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第2話 :偽りの仮面と真実の愛

 エドワード・クラレンス侯爵が初めて私の屋敷を訪れてから、わずか数日後。私は父に伴われて、クラレンス侯爵家の領地へと出向くことになった。家同士の正式な顔合わせはすでに済ませたとはいえ、これから嫁ぐ先を自分の目で確かめ、領民や使用人との対面を経て、できる限り不安を拭っておきたいというのが父の考えだった。


 もっとも、私は不安が拭えるどころか、この訪問によって新たな緊張が増すのではないかと思っている。なにしろ、相手は“冷酷”や“非情な策略家”と噂される若き侯爵──エドワード・クラレンスなのだ。初対面の日こそ穏やかな物腰だったものの、それが彼の本質なのかどうかは分からない。礼儀正しい仮面の下に何を隠しているのか、私にはまだ何一つ読み取れなかった。


 それでも、彼は私のことを「とても知的で美しいお嬢様だ」と褒めそやし、「あなた個人の夢や目標を応援したい」と言ってくれた。そんな甘い言葉を政略結婚の道具として使う人もいるだろうし、逆に本当にそう思っている場合だってある。私はその真意を見極めることができないまま、馬車の窓をぼんやりと眺めていた。


 今日は春の陽気が穏やかに広がり、空には雲一つない。旅日和とも言えるだろう。ローウェル家の領地を出て、一時間ほど揺られた頃だろうか。果てしなく続く草原や森を抜け、道が緩やかな坂道に差しかかったあたりで、突然父が口を開いた。


「……アマンダ。お前の心配は分かるが、今回の訪問では失礼のないようにふるまえ。どんなに疑問があろうとも、クラレンス侯爵家は我々にとって大切な相手だ。軽率な態度は慎むのだぞ」


「はい、分かっています」


 そっけない返事になってしまったが、私も承知の上だ。エドワード個人を信用しきれないからといって、礼儀を欠くような真似をしてはならない。そんなことは、貴族としての最低限のマナーを叩き込まれてきた私が、一番心得ているつもりだ。


 馬車がさらに進むと、大きく拓けた視界の先に白亜の尖塔が見え始める。高くそびえる城郭のような建造物は、さすが侯爵家の本拠地というだけあって圧巻の佇まいだ。周囲には広大な庭園らしき緑が広がり、遠目にも手入れが行き届いているのが分かる。


「クラレンス領……噂には聞いていましたが、実際に目にすると想像以上に大きいですね」


 思わず感嘆の声を漏らすと、父は淡々とした口調でうなずく。


「そうだな。あそこに見える白い屋敷が、クラレンスの本邸だ。城塞のように外壁が巡らされていて、かつ庭園の美しさにも定評があると聞く。かつては敵国との最前線だった歴史を持ち、国王からも特別な信頼を得ている名門だ。……恐れ多い相手だぞ、アマンダ」


「……はい」


 父の言葉に混ざる僅かな畏怖が、私の胸にもズシリとのしかかる。たとえ表面上どれだけ穏やかに接してくれようとも、そこにあるのは強大な権力と莫大な富を誇る名門貴族。何かあれば、こちらは一瞬で呑み込まれる立場だ。それを思うと、さらに緊張が高まってくる。


 やがて馬車は門前で停まり、クラレンス家の使用人らしき者がこちらを出迎えてくれた。皆きびきびと整然としていて、どこか軍隊のような印象を受ける。迎賓用の広い馬車停留場には既に数台の馬車が整然と並べられており、この領地の繁栄ぶりが嫌でも目に入ってきた。


 扉が開き、父が先に降りる。そのあと私の番が来たため、裾が汚れないよう注意しながらステップを踏む。そこには先ほどから控えていた執事らしき初老の男性が丁寧に頭を下げていた。


「本日はようこそお越しくださいました、ローウェル公爵様。そしてアマンダお嬢様。私はクラレンス侯爵家の執事、テオドールと申します。屋敷の中へご案内いたしますので、どうぞこちらへ」


 テオドールと名乗った執事は、どこか厳粛で品のある雰囲気を漂わせている。その笑顔は深い皺が寄っていながらも柔らかい印象で、長年仕えてきた家への忠誠心を感じさせた。


「お世話になります。……あの、エドワード様はもうこちらに?」


 思わずエドワードの所在を尋ねると、テオドールは微笑を浮かべて応えた。


「はい、旦那様は既にお嬢様方をお待ちかねです。執務室にて公務の合間を縫っていらっしゃいますが、すぐにお顔合わせができるかと。まずは旅のお疲れを癒していただくため、客間へご案内いたしましょう」


 言葉の通り、私たちは館の中へと通される。外観も壮麗だったが、内装の見事さはそれ以上だった。大理石をふんだんに使った床や壁、天井を彩る豪奢なシャンデリア、そして季節の花を惜しげもなく飾った花瓶の数々。まるで王族の城を思わせるような豪華さだが、不思議と嫌味がないのは色彩の調和が計算されているからだろうか。見た目よりも落ち着いた雰囲気があり、館全体にほどよい静寂が漂っていた。


(……こんな場所で、これから私は暮らすことになるの?)


 にわかには信じがたい。美しいと思う反面、途方もない規模に圧倒されるばかりだ。客間に案内されるまでの通路だけでもどれだけ歩いただろう。少なくとも私の実家より広く、廊下の奥がどこまで続いているのか見当もつかないほどだ。


 そして、通された客間もまた然り。屋敷のいち室とは思えないほど天井が高く、豪奢な調度品に囲まれている。応接セットはふかふかのソファが三組ほど置かれており、その中央のガラス製テーブルには、茶器と菓子の盛り合わせが用意されていた。


「こちらで少しお休みになってください。改めて、旦那様をご案内いたしますので」


 テオドールの言葉に従い、私と父はソファに腰を下ろす。しとやかに湯気を立てる紅茶の香りが、緊張を和らげるように鼻をくすぐった。けれども、私の胸はまだ鼓動が速いまま。父も終始、硬い表情を崩さずにいる。


 それから五分も経たないうちに、扉がノックされ、「失礼します」と静かな声がした。見ると、あのエドワード・クラレンス本人が姿を現した。黒い上着に銀の装飾が映え、背の高い彼の風貌は相変わらず絵画から抜け出したように整っている。


「ローウェル公爵、そしてアマンダ嬢。ようこそ、私の領地へ」


 エドワードはスッと頭を下げると、私たちの前にゆったりとした動作で座った。その隣にはテオドールが控えるように立っており、エドワードが続ける言葉を待っている。


「先日はお忙しい中、わざわざ私どもの屋敷へお越しくださりありがとうございました。初対面ということで、ゆっくりお話をする時間もなかったかと思いますが……本日は領内をご案内させていただきたい。アマンダ嬢の新しい住まいとなる場所ですからね。納得のいくまでご覧になってください」


 柔らかな口調に、私は少しだけ肩の力が抜けた。父も控えめに礼を述べ、そして本題を切り出す。


「エドワード侯爵。このたびは、我が娘を快く迎えてくださると伺い、感謝しております。我が家としても、アマンダを通じてクラレンス家に少しでもお役立ていただけるなら、これ以上の喜びはありません。ただ、やはり私としては、娘に安穏な暮らしを送らせたいという気持ちが大きい。……そこで、今日はいくつかお話をうかがいたいのですが、よろしいでしょうか?」


「ええ、もちろんです。公爵のお望みには、できる限りお応えいたします」


 そう言うと、エドワードは目でテオドールに合図し、すぐさま彼は部屋を出て行った。なにやら意図があるのだろうと思っていると、また数分後、今度は大きな書簡の束を抱えた別の使用人が戻ってきた。エドワードがそれを軽く受け取り、テーブルの上に拡げてみせる。


「これは私の領地の概要や家計簿の一部、それから主要な年次計画の書類です。もちろん機密に触れない範囲ではありますが、ローウェル公爵に安心していただくためにも、ざっとご覧いただければと思って用意しました」


「ほう……」


 父は思わず感嘆の声を漏らしながら、その資料を手に取った。私も横から覗き込むが、そこには非常に整然とした数字や記録が並んでいる。領地の地図に加え、農地や商業の収益、税の配分、さらには福祉や治安維持の施策など、多角的にまとめられているようだ。


(……すごい。こんなに細かくデータを取っているのね)


 私は貴族の娘でありながら、領地経営の細部までは知らない。だが、家庭教師から習った知識や、父の会話から断片的に得た情報と照らし合わせても、ここまで体系立てて管理している領主は珍しいと感じる。大抵の領主は役人や代理人に任せきりになりがちだというのに、エドワードは自ら統括しているのだろうか。


「侯爵……。私も自領を抱えてはおりますが、ここまで統制が取れている領地はそう多くないでしょう。貴公はかなり綿密に計画を立てているのだな」


 父が心底驚いた様子で言うと、エドワードはわずかに微笑む。


「恐れ入ります。私自身、幼い頃から“無駄”が嫌いでした。物事には必ず理由があり、数値を見れば対策が打てる。そう考えて、なるべく領内の現状を可視化するようにしているんです。……もっとも、まだまだ改善の余地はあるとは思いますが」


 その落ち着いた口調と表情には、誇りや自信がにじんでいる。きっと彼は、政治の世界や実業界で「冷酷な策略家」と呼ばれるにふさわしいだけの才覚を持っているのだろう。私は思わず、その横顔をまじまじと見つめてしまった。


(やはり、ただ穏やかなだけの人ではない。内側には、計り知れないほどの知性と冷静さが宿っているんだわ……)


 同時に、こうもきちんと領地経営を行っているなら、領民の暮らしも安定しているのではないかと推測する。だとしたら、私がここに嫁ぐことが領民にとっても有益になるのなら、それは悪い話ではない。……そう思う一方で、私個人の幸せはどこにあるのだろう、と胸がちくりと疼く。


 父とエドワードが領地経営や財務の話で盛り上がっている間、私は大人しく耳を傾けていた。話を聞く限り、エドワードには裏表のない論理的思考があると感じられる。だが、それが彼の“人間味”や“感情”の部分にまで当てはまるのかは分からない。もし私との結婚すら、綿密に計算された合理的判断の延長であるならば──そこに愛は存在しなくても、何ら不思議はない。


 しかし、その時ふと、エドワードが私に視線を向けた。まるで私が何を考えているのかを見透かすかのような瞳で。


「アマンダ嬢、あなたは領地の事情に興味がありますか? もしよければ、外へご案内しましょう。館の中だけ見ても、これからの暮らしの全貌は分からないでしょうから」


 突然振られた言葉に、私は一瞬戸惑う。しかし、驚きはしたものの、領地を実際に見ることでいろいろと理解が深まるのは確かだ。私にとってはありがたい提案であるとも言える。父も「そうだな、アマンダが見たいというのなら」と肯定してくれたので、私は「よろしくお願いします」と素直に応じた。


1. 領内視察と侯爵の意外な一面


 クラレンス家の屋敷の外へ出ると、ちょうど昼下がりの柔らかな陽光が降り注いでいた。エドワードは私に歩調を合わせながら、庭を抜けて敷地内の厩舎へ案内してくれる。そこでは黒馬や白馬が整然と飼育されており、きらりと光る毛並みが印象的だった。


「私は普段、領内を回るときは馬に乗るのですが、馬車の方がよろしければそちらを用意しましょうか?」


 エドワードが尋ねてくる。乗馬は幼い頃に一通り習ったものの、男性のように頻繁に乗る機会はなかった。スカートの長いドレス姿で乗馬をするのは少し心もとないが……きっとエドワードも、私が“できるかどうか”を試しているわけではないだろう。単純な配慮かもしれない。


「そうですね……ドレスのままでは乗りにくいと思いますし、馬車をお願いできますか?」


「ええ、もちろんです。ご安心ください」


 彼が軽く手を振ると、厩舎の係の者が素早く動き出し、あっという間に小型の屋根付き馬車が用意される。どの使用人も無駄のない動きで、領主に対する忠誠と訓練の行き届き具合を感じさせた。


 やがて私とエドワードは、その馬車に乗り込んで敷地の門を出る。乗り心地はなめらかで、揺れも最小限に抑えられているようだった。私は窓辺から風景を楽しみながら、自然と会話が増えていく。


「このあたりの村々は、気候が安定していて農業に向いているんです。主要作物としては小麦を中心に、野菜や果物を育て、近隣の町へ卸しています。貿易路にも近く、馬車の往来も盛んですから、商人たちからも重宝されているんですよ」


 エドワードは手短に領内の特徴を説明してくれる。その内容は、先ほど父と話していた通り論理的かつ明快で、彼の知識の広さを垣間見た気がする。馬車の窓から見える景色は緑が多く、平和そうに見えるが、彼の計画があってこその安定なのだろうと納得した。


 しばらく進んだ先に、小さな村落が見えてくる。畑が広がり、農民らしき人々が作業している姿があちこちに見受けられた。私たちの馬車が通りかかると、彼らは一様に手を止め、頭を下げて挨拶してくれる。


「……皆さん、あなたを見てとても安心したような顔をしていますね」


 私はそう言って、村人のほとんどが歓迎の笑みを浮かべていることに気づいた。領主の姿を見て嫌悪する人もいるかもしれないと、どこかで思っていたのだが、ここではそんな様子はない。エドワードは窓の外を見やりながら、静かに言葉を返す。


「私も昔は領民が本当に私を受け入れているのか分からず、不安になることがありました。しかし、こうして彼らが作物を育て、生活を営む姿を見ると、私がしていることが少しでも役に立っているのかなと思えます。……それを私に気取られないよう、皆さま自立心が強いのですがね」


 冗談めかした言葉の端々から、確かな愛情と誇りが感じられた。やはり、ただの冷酷な策略家だけではないのかもしれない。少なくとも領民にはしっかりと目を配り、領主としての務めを果たしている。そう考えると、私はほんの少しだけ、彼に対して安堵の気持ちを抱き始めていた。


「……あの、エドワード様」


「はい、何でしょう?」


「私、先ほどの資料を見て驚きましたけれど、領民の福祉に関する取り組みがとても充実していたのは、本当にあなたが主導で?」


 たとえば貧困家庭への食糧支援や、孤児の保護施設の運営、傷病者への無償治療など、多岐にわたる具体的な施策が資料に載っていた。これは普通の貴族には珍しいことだ。いや、言い方を変えれば「そこまで領民にお金をかけるなんて、何か見返りがあるのだろうか」と勘繰る者もいるレベルだ。


 エドワードは少し照れたように笑い、頬をかすかに緩めた。


「ええ、私の考えです。領民は私にとって“家族”のようなものなんです。領地が安定するには、彼らが健康で安心できる暮らしを送ることが大前提。結果的に、それは生産性の向上や、治安の維持にもつながるでしょう。……もちろん、全てが慈善の心だけで動いているわけではありません。領主としての“投資”でもあります」


 論理と感情を合わせた答え。それはまさに彼の性格を象徴しているように思えた。私は少し驚きながら、ふと微笑んでしまう。彼は世間から“冷酷”や“策略家”と呼ばれているが、実際はこんなふうに領民を思いやる心を持っているのだ。


「……素敵ですね。私、正直に言うと、エドワード様がもっと冷たい方かと思っていました。でも、領民の方々の顔を見れば、あなたのやり方に感謝しているのが分かります」


 私の言葉に、エドワードは意外そうに目を見開き、それからくすりと笑う。


「そう言っていただけるのは嬉しい。けれど、私はあなたが想像するほど善人でもありませんよ? 求めるものを得るためには多少の強引な手段も厭わない。“冷酷”という評価は、まったくの誤解でもないのです」


 そう言う彼の横顔はどこか寂しげだった。自分が冷酷と呼ばれる理由を、誰よりも理解しているのだろう。そしてそれを受け入れた上で、この領地を守るために手段を選ばないと決めているのかもしれない。


 私は急に胸が苦しくなり、思わず言葉に詰まる。普段は簡単に覗き見せない彼の心情を、ほんの少しだけ垣間見た気がしたからだ。


「アマンダ嬢……あなたは、私をどう思いますか?」


 馬車の揺れの合間に、彼が不意に問いかけてくる。その瞳には、どこか試すような光があった。もし私が「ただの冷たい人」と断じたら、彼はどうするのだろう。


「……まだよく分かりません。ただ、噂のままの“非情で冷たい人”という印象は、今日一日を過ごしただけでも、随分違うのだなと思いました」


「そう……」


 エドワードは短く答え、また静かな沈黙が流れる。私は少し居心地の悪さを感じながらも、決して嫌な沈黙ではないのを自覚していた。彼と話すうちに、私の中でほんの少しずつ、エドワードへの恐怖心が和らいでいく感覚がある。まだはっきりと言葉にはできないけれど、それは確かな手応えだった。


2. 小さなトラブルと、侯爵の優しさ


 そんなふうに領地を巡り、エドワードの説明に耳を傾けながら馬車で戻ろうとしていたその時だ。少し狭い道を抜けようとした際、突然コツンという異音とともに車輪がバランスを崩し、馬車が大きく揺れた。


「きゃっ……!」


 思わず悲鳴を上げてしまう私。身体が横に倒れかけたところを、とっさにエドワードが支えてくれた。彼の腕が私を包み込むようにして、馬車の壁にぶつかるのを防いでくれる。


「大丈夫ですか、アマンダ嬢?」


 焦ったようなエドワードの声が聞こえ、私は胸の高鳴りを抑えながら顔を上げた。彼の顔が至近距離にあり、驚きに加えて恥ずかしさで顔が熱くなる。見れば、彼の腕の中にすっぽりと収まっている私がいて、すぐ傍らで彼の心音がドキドキと感じられるようだ。


「え、ええ……大丈夫です。すみません、変な声を出してしまって」


 慌てて身を起こそうとするが、馬車がまだ安定しきっていない。再び揺れがきたのを感じ取り、エドワードは片腕でしっかり私を抱き留めた。私の方もバランスをとるため、気づけば彼の胸元に手を添えている。


(……な、なにこの状況……っ!)


 あまりに急な接近に、頭が真っ白になる。普段、男性とここまで近い距離で接する機会などないし、ましてや結婚相手とはいえ初対面から日が浅い相手だ。意識するなというのが無理な話で、私の心臓は先ほどの揺れ以上に大きくバクバクと揺れていた。


「落ち着いて……どうやら車輪が石か何かに乗り上げたようです。外に声をかけてみましょう」


 エドワードがそっと私から離れ、馬車の外へ指示を出す。御者が状況を確認すると、やはり車輪の一部が壊れてしまったらしい。修理に少し時間がかかりそうだとのことだった。


「申し訳ありません。お嬢様を無事に屋敷へお戻しするはずが……」


 御者が恐縮する中、エドワードは「気にするな」と言わんばかりに首を振る。そして、私にも気遣わしげな視線を向けた。


「アマンダ嬢、少し歩くことになりますが構いませんか? この場所から屋敷までは距離にしてそう遠くはありません。メインストリートを歩けば二十分ほどです。もしご気分が悪ければ、他の馬車を手配してもいいのですが……」


「歩きましょう。ちょうど外の空気も吸いたかったところですし、そんなに遠くないなら問題ありません」


 幸い今日は天気も悪くない。急なトラブルだったが、かえって彼と二人で歩けるいい機会かもしれない。私は少しだけ気後れしながらも、彼の申し出を受け入れることにした。


 馬車を離れ、エドワードと並んで歩き始める。程なくして、整備された通りに出た私は、改めてクラレンス領の町並みに感心した。古い建物と新しい建物が混在しているが、どちらも清潔感があり、人々が笑顔で暮らしている様子が伝わってくる。子どもたちが道端で遊んでいる姿を見ると、自然と頬が綻んだ。


「あら、侯爵様、こんにちは」


「おや、今日はお散歩ですか?」


 道行く人々がエドワードに向けて親しく声をかける。彼もまた、軽く手を振って返事をしている。その様子は冷酷とは程遠く、まるで古くからの友人同士のようなやり取りだ。


「へえ、本当にここでは愛されているのですね。皆さん、あなたを見ると安心するようです」


 私が素直な感想を口にすると、エドワードは「さあ、どうでしょうね」とやや照れくさそうに微笑んだ。


「領民が私を信用してくれるのはありがたいことですが、同時に責任も大きい。時には厳しい決断を下すこともある。そういう時は、私を冷酷だと非難する者もいるでしょう。……それでも、この領地を守るためには必要なことだと、私は信じています」


 やわらかな笑みを浮かべながら、彼はそんな覚悟をさらりと口にする。私は、その強さに心を打たれた。表向きの微笑みの奥に、どれだけの責務と決断を抱えているのか。凡庸な領主なら何も考えずに権力をふるうだけだろうが、エドワードは違う。責任の重さを理解したうえで行動するからこそ、領民に信頼されているのだ。


「私も、ローウェル家の娘として、もっと父の仕事を手伝えればよかったのでしょうが……。貴族の令嬢は家の存続のために嫁ぐもの、と言われ続けて育ったので、正直、領地経営のことはあまり深く学んでこなかったんです」


 ぽつりと零れる本音。それをエドワードは黙って聞いていた。私は言いながら少し恥ずかしくなり、顔を俯かせる。政略結婚に巻き込まれることが多いこの社会で、私だけが特別というわけではないが、もう少し自分でできることがあったのではないか、と今更ながらに思ってしまう。


「それなら、これからゆっくり学んでいけばいいのではありませんか? あなたは聡明な方だ。私が持っている知識でよければ、いくらでも教えますし、あなたの意見もぜひ聞かせてほしい。……何も、最初から全てを知っている必要などありませんよ」


 エドワードの言葉は優しく、また思いやりに満ちていた。その声を聞くと、私の心の中でいくつかの迷いが静かに解けていくような気がする。確かに、まだ何も知らない私だけど、これから学んで少しでも成長すればいい。それが彼にとっても役に立つならば、私とクラレンス家の結婚も無意味ではなくなるだろう。


「……ありがとうございます。エドワード様」


 私が素直に礼を述べると、エドワードはふと足を止め、私の瞳をじっと見つめた。その瞳はまっすぐで、嘘をついているようには見えない。


「アマンダ嬢、あなたはこの結婚に不安を感じていますね?」


 ドキリと胸が鳴る。そんなこと、表立って言ったつもりはないのに、彼には見抜かれているようだ。


「……ごめんなさい。失礼な話だとは思うのですが、やはり私にはまだ分からないことが多くて。あなたのことも、クラレンス家のことも……」


 私は覚悟を決めて本音を吐き出す。政略結婚だと分かっていても、心が追いつかないのは事実だ。彼の優しさが本物なのか、あるいは何らかの計算によるものなのか──その境界さえはっきりしない。


 すると、エドワードは少し寂しそうな微笑を浮かべた。


「それは当然です。まだ日が浅いのですから。でも、あなたが思っている以上に私はあなたを知りたいと思っています。そして、あなたにも私を知ってほしい。……結婚はお互いが理解を深めるための第一歩でもあるでしょう?」


 その言葉はあまりにもまっすぐで、私の胸に深く刺さる。彼がどこまで本音で言っているのかは分からない。けれど、少なくとも今の時点で私を侮ったり、ぞんざいに扱うような態度は微塵も感じられない。


「私は……あなたを知りたいと思います。少しずつ、で構いませんか?」


 私がそう答えると、エドワードの瞳が優しく細められ、その唇に穏やかな笑みが宿る。


「ええ、ゆっくりで構いません。あなたが望むなら、私はいつでもあなたを歓迎しますよ」


 まるで告白とも取れるようなやり取りに、思わず頬が熱くなった。真昼の町の往来だというのに、ここだけ時間が止まったかのような静寂が私たちを包み込む。その空気に耐えきれず、私は一歩進み出し、「……戻りましょうか」と言って歩を進める。エドワードも軽く笑って頷き、再び隣に歩み寄った。


3. 戻り際の小波乱


 やがて屋敷が見えてきたころ、私たちは遠目に父の姿を見つけた。どうやら馬車のトラブルを聞きつけて、こちらまで様子を見に来てくれたらしい。父のそばにはクラレンス家の執事や使用人たちも控えており、少し離れた場所には見知らぬ馬車が止まっているのが目に入る。


(誰か来客だろうか……?)


 そんな疑問を抱いていると、父の隣に立っている中年の貴族らしき人物が、こちらに気づいて視線を向けてくる。上品というよりはやや派手な衣服に身を包んだ、どこかいかにも貴族という雰囲気をまとった男だ。顔立ちは厳つく、口元には不敵な笑いを浮かべていた。


「アマンダ、無事だったか?」


 父の声が少し安堵を含んでいる。私は軽く会釈し、「はい。車輪の故障で歩いて帰ってきましたが、エドワード様が一緒でしたので大丈夫でした」と伝える。それを聞いて父はホッとした表情を見せるが、隣の男が鼻を鳴らすように言った。


「おやおや、さすがクラレンス侯爵。姫君を同伴して散歩とは、ずいぶんと仲がよろしいようで」


 その言葉には皮肉が混じっているように聞こえる。私が少し不快感を覚えたのも束の間、彼はまるで私を値踏みするかのように見つめてきた。


「あなたがローウェル家の令嬢か……なるほど、確かに美しい。それにしても、クラレンス侯爵がまさか女性を優先するとは。世の中、分からないものだな」


 嫌味なのか、冷やかしなのか判然としない言葉に、私は戸惑って何も言えなくなる。エドワードはというと、一瞬だけ冷たい光を瞳に宿したが、すぐに口元に淡い微笑を浮かべて答えた。


「トリスタン伯爵、急な訪問とは珍しいですね。今日はどのようなご用件でしょう?」


「ふん、別に大した用はないがね。先日、私の領地にあった小競り合いの対処をあなたが取り仕切ると聞いて、その経過を確認しに来た。……もっとも、会ってみれば、“熱々”の現場を目撃したわけだが?」


 トリスタン伯爵と呼ばれた男は、含みのある笑みを漏らす。小競り合いの対処……領地間の問題だろうか。それをエドワードが仲裁することになっているのかもしれない。トリスタン伯爵の態度からは、エドワードに対する敵意なのか対抗意識なのか、何かしら負の感情が垣間見える。


「あなたが領民に甘い顔をするのは勝手だが、それで自分の首を絞めないようにしたまえ。クラレンス侯爵がそこまで“慈善”に傾倒しているという噂は、決して利点ばかりではないぞ。周囲の領主から反発を買うかもしれないし、悪用される可能性もある」


 伯爵の言葉は一見正論のようにも聞こえるが、その口調には明らかな嘲りが混じっている。エドワードはまったく動じる様子もなく、淡々と答えた。


「ご忠告ありがとうございます。ですが私のやり方は変えるつもりはありません。もし不正があれば正し、利用されれば対策を講じるだけです。私の目的は、領地と人々を守ること。そのためならば、誰かにどう思われようとも構わない」


「ほう……頑固だな。まあ、いいでしょう。せいぜいあなたが信奉する“理想”とやらで、どこまでやれるか見せてもらうとしよう」


 トリスタン伯爵は鼻で笑い、そのまま踵を返して自分の馬車へ向かった。去り際にちらりと私へ視線を投げ、「残念だったな、お嬢さん。あんな男に捕まって」と言わんばかりの軽蔑を含んだ目を向ける。私は思わず眉をひそめるが、余計な波風を立てるわけにもいかず、ただ見送るしかなかった。


(……何なの、あの人。相手がエドワード様じゃなければ、ただの失礼な客では?)


 不快感を抱く私に比べ、エドワードはさほど気にしていないように見えた。むしろ、ああいう人物は珍しくないと達観しているような風情だ。父も苦々しい顔をしているが、敢えて追及することはしない。おそらく外交上の兼ね合いがあるのだろう。


「すみません、アマンダ嬢。お見苦しいところをお見せしました」


 エドワードが申し訳なさそうに言う。私は首を振って否定した。


「いえ、私こそ……。大丈夫ですか? あの方、エドワード様に対してやけに挑戦的というか……」


「ええ、昔からああいう人ですよ。私の方針がどうにも気に入らないらしくて。けれど、彼が何を言おうと気にはしません。私にも譲れないものがありますから」


 エドワードの声は凛としていて、微塵の迷いも感じられない。その姿を見て、私は胸が熱くなるような感覚を覚えた。自分の信念を貫く彼の在り方は、周囲の反発すら受け止める強さがある。そんな彼だからこそ、“冷酷”だとか“非情”だとか、あるいは“理想家”だとか、賛否が大きく分かれるのかもしれない。


「……強いんですね、あなたは」


 私が思わずそう呟くと、エドワードはほんの少しだけ苦笑を混ぜながら答えた。


「強いのではなく、強がっているだけかもしれませんよ。私だって、いつも自信があるわけではありません。ですが、立ち止まっていれば、領地は前に進まない。そうしたら多くの人が困ることになる。それを分かっているから、否応なく進むしかないのです」


 いつも自信があるわけではない。その言葉を耳にし、私はもう一度、先ほど馬車の中で感じた彼の“寂しげな横顔”を思い出す。彼は責任と期待の重さを一人で背負い、迷いながらも前へ進んでいる。その姿に、私の中で漠然と抱いていた疑念がほぐれる気がしていた。


「……私にできることがあれば、手伝います。まだ何も分からない私ですが……少なくとも、あなたが背負う荷を軽くできるなら、私の存在にも意味があるのかなって」


 気がつけば、自分からそんな言葉がこぼれていた。政略結婚の駒として嫁ぐのではなく、“パートナー”として彼の力になりたい。そんな思いが、自然と湧き上がったのだ。私の言葉に、エドワードはほんの少しだけ目を丸くして、それから穏やかに笑ってうなずいた。


「ありがとうございます。そう言ってもらえると心強い。……あなたが嫁いできてくれる日が、今から待ち遠しいですよ」


 その笑顔はとても自然で、どんなに取り繕っても出せないような温かみがあった。私は不覚にも、その表情に胸が高鳴るのを抑えきれない。決して偽りではない、と信じたい。少なくとも、この瞬間の彼の言葉と笑顔は、本物のように思えたから。


4. 新たな始まりへの予感


 こうしてエドワードの領地視察を終えた私は、夕刻にクラレンス家の屋敷を後にした。父との帰り道、馬車の中は奇妙な沈黙に包まれていたが、その静寂を破ったのは父の低い声だった。


「……アマンダ。お前、随分とあの男に心を開いているようだな」


 父にそう指摘され、私は言葉を濁す。別に恋に落ちたわけではない。ただ、彼が噂の通りの“冷酷”な人間とは思えなくなったのは事実だ。領地を見て回り、彼の姿をこの目で見た今、私は少しずつエドワードを知りたいと思い始めている。


「私にも分かりません。けれど、父様が言うように“家のため”だけではなく……私自身が、彼の隣で何かできるかもしれない、と感じたんです」


 そう答える私に、父は複雑そうな表情を浮かべる。しばし黙り込んだ後、重々しい声が聞こえた。


「……そうか。ならば、お前の気のすむようにするがいい。政略結婚であれ、夫婦としてやっていくのはお前たちだ。私が口を出すべきことでもないだろう。……ただし、結婚式が済むまではあまり深入りしすぎるなよ」


 どこか心配そうな父の忠告に、私は静かに頷く。父もまた、私を愛していないわけではない。家のために私を政略の道具として差し出すかのように見えて、その胸中には色々な感情が渦巻いているのだろう。私が傷つくことを恐れているのかもしれない。


 その後の道中、私は馬車の揺れに身を委ねながら、エドワードの言葉や表情を何度も反芻する。気づけば頬が熱くなり、心臓が高鳴る。まだ戸惑いも大きいが、私は確かに変わり始めていると思う。


 エドワードは私に「一緒に学んでいこう」と言ってくれた。領地のこと、政治のこと、そして何よりお互いのことを。政略結婚が前提でも、そこにまったくの愛が生まれないわけではないのかもしれない。そう信じたくなるほど、彼は私に対して優しく、誠実に接してくれた。


(このまま結婚して、本当に私は幸せになれるのだろうか?)


 まだ答えは見えない。しかし、初めて彼を見たあの日、私は「彼の本質が分からないまま、このまま嫁ぐことになるのだろうか」と大きな不安を抱いた。だが、今はほんの少しでも、“彼ならば”という期待が芽生えている。たとえこれが一時の希望にすぎないとしても、ゼロではない確かな可能性。


 帰り着いて夜が更ける頃、私は自室で静かに一日の出来事を思い返していた。目まぐるしく変化していく心境に戸惑いながらも、あの言葉が胸に染み渡る。


 ――「あなたが望むなら、私はいつでもあなたを歓迎しますよ。」


 これまでずっと、私にとって結婚は「家の義務」でしかなかった。父の命令に従い、仕方なく嫁ぐ未来。愛など存在しない、ただの政略。それでもいい、とどこか諦めていた。しかし、その概念が少しずつ崩されていくのを感じる。


 “本当に愛のない政略婚で終わるのだろうか?” 


 そう疑問を持ち始めた自分の心は、もう後戻りできないのかもしれない。エドワードが見せてくれる優しさが、どこまで本物かは分からない。けれど、私はもう少しだけ信じてみたいと思っている。彼となら、新たな未来を切り開くことができるのかもしれない、と。


 夜の帳が下りる中、私はベッドに身を沈め、瞼を閉じた。先ほどまで感じていた不安は完全には消えていない。それでも、その不安の奥底には、小さな希望の灯がともっている。いつか、その灯が明るく輝く日が来るのだろうか。


 そう、私はまだ二十歳の娘。愛を知らないわけではない。けれど、こんなにも人を“知りたい”と思ったのは初めてなのだ。彼が何を抱えているのか、どんな苦しみを秘めているのか、そしてそこに私がどう寄り添えるのか──それを考えると、胸が熱くなる。


(……今は、できる限りの準備をしておこう。結婚までに私が学べることはたくさんあるはず)


 眠りに落ちながら、私は明日の自分に思いをはせる。家庭教師をもう一度呼び戻して、領地経営や政治的知識を学び直そうか。エドワードのためというより、私自身がもっと“主体的に”人生を生きられるように。彼が背負う重責を少しでも分かち合えるように。


 政略であろうと、利害が絡んでいようと、“何か”が始まりそうな予感がする。私とエドワード・クラレンスとの物語は、まだ序章が終わったばかり。

 この先に待ち受ける運命が、愛に満ちたものか、それとも苦難の連続かは分からない。それでも私は、少しずつ、彼への不安よりも好奇心が勝り始めているのをはっきりと感じていた。



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