目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第2話 事務長・次席薬師


 ノックの音で、回想が遮られた。


「どうぞ」


 入ってきたのは、事務長兼次席薬師のアレッシャン。

 薬品原料を詰めた箱を両手に抱え、いつもの陽気な笑みを浮かべている。


「社長、ご依頼の薬品素材、ついに全部揃いました!」

「まあ、ドレガレコレの実も?」


 材料を覗き込んだカリヨンの声がはずんだ。

 社交性と調達の腕を持つこの男の明るさが、今日は特にありがたい。


「はい、がんばりました。これで『カリヨンスペシャル美顔剤・美白機能強化バージョン』、完成は確実ですね!」


 カリヨンはほんの少し頬を赤らめた。


「……もう、その名前で決定なの?」

「もちろん。業界でも浸透してきましたよ」


 這い寄るような過去のかげりを、意識の奥へ押し戻す。

 今、目の前にあるのは未来だ。


 カリヨンが開発した美顔剤は、肌質を生かし、自然な美しさを引き出すのが特徴だった。


「鏡に映る自分が、自分を好きでいられますように」


 それは調合のたびに、心の中で唱えてきた小さな祈り。

 その思いをアレッシャンに話した翌日には、それを活かした販促資料が机に置かれていた。


 ふと、カリヨンは机に目をやる。

 そこには、父からのお粗末な「許し」があった。


「アレッシャン。この手紙の送り主の現状と意図を調べてちょうだい」


 アレッシャンは手紙を読み、不愉快そうに眉をひそめた。


「……なるほど。グロリハレル伯爵家から、ですか」

「今さら、何なのかしらね」


 カリヨンは皮肉を込めて笑う。

 だが、その奥には吐き気のような嫌悪と、諦め混じりの憐れみが渦を巻いていた。


 彼女は壁際の鏡に視線を移す。

 映る顔は、もはややつれ果ててはいない。


 6年前、家を出た夜に見た、決意に満ちた少女。

 いつも理不尽に打ちひしがれていたその子は、大人になった。


 今ここにいるのは、王室御用達薬師カリヨン。

 たとえ激務で疲れていても、やつれた顔にはならない。

 「王妃殿下の愛され薬師」と噂される、ひとりの職人だ。


「……社長は、あまりゲスいゴシップに通じておられませんからね」

「……伯爵家は、ゲスいのね」

「はい。とても」


 カリヨンはふうっとため息をつき、アレッシャンは水差しからふたり分の水を注ぐ。


「ところで……私、一体なにを『許される』というのかしら?」


 アレッシャンはにやりと笑いながら、手紙を資料袋にしまった。


「『許す』と言いつつ、狙いは別です。助けを乞うための布石ですよ」


 声のトーンが低くなる。


「お知らせしていませんでしたが、グロリハレル伯爵家は現在、破産寸前です」


 カリヨンは目をすっと細めた。


「あら、母の遺産の王国債で、10年くらいは保つと思ってたのに」


 王国債は彼女の実母が遺した固有財産だった。

 18歳で換金できるそれを、あえて屋敷に残した。


 ――王国債を手にすれば、追ってこない。


 そう確信していて、実際その通りになった。

 手切れ金のようなものだ。母と祖父には感謝している。


「かなり早い時期に使い尽くしたようです。投資と称した浪費や妹さんの社交費が……」

「やっぱりね。全然意外じゃないわ」


 カリヨンは目を閉じて、深く息を吸い込む。

 そして、ゆっくり天井を仰ぐ。


 また、あの傷だらけの鏡が心に浮かぶ。


 怒り、哀しみ、悔しさ。

 一度は手放したはずの感情が、じんわりと胸の奥に広がっていく。


 喉の奥に熱いものがせり上がり、唇を噛んだ。


 ――泣くものか。私はあの日、泣かなかった。今日も泣かない。


「……ふっ、馬鹿みたい」


 ひとりごとのように呟き、精緻な細工に囲まれた鏡の中の自分を見つめた。

 そこには、涙ではなく、うっすらとした冷笑が浮かんでいた。


 アレッシャンもその表情を見て、小さくうなずいた。


「そういえば、最近、奇妙な話を聞きました。レナ嬢が『社交界の好みは古い。私なら新しい時代を切り拓ける』と吹聴しているそうです」

「へえ……どんな『新しい価値』を売るつもりなのかしら」

「調べておきます」


 このとき感じた不安は、後に的中することとなる。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?