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第44話 騎士と魔物の石


 「八も正道が三の祈誓に誓い」

(これは入団したてことか、あるいは試練を終えた後の時間か...)


たしか....


巨悪を貫かんとして旅に出る。

再会か。


「君……まさかガオウス子爵家の?」


 セオリクの言葉に、少女は驚いたように目を丸くする。けれど次の瞬間には、ふっと微笑んで小さく会釈した。


「ええ。ビオレイラ・バデル・ガオウスと申します。」


 その名が耳に届いた瞬間、少年の胸の奥に熱が走った。

 言葉もなく呆けていると、彼女はほんの少し首を傾げる。


「あなたは?セオリク?」


「(ビ、ビオレイラ嬢?!お美しなられまし...)

 ス、ざっと服を動かしていく音。


 促され、慌てて姿勢を正す。ぎこちなくも、騎士歴然とした動きで胸に手を当てる。


「セオリク・アンドレデゥン・ド・カイン・ラングゾル・ゴリヤ・メリガジバズグンド一世。末席の身なれど、いつかは剣にて民を護らんと誓わん、お久しぶり出ございます。ビオレイラ嬢。」


 周囲の視線など気にも留めない。少年の声音は真剣そのものだった。

 だが、そんな芝居めいた自己紹介に対し、少女は笑わなかった。

 むしろ楽しげに、目を細めて口元を覆う。


「まあ……とても立派なのですね、相変わらずと。」


 たったそれだけの言葉だった。

 けれどセオリクの心臓は破裂せんばかりに打ち鳴らされた。


 (それ以降は深く憶えることが難しく、自分からすれば物語をみた感覚ではあった。)

夜の石城は、静謐の中にかすかなざわめきを。

 厚き壁の外には秋の風が吹きすさび、燭台の炎は影を揺らし、廊下を歩む少女の衣の裾を淡く撫でている。


 セオリクは、その背を追う自らの鼓動を、己が胸中にて烈火のごとく感じていた。

 剣を抜くときですら、これほど心臓は荒ぶらぬ。

  されど、あの人の名を呼ぶ一言のために、我が血は騒ぐのだ。


「ビオレイラ嬢。」


 声は無意識に漏れた。

 少女は立ち止まり、振り返る。燭の光を背に、その横顔はまるで聖像のごとき形容し難い静けさを帯びていた。


「……セオリク様?」



 忘れ去られることの常なる世にあって、夏の陽光と共に深く残り続ける。


「川辺で……」

 言葉は荒れ狂う河を渡る舟のごとく、頼りなく、しかし真心だけは沈まずにあった。

「川辺で、わたしが差し出した小さな花を……覚えておいでですか。」


 少女の瞳に、淡い影と光が交互に揺れる。

 やがて、その睫毛が静かに震え、柔らかな微笑が浮かんだ。



「うっ、夢か、しかし、妙だ。」

(おかしいぞ、私はこんな記憶はないし、こんな丘で寝ていたせいか?もう少し、ここまであの子爵が麗女に惹かれたわけじゃないはずだが。)

いずれにせよ、セオリクは旅へと出ていた。

そして此度はある村の役人に頼まれていた。

「....承知した。」

(なんとか官とあったが、もう少し勉学はしておくべきだったな。)

狙いは、怪物がいるか、魔物が巣食っているかどうだ。


「そうでございます。しかし、山に住んでいた賊たちも消えて...いえ、良いことのはずが、それが昔に比べて、多くの商隊が襲われて行方知らずに...」


 「任せよ、なんだろうと。私がやる。」

セオリクは村役人の語るところを聞き終えると、そっと腰の剣に手をやった。

 かつて感じた鋼の重みは彼にとってもはや不安への緊張ではなく、むしろ血を流すべきときが来た証である。


「行方知れずの商隊……その跡は残っているか。」


「はい、セオリク様。北の山道にて、荷馬の骨が散らばっていると申す者がおりました。けれど人の骸は見当たらず……まるで、影のごとく消え失せた、と。」


 その報告に、青年の瞳が鋭く光った。

 剣を抜くほどの荒事はまだ無い。だが心の奥底では、鋼がすでに鳴動を始めている。

その証に手が剣の持ち手を深く握り込んでいた。


「導け。私が確かめよう。」


 役人の顔には安堵と不安が交錯する。

 若き騎士の気概を信じたい、だが同時に、この異変は人知の及ばぬものではないかという懸念もあった。もしかすると、若き試練を乗り越えし彼に任せるのではなく、聖環連会へとさらなる援軍を求めるべきではないか。

「...しかし...」

上官である護民下位八階従佐官に助けを求めるべきではないか。


 一方で。


セオリクは迷わなかった。

 ――守ると誓ったのだ、民を。己の血脈がいかに長く、名がいかに重くとも、栄光がためでなく。

新なる英雄にして、物語の主役よりも、輝くただ剣を執るための名に恥じぬ、思いに近づくために。



 「頼む。」

「...承知しました...」


 北の山道は、秋風の吹きすさぶ谷間にあった。

 かつて賊が潜んでいた洞穴は、今は空洞のごとく沈黙している。

しかし空洞には久々に足音が鳴り響く。

大きな白馬に乗っている長身の鎧の男に、やつれた長身痩躯の青年。


 「待て。」


 騎士は足を止め、馬を降りた。

「いい子だ、セルハーブ、セルハーブ・セルバーブよ。」

「セオリク様...?」

 土の上に、巨大な蹄の跡。だが馬ではない。

 四肢があまりに太く、地を穿つ爪痕が深い。人の造りし獣車では残せぬ刻印であった。


「……魔物。大型だ、おそらくは、羽虫ではない、もっも厄介な毛獣だ。」


 一語を吐くと同時に、谷間の空気が変わった気分だ。

「...ひっ!大型..ああそんな。」

 冷たい風が止まり、沈黙が血のように濃くなる。

 石陰から響く低い唸り。牙を鳴らす音。

 そして、姿を現したのは黒鉄の毛皮をまとった狼のごとき巨躯。

「随分といい時間に出てくきてくれた様だ。もはや説明もいらぬ、アンド殿...ん?うん逃げてくれたようだ。」


見るともうひとりのアンドという男は呼吸を荒げて逃げていた。

 「へぅ へぅ」


「ガルルル!」

 吠える魔獣。目は赤く、溶岩のように輝いて、流れているんのかという感じまでする。


「グルゥゥゥ……」


 セオリクの心臓が高鳴る。


試練と同じ行動。

 ただし今度は、命を懸けて、なんの救済もない、敵へと挑む戦場での鼓動。


「よかろう。剣を以て、汝を討つ。」


 抜き放たれた刃が、燭台なき闇を裂き、月光を受けて白く輝いた。

 黒狼の咆哮が山々を揺らし、戦の幕は切って落とされた。




 最初の一撃は速かった。

 獣が跳躍し、爪が岩を抉る。

 セオリクは身を沈め、剣を体の前に置くように差し出、体を捻るように、足を伸ばして、地面を踏んでは、滑るように勢いよく飛び出す。

ちょうど、獣の爪の勢いが伸び切らないところで剣で攻撃をいなした。

 衝撃は雷鳴のごとく腕を痺れさせたが、少しだけ力を逸せられた。

 隙を見て横薙ぎに刃を振るうと、黒狼の毛皮が裂け、血の飛沫が宙に舞った。


「グワァァァ!」


 怪物の呻きと共に、谷の闇が揺れる。

セオリクの3倍ほど大きくあるその大きな体躯に似合う、とても大きな轟音であった。


サッ

砂煙舞う音。

 黒狼が身を構えては己が血に濡れた牙を剥き、低く唸りを響かせた。

 その身は岩のごとく重く、谷の闇に根を張ったかのようであった。


 セオリクは剣を下に向けて構える。

顔の前に置いて、守る形をとっては

片足を引き、肩を落とし、呼吸を静める。

刃の先は土を指している。



 黒狼が一歩踏み込む。

 地が鳴り、土砂が崩れ落ちる。

吠えるようにして頭を高くさせる。

 対する青年は目を細め、腰を落として姿勢を低くする。


 次の瞬間、獣は地を蹴り、黒い影が稲妻のごとく跳ねかかる。

 爪が閃き、喉を裂かんと迫る。

 だが、刹那にしてセオリクの体は流れた。

 風のように、影のように。

 剣は振るわれたのではない。

 身を返す流れの中で、刃が自然に軌を描いただけであった。


 狼の腹に浅い線が走る。

 獣は着地の勢いを失い、岩肌に爪を叩きつけた。

 石に火花が散り、剣が紡ぐ銀光が爆ぜる。


 セオリクは追わぬ。

 ただ剣を伏せ、再び姿勢を沈める。

 彼の眼差しは相手の肉体ではなく、その呼吸、その気の揺れに注がれていた。


 力にて押し合うのではない。

 流れを奪い、隙を生かす。

 戦いとは力量のぶつかり合いだけではない、己が呼吸の延長である。

相手が呼吸の延長である。


 狼が二度、三度と襲いかかる。

 青年は土に沈むように退き、岩を支点に身を翻す。

 剣は激しくもなく、ただ柔らかく波を打つ。

 だがそのたびに、黒狼の身には細き線が増えていった。


 やがて獣の動きが鈍る。

 呼吸は荒く、目の炎は翳りを帯びる。

 セオリクの胸はなも静かであった。


 谷間の風が再び吹き抜けた。

 それは、勝敗の決したことを告げる秋の風であった。


「落星一閃!」


そうした音とただ落ちる狼の姿があった。


黒狼が最後の力を振り絞り、跳びかかった。

もはやこれ以上の消耗を耐えられないと思ったのだろうか。

 青年に巨岩さえ砕かんとする大きく獰猛な爪が迫る。

 しかし爪を対面とする青年はただ一歩踏み込み、息を止めた体を緊迫させた。

恐怖で体の筋肉が強張ったのか!?


 刹那、夜空を流れる星のごとき閃光が走る。

 剣そのものが、光へと変わったほどに錯覚する。




 風が裂け、時間さえ止まったかのように静まり返る。

狼は地にへたり込んで。

 ただ白刃の残光だけが、なお谷間に漂っていた。



「うむ、父上や叔父上ほどではないが、いいだろう。」

(しかし思い出すなぁ、かの地での訓練を。)


セオリクは父のゲ・ドリガ・ガダズバ・ラングゾル・ゴリヤ・メリガジバズグンド四世子爵の推薦を受けて聖環連会の護衛騎士団の一つである聖菱形銀星団に向かって訓練を受けた。


そこでは幼少期にデタラメに振るわれた剣捌きを直されては、転ぶことも減った。

さらに神術持ちの家系ゆえ、父の神術を引き継げないとしても、そう言う力には適応があり、選抜された。


「...言うわけで神術を構成する力のもとであるウガリスラを体内に秘めている。」


 「なるほど...ウガリスラの意味...原初なる引き裂くもの..かしこまりました教官殿。」

「よし、セオリクよ、お前には力がある、お前たちに神術はないが、ウガリスラを持っているだけでも我々のような人間を超えた存在だ。しっかりと修業しろ。」

「はっ、必ずや人々を守護する騎士に、剣士になります!」

「いいぞ!けど忘れるなよ、剣以外にもっとも大切なもの、ウガリスラを鍛えるには!!?」


「はっ、四聖環にして、四つの体液なる学説に従い!血液、黄胆液、青胆液、粘液!赤、黄色、青、無色の我れら人が体に含まれるものが、均衡を保ち、この世を構成する、地火風水に当たりますと!赤い血こそが情熱を司る火!黄色い胆液が体を病から守り、青い胆液が血流など全ての液体を司り、最後には粘液が体から廃棄すべきもの全てを流れさせる、まさに形なき風に同じであります!」


「よぉ〜し!さすがだ。」

 そう言って教官はポンポンと彼の背中を叩く。


「我、何事も忘れぬゆえ。」


 「では頼むぞ、四体液説のあれに乗って作られた、聖環四主規魂統制法を。」


「はっ、承知し申す!」


「それと細い部分も間違えるな、前にまたバゲスルイのやつが青胆液を黒胆液とか言いやがって、しっかりと復習するんだぞ。」


 (...胆液...)


(たしか、赤火心法が血液の陽気・生命力・活力を鍛える修行法があって、黄土烈法が黄胆液の怒りの熱情や悲しみなどを統制するもので..青水新思で青胆液を内省、沈思で循環して...あ、精神集中で深める瞑想してって...落ち着かないとなぁ....平静なままで瞑想して体内の循環を操らなきゃなぁ.....あとは...あとは....粘液...忘れた...)


「心!烈!新!吸!」

「我、魔物を討ち取らんとす。」


(感じる...体を超えた、魂よりも上にある、ウガリスラが統制されていく..)



「...しかしみな統制法と呼んでいた...作り手が可哀想に思わんか?彼らにと。」


 「フハハ」


「ふふふ、これだからよ、人の子よ、神器の偉大なる力すらも操れんとは。」


 「くっ...」

(神器...我が青年が頃にて...かの力で、統べる全てが混沌へと...しばらくしてそう、は幼きことよりも転び倒しては、ウガリスラもうまく感じ取れんとし...剣がなくことへ...)




「セオリク様……。あの魔物を……おひとりで……」


「素晴らし....剣捌きでございましたセオリク様!」


言葉が主の細身の青年は息を切らしていた。

怯えた声であった。

瞳には安堵と尊敬が混じっていた。

セオリク彼のは肩に手を当てては軽く揺らして微笑み、言葉を返す。


 「やぁ、君はアドンか、うん、うまく逃げてくれたようで安心したよ。」


「あっ、大変も」

「いい判断だ、よくやったアドン。」


安堵からかアドンは、膝をつき、なおも震えていた。だがその震えは恐怖だけではなく、目の前で繰り広げられてきた戦いに対する...圧倒的な畏怖、強者があんな敵を相手して息の一つも乱れぬこと..それは憧れが入り混じったものだった。


「戦は、君が逃げ、生き残ったからこそ、今こうして見届けられた。君を守りながらに戦えない弱い私を、そんな弱い私を君は守ってくれたんだ。ありがとう。」


 声に、アドンは涙をこらえるように唇を噛みしめ、体を震わせた。


 ━━だが。


 黒狼の死骸に目を戻したセオリクは、安堵することができなかった。

 裂かれた毛皮の下に覗いた肉は、尋常の獣のものではない。黒く灼けただれ、まるで鉄を熔かした痕のように脈動していた。


「……これは……」


 剣先で軽く押すと、肉片が蒸気を上げるように煙を立て、地に溶け消えていく。

 やがて残ったのは血肉ではなく、禍々しき黒き結晶のかけらだった。


「……ウガリスラの……?」


 少年時代に教官が口にした言葉が脳裏をよぎる。

 「神器の力は、器を選ばず、時に魔を生み出す」

━━あの教え。

 目の前の結晶は、まさしくその禁忌の証ではなかったか。

魔獣がいかにしてもウガリスラを身につくことはできない...


 セオリクは剣を鞘に収め、結晶を輝く布のようなもので包み取った。


「アドン。今から手足はこれは村に持ち帰るとしよう。そう伝える。かくして、これは君の同僚や上官である役人たちに見せるが、決して誰も軽々しく触れるなと君も伝えてくれ。」


「はっ……!」


 二人は谷を後にした。秋風が吹き荒れ、星々はただ冷たく彼らを見下ろしていた。


村に戻ると、役人は涙を浮かべて二人を迎えた。

 「本当に……魔物を退けてくださったのですか!セオリク様!あの毛獣を。」


「毛獣だとぉ!?」

 「あの毛獣を...いや。」

「話はそうなるとあたりまえだ、商隊の護衛で毛獣相手なんてできないし。」

「これで一安心だ、礼をさせていただこう、騎士団が」

 「いや、まだ終わりではないぞ。」

セオリクはその場で一番身分が高いと思われる役人の言葉を遮るように冷ややかに答える。「毛獣の魔獣は討ち取った。だが、あの力……人ならざる手によって生まれたものであろう。ただ魔獣ではない。」


 役人たちは顔を青ざめさせ、周囲の村人たちもざわめいた。

 「で、では……また現れるというのですか……?」


「可能性は高い。聖環連会に報せを上げるべきだ。」


 セオリクは太陽を見上げ、剣の柄を握りしめた。


「……次は、もっと深く迫らねばならん。」


 視線の先を見るというより、巨悪の影を、確かにつかもうとする目つきであった。


「...くっ。見えん...」

「諦めるんだ、人の子よ。」


 「お前の仲間のガルシドュースもあそこでぼろぼろに殴られているではないか。」


見るとガルシドュースは魔女の放つ触手で四肢を拘束されて、顔面を目掛けて無数の連打が放たれていた。


「うあばばばば。」

反撃を使用にも手も足も出ない。


 (セオリク!今助ける!)

「ガルシドュース...これは...貴公の力か...声が...貴公の声が...」


(いいから!俺も今知った!手を貸せ!一瞬でいいんだ!お前は助かるし俺も助かる!)


「嗚呼..」

(けどまずお前の記憶をもっと思い出してくれ!あれが必要だ、俺はもっと神術を操れるようにしたい!頼む!)


(お前の修行法を思い出してくれ!俺に見せてくれ!ウガリスラとかあれを!)


ざわめきから身を外し、セオリクは一人、北の山道へ戻った。

村を出る際に護民官の役人らが供を申し出たが、首を横に振るだけだった。


「━━これ、私ひとりで十分だ。さて、道を荒らすな、跡が消えてしまうものでな。」


 白馬セルハーブの手綱を緩め、谷口で待たせる。あとは歩きだ。土は語る。踏まれた順に、土の道が痛んだ場所を順番に歩く。


 夕刻、山影が長く伸びる。先に戦った黒狼の血は、すでに土に吸われ、痕跡は薄い。

代わりに、荷馬の蹄よりも太く深い四爪の刻印が斜面を這い、時折、なにかを引きずった長い筋が交じっていた。

「さきほどの戦いの刻みはまだある...」


 (しかし、奇怪な気配はする。)


進めると、何かのものが


人骨はない。だが藁束の切れ端、荷布の裂片、油の匂いだけが風に残る。


 セオリクは膝をつき、掌で土を撫でる。

 冷たい粘り気が、指にまとわり付いた。


(……粘液。ただの粘液四体液の最後。よく忘れていたのは、これだ。最近したのはもう4ヶ月前か)


 心で短く区切る。


「心――赤火心法。」

 鼓動を均す。血の熱を体を動かすのに最適な燃料に変化させては、超人的な鼓動をもたらし、全ての動きを強くする。。

「烈――黄土烈法。」

 怒りも恐れも、黄胆の烈を体という“囲炉”に閉じ込めて、思いという。火の勢いが恐ろしくならないように。

「新――青水新思。」

 青胆の流れを細く、深く。思惟を沈め、周囲のざわめきを拾っては、体もそこに最適させて、最後は自分自身が思い描く最適なものへと変化させる。

「吸――無風吸息。」

 粘液の道を整え、動かし、体外から入る“穢れ”を吸うとして、体の養分として収めず、ただ内の濁りを共にそっとそれを外へ返す。


 四つの環が、静かに噛み合う。

 超越たるウガリスラが、斬らず、裂かず、ただ識る側へと偏っていく。

ウガリスラというものがこの修行法を唱えるたびに呼応する様になる、だからできれば口に出すことして、音を出したい。

そうして全てを感じる識を得れば、次なる道に行けるだろう。


また、そんな感覚に近しい知覚を持つセオリクからすればここまでの後で探すのも探るのも簡単だった。


 その跡は、谷の脇から岩の裂け目へ続いていた。斜面に口を開けた風穴。そこだけ、草が焼けている。触れれば、指先に微かな痺れ――鉄粉に似た金気。


(獣が巣を持つ匂いではない。誰かの鍛冶場だ。……いや、鍛冶よりも厭な、熱の名残...これで魔獣を造るか...?)


剣を鞘ごと左手に引き、右手は空いたまま剣を抜きやすいようにして、肩を狭めては身を細くして中へ滑り込んだ。

 風穴は狭く、やがて膨らみ、自然洞から人の手が加わった気配に変わる。壁に打ち込まれた杭、焦げた縄、滴る黒い油。


 耳を澄ませば、遠く、鈴のような、管を鳴らすような、やや湿った金属音。一定ではない。生き物の呼吸に似た緩急で鳴っては止む。


 洞の屈曲を二つ越えたところで、足が止まる。

 床の砂が、ところどころ透明な瑠璃へ変じていた。熔けて、流れて、冷えた跡が波紋を描く。波紋の中心には、掌ほどの黒い欠片が刺さっている。


 セオリクは息を浅くする。無風吸息を心に。

手に何かを持ち、それを二重にして摘み上げると、欠片は低く震え、青水の流れに反撥するように“鳴った”。


(ウガリスラのような...そんな力がある....屑、弱いが人工物でもこれほどの...そもそも可能だったのか...命を持たないのに...ウガリスラ、まさか...。)


 少年の頃、聖菱形銀星団の書庫で目にした挿絵が、脳裏に淡く浮かぶ。

それは神器の断片。

 その時、奥から風が押し寄せた。

 風だけではない。何かが、胸骨の内側を叩く。

 ウガリスラをが、勝手に“裂こう”としたのを感じた。


「……烈、鎮めろ。」


 喉奥で呟き、青水で包む。

胆液を吐き出す。

 荒ぶる源は、ふっと音を立てて収まった。汗が一筋、こめかみを落ちる。

胆液が粘液として、汗と化した。


 先へ。

 壁に沿って進むと、やがて洞は広くなり、低い天井から、無数の“管”が垂れている。葦のように細い金属管。先端は刃のように尖り、その下には石の盤が円陣を描いていた。盤には商隊の印章、荷札、布の端切れが押し込まれ、四方を黒い花が囲っている。花弁は結晶のように見えて、蕊しべは獣の毛。

「獣の毛か?」

 その円陣の縁に、何かの痕。血はない。代わりに透明な粘りが乾いたが鼻腔に刺さる、塩と薬草と油の混ざった匂い。

よく見るよ地面は乾いた人の皮で覆われている。


(全て、抜かれたと、言うの、か..)



 奥の闇が、人の息を返した。

 セオリクは反射で身を伏せる。

 次の瞬間、陰から“影”が飛ぶ。狼ではない。人に近い。両者を縫い合わせたような外見であった。

背は曲がり、片腕が魔獣の四倍に伸びたようなもので、まるでもう一つ、いやそれ以上に何かを取ってつけたようなもの、そして指先を見れば指が刃のように尖っている。

顔には金属の仮面いや、仮面の名に値せぬ、ただの“覆い”。目の位置に穴はない。代わりに、額に小さな黒い結晶が一つ、埋め込まれていた。


 刃は抜かない。

 セオリクは急速に接近しては右手で“腕”の根を掴み、左の鞘を支点に捻る。

そう、なんと空中で鞘を視点にできた。

ウガリスラを持つものにしかできない力だ。

関節が逆へ跳ね、痛いはずの攻撃だが影は呻きも漏らさず、そのまま石に叩きつけられた。

受け身も取らない。

 そのまま喉へ掌底――否、喉ではない。

怪物が止めようとするよりも速く、動きを変えて、額の欠片へ指二本を添え、そのまま突き刺す。

 刹那、影の体がふっと緩む。

追い討つに肋の下へさらに一打、意識を狩りとる。横向きなるそれを上から叩きつける。



あとは動かないのを確認するまで叩く


 ドサ ズン どゴォ


打撃は続く。


暫くして、呼吸や動きもないため近づいて覆いを外した。


 露わになった顔は、普通の若者のものだった。

いいや狼ような魔獣の体に付けられた若者の顔というべきだろうか。

 瞼は縫われ、口には乾いた粘液の筋が走る。

 額の穴は浅い。欠片は皮の下、骨に達さぬ場所に接着されている。

皮膚の色は悪くない。

恐ろしいのがこれでも生きている。痩せ、乾き、恐怖の硬直が残るだけ。


(....外道極まりなき!)


 盤の円陣の向こう、さらに細い通路。

 床には爪と、靴底の混じった跡。

 三本釘で補強した作業靴の型。官の靴ではない。荷運び、鉱夫、あるいは……。


 セオリクは短く息を整え、男の額から欠片を外した。布で包み、鞄へ。

 男に拘束しては、入口の陰へ引きずる。目覚めれば誰かがくるだろうが、それはもし彼、セオリクが死んでいない場合だ。

この場を作った主が生き残ればここにきて助けるものはいないだろう。

最悪彼が自力で逃げられるよう、通路の向きを示す石を並べ、口元に水を数滴垂らした。


「……すまない。今は、先へ行く。」


 独りの足音が、再び闇に沈む。

進む先に通路は下り、空気は湿り、鈴の音が次第に低くなる。やがて音は一つの大きなものへと収束し、洞の底に、黒い柱が立っているのが見えた。

 柱は結晶からできた樹状のもの。

根を張るように床へ広がり、幹に刻まれた無数の切り傷のようなものから、うっすらと黒い霧が滲んでいる。

周りには、魔獣や先ほどの男から剥がした例の結晶によく似た結晶たちが環状のように刺さっていた。


 遠目に、目で、測る。


 聖環四主規魂統制法。

 いま必要なのは、烈でも、心でもない。

 “吸”

濁りをもらわず、こちらの濁りを置いてゆく呼吸。

 “新”

流れを見て、切る場所を選ぶ思惟。


 セオリクは鞘から一寸、刃を覗かせた。

 光は殺す。刃は飲み込んだ。

 靴音を一歩、二歩。


 切り方を見定める。

かつて受けた教訓を。


切るとは、斬ることにあらず。流れを戻すことだ。



(余力を残して……)


斬撃


 呼吸が深くなる。

 青水を意識して、形作るのはは細い糸へ。

 粘液は無風、ただ静かに。無へと

 赤火は灯芯。黄土は囲炉裏。

 刃の角度が、心で落ちる。


肉体を思い描いては

さらに想像を肉体に


 その瞬間、微かな音。


 セオリクは刃を止めた。


そして斬撃!



斬ッ!

切れた核晶

その向こう、暗がりに並ぶ影。近づけば、見えるが杭に繋がれ、頭を垂れた人影が三つ。

 うち一つが、顔を上げる。瞼には縫い目はない。だが眼は焦点を持たず、ただ口がかすかに動いた。


「……たす……け……」


 このまま続けて斬れば、繋がる者にも衝撃は走る。

 遅れれば、さらに育つ。


(..生命を吸っている...弱くある人にすれば死ぬと...)


二択が、セオリクの胸に冷たい重みを落とす。


己が強くある斬撃、普段ならば誇らしいものだが。

ここで切れば、人を無闇に殺してしまう。


封ッ


 彼は刃を納めた。

 先に人だ。

 結晶の環を乱さぬよう、側道を探し、杭の根を確かめ


 その時、背後で、砂がわずかに鳴った。


 振り向かない。

 息だけを変える。

 烈を囲い、心を灯芯へ。

 暗闇のさらに暗いところで、何かが立っている。靴音。重くある。


「そこで止まれ。」


 セオリクは低く告げる。

 返ってきたのは、人の笑いでも獣の唸りでもない、乾いた咳払いだった。


「やはり来たか、聖環連会の犬ども。」


 声は若い。抑えた誇りと、どこか拗ねた響き。

 セオリクは感覚だけで位置を測り、闇へ言葉を投げる。


「お前がここを拵えたのか。」


「拵えた? 違うな。僕は整えただけだからだ。元から在ったものを、少しだけだ。世界は均す手を欲しがっている


 鈴の音が、また遠くで鳴った。



 セオリクは一歩、前へ。

 独りであることの静けさが、感覚を刃よりも鋭くさせて、この地をセオリクの勘で満たさせる。


「ならば、均す。貴様が不整な均しを、我が連会の均しによりこの地を直す!」


 言い終えるより早く、闇が走った。

 同刻、光も走りぞ、剣撃が光舞う。

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