮のような感じに見える。
(いてぇ!いてぇ!んっ..)
「スゥ、んんフゥーとまれ..とま..いて...」
ガルシドュース当人は痛いのに集中して、自分に起きているほかのことなんてどうでもよかった。
なぜならば。
(痛すぎる!ああああ息ができない!)
ゴッ!
(くそっ……いてぇ……! 背骨が、肋骨が、内側がっ!ガッ!バキバキに割れてんのか!?)
視界が、歪んだ。否、加速した。
視覚、聴覚、空間認識――すべてが過敏に研ぎ澄まされていく。
「がッ……は、ぁあ……は……!」
呼吸をすると、肺が鳴る。楽器とかよりも大きく鳴った気がする。言うと、暴風とか雷とかそれぐらいになってる。
でも呼吸が軽い、とてもしやすいと言う感じな軽さだった。軽くなっているのに、収縮するごとに燃え立つような圧力が走る。
(神術は使っていないのに...熱い..)
「ハァ……ハァ……クソ……何だってんだよ、俺の体ぁ……!」
ぶつけた背中の骨が、もう痛くない。
というか、痛覚の閾値が上がってる。
両腕を見下ろすと、筋肉が細かく断続的に収縮している。微細な振動がして、振動と共に血流が可視化される。血管が透けて光り、浮かび上がる。
「...だが...痛い...痛いがいいぞ!この力!」
神術が使えない今、その強くなった体は何よりも心強くある。
背中の骨が軋み音に耳を澄ませる、肉の奥からうなり声があがる。
血が熱を持つ、火みたく熱い。
視界の色が変わっていく。
やることは一つ
武器に使っていた蒸気が出るあの機械仕掛けの棒。
今は燃料である神術の火力は使えないから、ただの、重く鈍い鉄塊。
(殴るのにちょうどいいな、今の俺の力なら、蒸気を吹かせなくても自在に振り回せる。)
それはあまりにも大雑把すぎる、作戦であった。
だが大きくあるそれを自在に振り回せるならば、答えとしては、名策だ。
目に向かって武器を投げつける。
投擲の姿勢はとても強そうだった。
迷いはなかった、いよいよ解体人の本領発揮だった。人外相手は何よりも慣れていたガルシドュースであった。
何より今の彼は強い。体だけで神術がある時よりも強い。投げただけのものが神術で打ち出す杭よりも強い。
その証拠にいつもじゃできない投擲の姿勢であった。
重心が沈んで安定している。。
膝から腰、腰から肩へ、そして腕──すべてが投げるという目的に向かって収束するみたいだ。
そして何よりも。
彼の背中は、変形していた。
肩甲骨が船とかの龍骨のように開き、背筋はねじれていて、左腕が弓のように撓る。
「──潰れろッ!!」
ギュオォォォン!!!!!
大きな音だ。
空気が破裂だ。
ただの鉄が、空すらも際いていく。
音が少し投げられた武器より遅い気がする。
音を超えた速度と衝撃を、肉体だけで発生させたようだった。
見るに大気が歪み、周囲の根が焼け焦げ、唄声すら掻き消される。それほどにも強い。
ドガアアアアアアアン!!!!!
塔の“眼球”の中央、黒目に当たった瞬間。
凹んだ。
そこが砕けたのではない。
“陥没”した。
奥にねじ込まれた。
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「名とは、ただ一度の呼吸のかたち。
記される前に溶けてゆく、沈黙の輪郭。
触れたはずの過去は水面に浮かぶ記号であり、
繋ぎとめる意志さえ、他者から借りた虚構でしかない。
窒息するから浮かぶことを人は知らずにやっている。
“よく見えない文字”
それなのに語られ、繰り返され、誰“文字が赤く塗りつぶされいる”
“私”がいた場所を、誰がなぞってもかまわない。
その足跡に意味を与える者こそが、生きているものだ。
死んでいるものは忘れ去られるべきだ。
神がいて、悪魔も“焼けた跡”
魔法の“見えない文字”
深淵転- 忘却の地層 第12層
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