ノックの音で、回想が遮られた。
「どうぞ」
入ってきたのは、事務長兼次席薬師のアレッシャン。
薬品原料を詰めた箱を両手に抱え、いつもの陽気な笑みを浮かべている。
「社長、ご依頼の薬品素材、ついに全部揃いました!」
「まあ、ドレガレコレの実も?」
材料を覗き込んだカリヨンの声が
社交性と調達の腕を持つこの男の明るさが、今日は特にありがたい。
「はい、がんばりました。これで『カリヨンスペシャル美顔剤・美白機能強化バージョン』、完成は確実ですね!」
カリヨンはほんの少し頬を赤らめた。
「……もう、その名前で決定なの?」
「もちろん。業界でも浸透してきましたよ」
這い寄るような過去の
今、目の前にあるのは未来だ。
カリヨンが開発した美顔剤は、肌質を生かし、自然な美しさを引き出すのが特徴だった。
「鏡に映る自分が、自分を好きでいられますように」
それは調合のたびに、心の中で唱えてきた小さな祈り。
その思いをアレッシャンに話した翌日には、それを活かした販促資料が机に置かれていた。
ふと、カリヨンは机に目をやる。
そこには、父からのお粗末な「許し」があった。
「アレッシャン。この手紙の送り主の現状と意図を調べてちょうだい」
アレッシャンは手紙を読み、不愉快そうに眉をひそめた。
「……なるほど。グロリハレル伯爵家から、ですか」
「今さら、何なのかしらね」
カリヨンは皮肉を込めて笑う。
だが、その奥には吐き気のような嫌悪と、諦め混じりの憐れみが渦を巻いていた。
彼女は壁際の鏡に視線を移す。
映る顔は、もはややつれ果ててはいない。
6年前、家を出た夜に見た、決意に満ちた少女。
いつも理不尽に打ちひしがれていたその子は、大人になった。
今ここにいるのは、王室御用達薬師カリヨン。
たとえ激務で疲れていても、やつれた顔にはならない。
「王妃殿下の愛され薬師」と噂される、ひとりの職人だ。
「……社長は、あまりゲスいゴシップに通じておられませんからね」
「……伯爵家は、ゲスいのね」
「はい。とても」
カリヨンはふうっとため息をつき、アレッシャンは水差しからふたり分の水を注ぐ。
「ところで……私、一体なにを『許される』というのかしら?」
アレッシャンはにやりと笑いながら、手紙を資料袋にしまった。
「『許す』と言いつつ、狙いは別です。助けを乞うための布石ですよ」
声のトーンが低くなる。
「お知らせしていませんでしたが、グロリハレル伯爵家は現在、破産寸前です」
カリヨンは目をすっと細めた。
「あら、母の遺産の王国債で、10年くらいは保つと思ってたのに」
王国債は彼女の実母が遺した固有財産だった。
18歳で換金できるそれを、あえて屋敷に残した。
――王国債を手にすれば、追ってこない。
そう確信していて、実際その通りになった。
手切れ金のようなものだ。母と祖父には感謝している。
「かなり早い時期に使い尽くしたようです。投資と称した浪費や妹さんの社交費が……」
「やっぱりね。全然意外じゃないわ」
カリヨンは目を閉じて、深く息を吸い込む。
そして、ゆっくり天井を仰ぐ。
また、あの傷だらけの鏡が心に浮かぶ。
怒り、哀しみ、悔しさ。
一度は手放したはずの感情が、じんわりと胸の奥に広がっていく。
喉の奥に熱いものがせり上がり、唇を噛んだ。
――泣くものか。私はあの日、泣かなかった。今日も泣かない。
「……ふっ、馬鹿みたい」
ひとりごとのように呟き、精緻な細工に囲まれた鏡の中の自分を見つめた。
そこには、涙ではなく、うっすらとした冷笑が浮かんでいた。
アレッシャンもその表情を見て、小さくうなずいた。
「そういえば、最近、奇妙な話を聞きました。レナ嬢が『社交界の好みは古い。私なら新しい時代を切り拓ける』と吹聴しているそうです」
「へえ……どんな『新しい価値』を売るつもりなのかしら」
「調べておきます」
このとき感じた不安は、後に的中することとなる。