タナカ部長の過去を知ってから、数日が過ぎた。
「絆」チームの定例会議は、いつも以上に静かで、重い空気に包まれていた。私たちの心の中には、タナカ部長への怒りだけでなく、彼の抱える深い悲しみと、複雑な感情が渦巻いていた。彼は、単なる会社の敵ではなかった。過去の傷に囚われ、自らその道を歪めてしまった、一人の人間だったのだ。
「タナカ部長の行動の背景が分かったからといって、彼の妨害工作がなくなるわけじゃない。むしろ、彼の『会社を守る』という歪んだ正義感は、私たちにとってより厄介な壁になるかもしれない」
リョウ先輩が静かに言った。
ホワイトボードには、相変わらず「組織的な妨害への対応」と「やる気を失った若手・中堅層への具体的アプローチ」という二つの課題が書かれている。
その前には見えない「田中義昭」という名前の壁が立ちはだかっているようだった。
「彼の心の奥底には、会社への純粋な貢献意欲と、尊敬する人を失った深い後悔があると、私の直感センサーは、それをはっきりと感じ取っています」
私がそう言うと、ユウトが眉をひそめた。
「ハルカ、気持ちは分かりますけど、そんな感傷的なこと言ってる場合じゃないっすよ。今も裏でネガティブキャンペーンを続けてる。社内SNSの匿名掲示板に、ミサキ先輩の告白を『ただの自己弁護』だって貶めるような書き込みが増えてます。しかも、それがまた、特定の部署から組織的に……」
ユウトの言葉に、ミサキは唇を噛んだ。
彼女の告白は、少なからず社員たちの心に響いたはずだ。タナカ部長は、その感動すらも利用して、さらなる不信の種を撒こうとしていた。
「タナカ部長は、私たちのプロジェクトが彼の信じる『秩序』を乱すものだと本気で思っている。だからこそ、手段を選ばない」
リョウ先輩が重い口調で呟いた。
タナカ部長の歪んだ正義感は、彼にとっての絶対的な真実であり、そこを崩すのは容易ではないことを私たちは理解し始めていた。
「では、どうするか?」
リョウ先輩は、私たちに問いかけた。
「このまま彼の妨害を看過するわけにはいかないし、かといって、彼を完全に排除するだけでは、会社の根本的な問題は解決しない。彼のような人材が、なぜ歪んでしまったのか、その原因を取り除かなければ、第二、第三のタナカ部長が生まれてしまう可能性がある」
私たちは、タナカ部長を倒すのではなく、彼をも含めた「絆」を築く方法を模索しなければならない。しかし、その道はあまりにも険しく見えた。
その日の午後、私は気分転換にと、社内を歩いていた。廊下の向こうから、聞き慣れた声が聞こえてくる。
「え、マジっすか?あの話、本当にミサキ先輩のことだっただな……」
「まさか、あんな大きな失敗を経験してたとは……」
「でも、あれをあんな大勢の前で話すって、すげぇ勇気いるじゃん?」
それは、営業部のサトウ君と、別の若手社員たちの声だった。彼らは休憩室の入り口で、ミサキの告白について話していた。
「でもさ、俺、あの話聞いて、ちょっと感動したんだよな。完璧だと思ってたミサキ先輩にも、あんな失敗があったなんて。」
サトウ君の声には、先日までの無力感は薄れ、わずかながらも前向きな響きが戻っているように感じた。
私の直感センサーは、彼の心の奥底で、何かが確かに動き始めたのを感じ取っていた。それは、ミサキの告白がもたらした、小さな「希望の芽」だった。
しかし、別の社員がため息をついた。
「でも、それで何が変わるっていうの?感動したって、結局、俺たちの仕事が増えるわけじゃないし、新しいチャンスがもらえるわけでもない。結局、またいつものように、上の都合で話が終わるんじゃないの?」
そして、さらに別の社員が、まるで魂が抜け落ちたような、乾いた声で呟いた。
「はっきり言って、どうでもいいよ。会社は仕事する場所。絆だの、連携だの、社員の心だの……そんな感情論に付き合ってる暇があるなら、とっとと定時で帰らせてほしいね。これまでも散々、耳触りのいいスローガンを掲げては、結局何も変わらなかったじゃないか。もう、そういうのに期待するのも疲れたよ」
その言葉は、まるで冷たい水を浴びせかけられたかのようだった。
ミサキの告白は確かに心を揺さぶったが、長年の不信感と諦めは、そう簡単に拭い去れるものではない。
何より、「絆」という概念自体に価値を見出さない、現実主義的な社員の存在。
私の直感センサーは、社員たちの心に広がる「希望」と、それ以上に根強く残る「諦め」という二つの感情の波、そして「無関心」という名の見えない壁を感じ取った。この会社には、表面的な問題だけでなく、長年の間に積み重なった「見えない心の壁」がいくつも存在している。タナカ部長の歪みも、この壁の一つの現れなのかもしれない。
どうすれば、この見えない壁を打ち破り、社員一人ひとりの心を繋ぎ合わせることができるのか?
私たちは、タナカ部長という巨大な壁を前に、同時に、社員たちの心の中にある「見えない壁」という、より複雑な問題と向き合わなければならなかった。
(つづく)