「共感シミュレーション・プログラム」──ユウトが提示したその非凡な奇策は、私たちの心を大きく揺さぶった。タナカ部長の深い心の傷に、VRという形で踏み込む。それは、ある種の「外科手術」にも等しい、繊細かつ大胆な試みだった。
「社長には、先週の会議でプログラムの概要を説明済みです。『幹部層の意識改革研修』と銘打って、タナカ部長に極秘で、強制的に参加させる許可は得ています」
ユウトが自信に満ちた口調で告げた。リョウ先輩は腕を組み、深く考え込んでいる。ミサキは、どこか痛ましげな表情で資料を見つめていた。
「ユウト。タナカ部長が最も尊敬していた上司……その方とは、もう会うことはできないのではないか。その上司が会社を去ってから、もう何十年も経っている」
リョウ先輩の言葉に、ユウトは静かに頷いた。
「はい。確認済みです。タナカ部長が深い後悔を抱く原因となったあのプロジェクトの責任を取り、会社を去った後、その上司の方は、数年前に他界されています。だからこそ、このシミュレーションが意味を持つんです。二度と会えないと諦めていた『理想の上司』と、未来の世界で再会させる。それも、『絆』プロジェクトが会社を変革した後の、希望に満ちた未来で」
ユウトの声には、悲劇を乗り越えさせるための、強い意志が込められていた。天才的な発想が、過去の傷を癒すための最後の希望になるかもしれない。
私の直感センサーは、ユウトの計画が持つ、圧倒的な可能性を感じ取り、胸が高鳴った。
同時に、私のセンサーが感知したタナカ部長との奇妙な繋がりが、頭の片隅でざわめいている。
「分かった。準備を進めてくれ。この作戦は、我々『絆』プロジェクトの未来を左右する。だが、何より、タナカ部長自身を救うための、最後のチャンスでもある」
リョウ先輩の言葉には、作戦への覚悟と、タナカ部長への複雑な思いが滲んでいた。
作戦の実行は、極秘裏に進められた。
私たちは、社長の権限の下、タナカ部長が定期的に受けている「幹部向けストレスチェック」の一環として、このプログラムを適用することにした。当初、疑いの目を向けていたが、社長からの直接の指示とあれば、逆らうことはできなかった。
「私が、こんな意味不明なものを受ける必要があるのかね?」
プログラムが導入された特別室で、タナカ部長は不機嫌そうに呟いた。VRヘッドセットを装着させられることに、明らかに不快感を示している。抗議は虚しく、ユウトの指示に従って技術者がプログラムを起動させた。
「これは、過去のデータを元にした、あなたの意識の『再構築シミュレーション』です。ご自身の脳波を解析し、最適な形で過去と未来を体験していただきます」
ユウトは淡々とした口調で説明した。
その表情は真剣そのもので、まるで目の前のタナカ部長が、単なる実験対象であるかのように見えた。
ヘッドセットが装着されると、タナカ部長の顔から一瞬にして表情が消えた。彼の意識は、現実から切り離され、ユウトが創造した「シミュレーションの世界」へと深く沈んでいく。
その様子をモニター越しに見つめながら、私は自分の直感センサーを最大限に集中させた。私のデータがプログラムに組み込まれているため、タナカ部長の心の波形が、まるで自分の感情のように流れ込んできた。
最初は、過去の失敗プロジェクトの追体験だった。
――上層部の叱責の声。冷ややかな視線。そして、何よりも、信頼していた上司が責任を背負って去っていく、あの時の深い絶望と無力感。タナカ部長の意識は、その痛みに再び苛まれているようだった。モニターに表示される脳波は、激しい苦痛と後悔の波を描いている。
「これは……私を苦しめるだけではないか……」
微かに、ヘッドセットの中からタナカ部長の声が漏れた。内面が、今、赤裸々に露呈している。
だが、プログラムは容赦なく次なるフェーズへと移行した。
暗闇が晴れると、彼の目の前に現れたのは、「絆」プロジェクトが成功し、会社全体が活性化した未来のオフィスだった。若手社員たちが活き活きと働き、部署間の壁がなくなり、創造的なアイデアが次々と生まれている。タナカ部長の最も軽視していたはずのサトウ君や、無関心を装っていた社員たちが、笑顔で協力し合っている。
その一人ひとりの「心の声」が、ハルカの直感センサーを通して、タナカ部長の意識に直接響いてくる。
「これなら、もっと挑戦できる!」
「みんなでやれば、こんなにも楽しいんだ!」
「会社が、本当に変わった……」
それらの声は、タナカ部長がこれまで見てこなかった「希望」の波だった。脳波は、驚きと、戸惑い、そして微かな「安堵」を示し始めた。
そして、プログラムは最終フェーズへと進んだ。
未来のオフィスの奥、陽光が差し込む窓際に、一人の老紳士が立っていた。白髪交じりの髪、その眼差しは、かつて田中義昭が憧れた、あの時の「理想の上司」そのものだった。
タナカ部長の脳波が、かつてないほど激しく波打った。シミュレーション意識が、その人物にゆっくりと近づいていく。
「――部長……!」
シミュレーションの中のタナカ部長の声が、微かに震えた。その場で膝から崩れ落ちるようにして、嗚咽を漏らした。長年、心の奥底に押し込めていた後悔、罪悪感、そして誰にも理解されなかった孤独が、堰を切ったように溢れ出す。
老紳士は、静かに、力強く微笑んだ。その表情は、どこまでも優しく、彼を包み込むようだった。
「田中君か……よく、ここまでやってくれたな」
その声は、タナカ部長の心の最も深い場所に響き渡る。顔を上げ、涙で滲む視界の先に、あの頃と変わらない、遥かに穏やかな恩師の瞳を見た。
「あの時……私は、あなたの言葉を、思いを……」
タナカ部長は、途切れ途切れに言葉を紡ごうとしたが、嗚咽で続かない。
「わかっている、田中君。お前は、あの時、会社を守ろうと必死だった。私の言葉が、結果としてお前を苦しめることになった。済まなかったな」
老紳士は、ゆっくりとタナカ部長の肩に手を置いた。その温もりが、彼の全身にじんわりと染み渡る。
「お前は、責任感が強すぎたのだ。会社を守りたいと願うあまり、一人で全てを背負い込み、変化を恐れるようになった。だがな、田中君。本当に守るべきものは、形ある『秩序』だけではないんだよな。社員一人ひとりの『心』であり、そこから生まれる『可能性』なのだと私は思っている。
私が会社を去った時、お前が感じた痛みは、決して無駄ではなかったと思いたい。その痛みが、今、お前を、この会社を、真に変える力になる」
老紳士は、未来のオフィスをゆっくりと見渡した。活気あふれる社員たちの声が、言葉に重なる。
「見てみろ、田中君。この光景を。お前が恐れた『無秩序』ではない。これは、『絆』だ。お前が本当は求めていた、誰一人犠牲にしない、強靭で、しなやかな新しい秩序なのだ。お前が守ろうとしたものが、今、ここで、新たな形となって息づいている。これこそが、会社を未来へ導くのだよ」
タナカ部長は、まるで憑き物が落ちたかのように、ただただ泣き続けた。長年の重荷が、今、完全に解き放たれていく。頑なな心の壁が、音を立てて崩れ去るのが、私の直感センサーにはっきりと感じられた。
私たちの「非凡なる奇策」は、タナカ部長の心に深く、そして確実に作用し始めていた。タナカ部長の脳波は、激しい感情の波の後に、深い安堵と、微かな「希望」の光を放ち始めていた。
しかし、この強烈な体験が、現実のタナカ部長に、どのような変化をもたらすのか。
そして、私の直感センサーが捉えた「非凡な疑惑」の影は、このシミュレーションの中で、どのように形を現すのだろうか。
その答えは、まだ見えない。
(つづく)