血の湖を進んで
少し、岸が見える。
岸というか、血がない場所だ。
しかし上がれない。天井が崩落して塞がれた。
だから天井の穴に上がってみることにした。
「ぎにゃー!」
「何!ガルシドュース!」
「いや、ごめん。変な気持ちになってたから叫んでた。」
「そうか、何かあればこちらに言うと良いぞ。」
そう言われてセオリクに背中を撫でられた、そんなガルシドュースであった。
防具であんまり感触はしないが、心配されてた感じは彼に伝わった。
(もう叫ばないでおこう...)
血の湖の赤黒い粘液を蹴って、そろそろ乾くほどにガルシドュースたちは瓦礫をつたって進んだ。
天井の穴は崩落の拍子に空いたその上。
何も違いはなかった。
下とまるで同じの感じ。
血の湖とかそう言ったのじゃなくて、今まで歩いてきた。景色と同じだ。
「……この上、風が通っている。少しだけ涼しいな。」
セオリクの言葉でガルシドュースも違いに気づく。
汗がベタつく暑さは無くなっている違いについて。
「本当だ」
ガルシドュースは跳ねるように身を乗り出したが、足元がぐらついた。
ひとつ思うことがあったからだ。
嬉しさのあまりにあやうくまた「ぎにゃー!」と叫びかけたからだ。
しかし唇を噛んで踏みとどまった。
(今のは危なかった……セオリクに心配されるところだった。)
上について、壁を探して二人は座った。
「一休みして息を整わせていいか?セオリク。俺はもう休みたい。」
セオリクはは頷くと、血で汚れた手甲を壁に押し当てて立ち止まり、静かに腰を下ろした。
「構わん。むしろ、そう言ってくれたことに感謝だ。私も少し、肺が重い」
「ふっ……セオリクもそんな風になるんだな。あれ?一人称変わってる。」
ガルシドュースはそう笑いながら、膝を抱えて座り込んだ。
壁の表面は意外にも冷たく、ザラついた石の感触が防具越しにでも伝わる。
呼吸が落ち着くと、やっと自分の鼓動が早かったことに気づく。
天井の穴を登る前から、緊張や戦いで体が強張っていたのだろう。
「なぁ、セオリク。」
「ふむ?」
「ここ……何だったんだろうな。血だらけの湖とか、あんな怪物みたいな奴とか……ここって、どこまであるだろう?」
返事がない。
セオリクはしばらく黙っていた。
遠くで、水か何かの液体が滴る音がだけ響いている。
「……ここは、騎士になりたての頃に入れた。あまりと、詳しくは知れまい。」
セオリクは一息置いて、ため息をついた。
「ただ、前に聞いたことがあろう。それは、遥か昔
、何百年も昔、神が怒りにより、とある大地が一夜にして呑まれた、と」
「神の怒りって……恐ろしいな。」
「確かに恐ろしい。だが実際にこの目見たものは、どうだ。“そうとしか思えぬもの”を見てきたゆえに。だから、ふと思う。」
「ふぅん……」
「この地は、滅びたかの大地と同じ場か、と。」
聞いてガルシドュースは、肩を後ろに、壁へとさらに体を預け、ぼんやりと天井を見上げた。
もう、血の湖は見えない。ほんのひとつ上に登っただけなのに、あの底なしの赤黒さが懐かしく感じた。
おそらくは、未知への恐怖から逃げる部分もあった。
(神の怒りか...考えたくもない。)
――けれど。
「なぁ、セオリク。……ん?何か来てないか?」
話しの途中だが、ガルシドュースが突然、背筋を正した。
耳に、かすかに響くのは粘液を踏みしめるような音。
セオリクも気づいた。
剣を手に取る。
音は、徐々に近づいていた。瓦礫を這い、ぬめるように登ってくる。人ならぬものの呼吸音が混じっていた。空気が、また重くなる。
「休憩、終了だな。」
「然かし。」
二人は同時に立ち上がる。ガルシドュースは腰の剣を抜き、セオリクは背の盾を腕に固定する。
そのとき、穴の下さっきまでいた場所の縁から、いや縁の中から、何かの長い“腕”のようなものがぬっと伸びてきた。
骨のように節くれ立ち、先端に無数の目玉が埋まっている。それが、にゅうっとこちらに向かって這い上がってくる。
「なんだあれ……!」
「さっきほどのに在らず……他の存在!」
セオリクが叫んだ。空気が震える。ただならぬ雰囲気の異形だ
ひとつ嫌な予感がしたガルシドュース。
まさか“階”ごとに敵は違うのか?強くなるのか?
「ここじゃ狭い、逃げ道を探す!」
セオリクの声に引き戻されたか、ガルシドュースは即座に走り出す。
向かう先通路の奥、暗がりの中に小さな裂け目があるのを見つけた。
「セオリク!」
後から追い上げたガルシドュースの方が遥か先まで行っていた。だからセオリクの名を呼んで彼の方へと導くようにしているz
二人が全力で駆け出した、背後で、無数の目玉を持つ腕が壁を這い、血のような液体を垂らして追ってくる。
「ハァハァ」
息を切らせ、裂け目をくぐる。石が服の袖にひっかかり、強引に言ったせいで袖が裂けた。
暗い、狭い、冷たい。追ってくる。
嫌な現状になった。
だから前へ行くしかない。
「セオリク、まだ、来れるか……!」
「……ああ。」
「ならこい、登るぞ!」
「まだ上があると言うのか!?ガルシドュースよ。」
言葉通り、裂け目は斜めに伸びて、奥へ進むほどに少しずつ高度を感じるようになった。。
追ってくる“それ”の手が届かなくなったのは、もう少し先だった。
振り返ると、裂け目の先、もはや光も届かぬ暗がりの中、幾百の目玉のようなものが光りを放ち、こちらをじっと見つめていた。
裂け目を抜けた先、二人が踏み入れたのは、思いがけず広い空間だった。
天井は高く、今までと同じ漆黒の場所はあっていたが、その一部に、大穴が空いていた。そこから差し込む微かな青白い光が、床を照らしている。
床面は、滑らかすぎるほどに滑らかだった。光沢に満ち溢れていて、材質が何なのか思いつかない。石でも金属でもないような感じはする。
...どちらかといえば石かもしれない。
「……何だ、ここは……」
ガルシドュースが思わず声を漏らす。足元に視線を落とすと、滑らかな、加工された高級な石材で作られたような地面には、大きな、大きな、人間のものとは思えぬ大きな“足跡”のような凹みが無数にあった。けれど、それは明確な形を持たない。
まるで、まるで、粘土の上を踏んだような感じだ。
(まさか...地面が柔らかいのか?)
少し踏んでみると確かに足元が変形した。
まるで歩くたびに地面そのものが柔らかく変形していたかのようだ。
(なんだここは?変な場所がいっぱいあるけど...もしかして階段の時も..俺が壊さなかったらこんな感じになってた?)
「ん...友よ、なぜ先ほどから上へ来ることになってしまった。まるで」
「まるで導かれたような」
二人が考えることはひとつだった。
あまりにも偶然が重なっていたからだ。
「何を求めているんだ。ここは。」
ガルシドュースは言う。
二人は、その言葉で考え込んだのか、しばし言葉を失った。
静かだ。
先ほどまで追われて、走った余熱がまだ肌に残っている。
でも静かだった。
まるでそれさえ吸い込んでしまうような沈黙だった。
天井の大穴から差す淡い光、青白いそれは、どこか月明かりを思わせた。だが、月などあるはずがない。
これだけ暴れたから、そろそろ朝のはずだった。
ならばこれは何だ?
そもそも室内だ。
(そういえばリドゥたちは大丈夫だろうか...アスフィンゼはずっと寝てるし...)
思うに以前一つ。
ガルシドュースが出会した、月光。
(名前は覚えたないが、確かあいつもなんか月...だめだ、印象ほぼない。)
しかしガルシドュースは月光の彼を覚えていなかった。
月光の其方、レウェイチョ・デ・ヒューマ。
それも仕方ない。
ガルシドュースからしたら攻撃されて、あとは長く寝ぼけた時間帯だった。
それゆえに、自分自身がレウェイチョを仕留めた、そんな事実すら知っていない。
(まぁ覚えてないなら、役に立たないやつだろどうせ。)
月光考察が一旦中止される。
考えが詰まる。
(アスフィンゼたちが心配だ。)
落ち着かない。
部屋は広い。目で見て分かる、確かに広いはずだ。そして静かだ。
だが静かなのに落ち着かない。
静かだから落ち着かないのか。
(歩いてみることにしよう。)
数歩と歩いたとき、距離感が狂っていることに気づく。
右の壁に向かって歩いた。五歩ほど進んだはずなのに、次の瞬間には壁の前に立っていた。
「……あれ?」
不思議と思ったガルシドュースが左手で壁に触れようとした。
だが、指先がうまく当たらず、ただ身の回りの空間を掠って空振りする。
「距離が……おかしい?」
再び歩こうとするたび、地面が遠のいたように感じる。距離が離れたはずの出発地点が近く感じる。
背後にいたはずのセオリクの気配が、前方から聞こえてくるような気がする。
「おかしい。おかしい。」
困惑と苛立ちと、少しの恐怖が混じっていたガルシドュースの独り言。
「おかしい。おかしい。」
独り言は止まらない。
「なんでなんでなんで?」
独り言が止まらない。
「どうして?どうして?どうして」
「落ち着きたまえ、ガルシドュースよ。」
セオリクの声だ。
独り言じゃなくなった。
彼に話してみよう、この感じを。この感覚を。
まるで、夢の中で走っても前に進めない感覚を。
「なぁ……セオリク。」
「……お前、移動したか?」
「否、我が目には誰も動いてないと見えた。」
ならば何が動いているのか。空間か、壁か、自分自身か。
それとも。
この“部屋”が、動いているのではないか?
手のひらで床を叩いてみる。
その音が“返ってこなかった”。反響がないのではない。何の音も出なかったのだ。
叩いたはずの衝撃が、皮膚の下で吸い込まれるように消えていく。床の材質が、皮膚の感覚を鈍らせる。
「ここは……“どこ”だ? 俺たち、本当に進んだか?」
誰にも答えられない。なぜなら、歩いた痕跡すら変形して、どれなのかもうわからない。
ガルシドュースは拳を振り上げようとしたが、セオリクが呼び止めた。
「待て、ガルシドュース。力任せでは何も解決せん。此度は異常を見破らねばならない。我に任せよ。」
ガルシドュースはひとつ、深呼吸をして気持ちを落ち着けた。
「見破るって……どうやってだ? この部屋、どこ触っても変だし、歩いても距離が狂ってる。まともに進める気がしない。」
「一つ、視覚が嘘……いや、この地こそ、我らが感覚を操っているのか。」
セオリクは立ち上がり、剣を鞘に収め、両手を広げて歩き始めた。
「よし、ならば感覚あるのみ。」
彼は目を閉じ、ゆっくりと歩き出した。だが、数歩進んだところで、突然足元からバランスを崩してよろけた。
バタッ
「セオリク!くそっ! 目閉じてもダメかよ!」
ガルシドュースが駆け寄り、彼を支えた。
「落ち着きたまえい、ガルシドュース。いい答えはあった。ここは、視覚も触覚も、すべて狂わせてしまう。今はこれだけだが、もっと情報があれば見破れる。」
二人は再び部屋を探索し始めた。セオリクは地面を、ガルシドュースは天井の大穴から差し込む光を観察した。
光は一定のリズムで強弱を繰り返しているようだった。まるで、呼吸するかのように。
「セオリク、あの光……なにか変だ。一定の間隔で強くなったり弱くなったりしている。まるで、生き物の呼吸みたいなんだ。」
光の源を探るため、大穴の真下に立った。
光がよく当たる場所で
「ッ冷た!」
光は冷たく、触れると肌に軽い痺れを感じさせた。
「この光、なんか嫌な感じがする。」
ガルシドュースは大穴の真下で光に手を翳し、顔をしかめた。光に触れるたび、指先に軽い痺れが走り、まるで何か異質な力が体に侵入しようとしているような感覚があった。
隣のセオリクを見ると、彼は薄々と感じているのか、一応嫌な顔をしていたが、ガルシドュースほどではなかった。
凝視してしばらく、光が自然光のような強弱があることに気づく。
「うわっ」
気を取られるうちに転ぶガルシドュース。いやそれだけか?
(足元が今緩んだような。)
しばらく待つこと、やはり足元が緩む。
「ッ!」
「セオリク、気づいたか? 光がたまにバチッて強く光るときがある。それで床がドロドロになるんだ。なんか、こう、泥から水溜りになる感じ。」
セオリクは頷き、言う
「あまりに、常日頃は転倒してしまうよう、気にとらなかった。すまぬ。」
彼もまた地面に意識を向けてみる。
「確かだ。」
「そうだ。」
二人は大穴の、光の場所の、そこに目を凝らした。光の源は、遥か上にあるようだったが、肉眼ではその全貌を捉えられない。
「また登らないといけないかもしれない。」
すでに部屋はぐにゃんぐにゃんになっていた。まともに立てそうにないし、セオリクは転んで立ち上がれない。
(まるで誰か、俺たちを誘っているようだ。だが、まずこの足場でどうやって上がればいいんだ。)
脚でで地面をなぞってみた。
光が強く輝く瞬間、床は液体のように沈み込む、弱まるとわずかに硬さが戻る。
だが、どんなに強く押しても、跡はすぐに消え、動く床に揉み消されて、あの光源までの距離や位置をうまく測れない。
(無理に跳んで天井に穴を開けるとまずいな。)
「セオリク、何かいい手はないか。」
「先ほど、貴公は音を聞いていたはずだ。」
「そうか、ありがとう。」
何を思いついたかガルシドュースは腕を組み、踊るようにあしぶみをした。
(地面は変わるが、俺の体に変化は出るだろうか。)
どうやら変化の間隔などを確かめているようだ。急に踊り出すという行動は。
「わかった……これは、歪みを利用すればいい。」
「歪み?とは?」
「歪んで力が入らないというのは、逆に奥深くまで踏んづけてしまえば、そう力を入れても遠すぎる場所まで飛べはしない。」
「つまりだ。踏む時間を調整すれば、沈む前に“上”へ跳ね上がれるはずだ。」
「俺の肩に掴まれセオリク!」
ガチャッ!
セオリクが手甲が肩に乗る。
ぐにゃ、と柔らかくなる地面。
膝を落とし、踏んづけて沈ませる。
あまりの力に周りの壁は歪んで、こちらに落ちるように、倒れるようにどんどんと近づいて来る。
そして、どん底まできた。
躍ッ!
跳ねる!
しかし。
空間が、横にずれた。
跳躍の途中で、光がぐにゃりと曲がった。
まるで目に見えない力が、
身体を水中で揉むように歪めたか、
方向を狂わせた。
(なんだと!体にうまく力が入らない!違う...方向に動いてしまう...うぉー!)
「――方向が、狂っている……!」
ガルシドュースは空中で身体を捻った。
本能的な反応だった。風もない空間で、何かが体を
横へと押し流そうとしている。
だが重力は消えていなかった。むしろ複数の
重力が
絡みつくように、
体が分割され
そんな錯覚すら
ある。
(空間ごと…斜めに傾いているのか!?)
歪む感覚を振りほどくように、彼は体を捻り、脚を内へ絞り込むように巻いた。
しかし無駄だった。いくらからだをひねたとしてもだ。
(まさか俺が勝手に動いてたのか、セオリクも言っていた気がッ!)
セオリク
を 投げた。
咄嗟に
反応した。
ビューン
そして俺から一番離れたところで、ギリギリ掴めそうな距離で掴んだ。
掴んでは投げる。
繰り返し投げる。
とにかく投げてみる。
まともに動けないから 適当に動く。
(俺が動くなら、これでどうだ!セオリクは自分で動いていない!俺が投げたからだ。そして俺はセオリクに掴んで動けばいい。)
ガルシドュースは最小限の動き、つまる所、投擲で移動しようとする。すでにしていた
ザ!
何度か繰り返して投げたがやっと端に腕がかかる。掴んだ。
(成功した!)「やっッ...た!」
距離があまり遠くなかったからか運良く行けたみたいだ。
「うぅ...」 しかしみるにセオリクは酷い様子をしていた。
身につけていた全身鎧はかなり剥がれている上に、がたがたになっていた。
「ごめんセオリク。」
そう言いながらガルシドュースは彼を寝かせる。
その時。
目に映る光景が彼を惹きつけた。
「...なっ、また部屋か...」
上にはぞろぞろ、死体だ。
下の足跡の主だろうか。
「...この先...大変なのはまだまだありそうだ...」
思わずに心配事が口から出る。