エドワード・クラレンス侯爵の領地から戻ったあの日から、私の日常は大きく変わった。父に言われるまでもなく、私は自ら家庭教師を雇い直し、政治や経営の基礎知識を復習し始めた。貴族の女性らしい礼儀作法だけではなく、もう少し実践的なことも学んでおきたい――そう思わせるだけの強い刺激を、エドワードは私に与えてくれたのだ。
当初は退屈だと感じていた数字や統計の羅列にも、いつしか興味を覚えるようになっていた。分厚い本を開けば、その先にあるのは単なる机上の空論ではなく、“生きた領地”を動かすための手がかりになるかもしれない。エドワードが言った通り、私にもきっとできることがある。彼の隣に立てるほどの知識と行動力を身に付けたい――そんな思いが、私を突き動かしていた。
もちろん、すべてが順風満帆というわけではない。父は前より少し優しくなったようにも感じるが、それはあくまで“クラレンス侯爵との縁組が順調に進んでいる”ことが前提の態度だろう。父の厳しく冷たい言葉は影を潜めたものの、その内面に渦巻く焦燥や苛立ちは、私にも伝わってくる。私が「エドワードとの結婚」を拒んだりすれば、どんな態度に豹変するか分からない。
私の方からも、たまに手紙を出してエドワードとやり取りをしていた。彼は短いながらも要点を押さえた返事をくれ、そこには私の勉強を応援する言葉や、ちょっとしたアドバイスが添えられている。読み終えるたび、心が軽くなり、頑張ろうという気持ちが湧き上がってくるのだ。
――私たちの関係は、政略結婚として始まるにはあまりに穏やかで優しく、そして期待を持てるものに思えた。少しだけ、このままうまくいくのではないかとさえ感じていた。
ところが――平凡な日常が続いていたある日の午後、私は父から“屋敷の書斎に来い”と呼びつけられる。ずっと前に“クラレンス侯爵と結婚しろ”と命じられた、あの薄暗い書斎だ。何となく嫌な胸騒ぎがした私は、急いで身なりを整え、書斎へ向かった。
1. 父の突然の命令――「エドワードと離婚しろ」
薄いドアをノックし、父の「入れ」という無機質な声を合図にして扉を開く。大きな机に向かい、渋面をつくっている父の姿が目に飛び込んできた。その隣には、先日解雇されたはずの元メイド長が立っている――いや、彼女は今はメイドではなく、どこか父の秘書のような立場にいるのだろうか。何かを耳打ちしては、父に書類を渡していた。彼女は私が入室すると、軽く頭を下げてすぐに部屋を出ていく。
そこに残されたのは、父と私の二人きり。父は顔を上げ、私を射るような視線で見た。
「よく来たな、アマンダ。……さっそくだが、本題に入る。エドワード・クラレンスとは離婚しろ」
――離婚。
その唐突な言葉に、私は呼吸を忘れそうになった。まだ正式に挙式すらしていないのに、どうして“離婚”などという言葉が出てくるのか。そもそも「婚約破棄」ではなく「離婚」だなんて――どう考えても筋が通らない。私は動揺を隠しきれず、父の表情を探る。どこか焦りの色が浮かんではいるが、その目に揺るぎはなかった。
「……お父様、いま何とおっしゃいました?」
「だから、エドワードと離婚だ。書類上の手続きを急げ、と言っている」
「そんな、まだ私はエドワード様と正式に式を挙げていません。それに『離婚』というのは結婚してから使う言葉です。婚約段階で縁を断ち切るのなら『破棄』でしょう? それすら無茶苦茶かとは思いますけれど……」
混乱して、声が大きくなるのを抑えられない。父の様子はどこか苛立ちを帯びていて、机の上に積まれた書類をバサリと乱雑に動かしては、重いため息をつく。
「正式な挙式の前に、侯爵家とは“仮契約”を結んでいたはずだ。双方の家が合意すれば、挙式前に離婚という形で手続きを終わらせることができる。――つまり“婚約破棄”ではなく“無かったことにする”のだよ」
「何を言っているんですか、そんな……。わたくしはエドワード様との結婚の準備を進めていました。あなたもそれを望んでいたじゃありませんか。今さら一方的に縁を切るなんて……あの方にも失礼ですし、何より我が家にとっても損失が大きいはずでしょう!」
以前は父が「家のために結婚しろ」と私に迫ったのに、今度は逆に「離婚しろ」と言い出す。いったい、何があったというのか。私は胸がざわつくのを感じながら、強い口調で反論する。すると、父は眉間に深い皺を刻みながら口を開いた。
「アマンダ、私とて好きでこんなことを言っているわけではない。しかしな……我がローウェル家は限界なのだよ。もう少し大きな後ろ盾が必要だ。クラレンス侯爵は確かに財力を持ち、領地経営にも長けているが……我が家が得たい利益と比べれば、そこまで大きくはない」
「そんな……でも、それはおかしいです! クラレンス家は王家からも信頼される名門。それに足りないというのなら、どんな相手が望ましいというのですか?」
言い終わった瞬間、父は苦い笑みを浮かべた。その口元には、卑屈な悔しさが混じっているように見える。
「新たな縁談が持ち上がった。ランドルフ公爵家だ。……国王に次ぐほどの財力を持ち、政治的にも絶大な影響力を誇る。もしアマンダ、お前がランドルフ公爵家の嫡男に嫁げば、ローウェル家の危機は一気に好転する。――こんな機会は二度とないぞ」
ランドルフ公爵家――その名くらいは私にも聞き覚えがある。確かに王族にも並ぶほどの資金力を有し、各地の貴族や騎士団への影響力も強い名門中の名門だ。父の言う通り、ローウェル家がその力を得られれば、財政破綻など一気に解消されるだろう。だが、それはまるで――。
「要するに、あの“もっとも有利”な相手と結婚させるために、私をエドワード様から無理やり引き離す、というのですね?」
私の問いに、父は答えない。だが、その沈黙がすでに答えを示していた。父は自分の目論見を通すためなら、私の意志などお構いなしに利用するつもりなのだ。
「ふざけないでください。私はもうエドワード様と結婚するつもりで準備を進めているんです。ランドルフ家との話など、寝耳に水。そんな勝手は許されるはずが――」
「許させるのだよ。ローウェル家はもう後がない。分かっているだろう、お前は。……アマンダ、これは命令だ」
“命令”――父のかつての冷酷な声音が甦る。かすかな希望を抱かせてくれた、あの優しい態度はただの仮面だったのか。彼はやはり、「娘の幸せ」より「家の存続」を優先するのだ。
「お父様、父として本当に私を愛してくれているのなら、こんな仕打ちは――」
「私だって、こんなことをしたくはない。だが、ランドルフ公爵家は大きな取引きを提示してきた。わがローウェル家の莫大な借金を肩代わりし、さらには新たな領地の管理権を一部、我々に委任するとまで言っている。それほどまでに、あちらはお前との縁組を望んでいるのだ。具体的な額を見れば、クラレンス侯爵など比べものにならない……!」
「……っ!」
父の言葉が突き刺さる。確かに、ローウェル家の経済状況が苦しいのは知っていた。けれど、そこまで深刻な状況になっているだなんて――。もしそれが事実であれば、父が突飛な手段に走るのも無理はないのかもしれない。しかし、だからといって、私の気持ちを無視して新たな縁談を押しつけるなど、あまりにも身勝手だ。
「アマンダ、お前は娘として家を救う義務がある。お前の曖昧な感情だけで動くな。我が家は没落寸前なのだぞ」
「私がエドワード様との結婚を拒めば、ローウェル家を支えることができると? でも……っ、それではエドワード様との約束は――」
「“離婚”だと言っている。あちらの家の都合もあるだろうから、うまく交渉して体裁だけは取り繕うが、とにかく挙式までには縁を切れ。そのための書類を、今月中に整えて提出する。もう話は通してある」
完全に既成事実として押しつけられた私は、悔しさと悲しみで胸がいっぱいになった。父の言う“話は通してある”というのは、誰に通してあるのだろう。ランドルフ公爵家か、それともどこかの役所か――。どちらにせよ、父の中では私の意思などまったく考慮されていない。
「そんな……私は……」
言葉が詰まる。声が震え、目の奥が熱くなる。私は書斎の重苦しい空気に耐えきれず、踵を返してドアへと向かった。父の声が背中越しに追いすがる。
「アマンダ、待て。話はまだ――」
「――もう聞きたくありません!」
思わず叫んでしまった。それまでの私なら、こんな乱暴な言葉を父に向けることなど考えられなかったが、今の私はそれほど追いつめられていた。部屋を飛び出し、そのまま自室へ駆け込み、扉を閉める。ドアに背を預けると、足ががくがくと震え出して、そのまま床に崩れ落ちそうになった。
(どうして……どうしてこんなことに……?)
クラレンス侯爵との結婚に向け、私は少しずつ自分の未来を思い描き始めたばかりだった。それが突然、「他の男と結婚しろ」などと。まるで私自身が貴重品や証文か何かのように扱われているみたいだ。父を責めたい気持ちは強いが、同時にそれが“家のため”だという理屈を思えば、全否定はできない自分が悔しかった。
――しかし、私はもう知ってしまったのだ。エドワードがどんなに領地の人々を大切にし、自分の信念を貫いているか。それだけでなく、私が「彼を知りたい」と言ったとき、あの人は優しく手を差し伸べてくれた。“君が望むなら、いつでも歓迎する”と。
(あの言葉は嘘じゃないはず。だって、彼は本当に私を……)
思い返すだけで胸が締めつけられる。まだ恋と呼べるほど深い気持ちかは分からない。けれど、エドワードとならきっと、ただの政略結婚で終わらず、新しい関係を築けるかもしれない。私自身がそう信じ始めた矢先に、この仕打ち。まるで運命が私を嘲笑っているみたいだ。
部屋の窓から見える空は、いつの間にか赤く染まっていた。立ち上がる気力も失せ、私はそのままベッドの端に腰掛け、呆然と外を眺める。どうすればいいのだろう。エドワードに手紙を書く? それとも父の言うように、形だけでも“離婚”すべきなのか?
答えなど出るわけがなかった。私はただ一人、部屋の中で迷いと悲しみに押しつぶされかけていた。
2. 迫り来る別の縁談――ランドルフ公爵家の力
翌日、私がまだ混乱を抱えたまま過ごしていると、早速“ランドルフ公爵家”から使者がやってきたという知らせが入った。どうやら父と使者が直接面会し、その場で父は「アマンダが近いうちにご挨拶に伺う」と返事をしたらしい。
(何という速さ……父も、本気で私をランドルフ公爵家に差し出すつもりなのね)
メイドのリジーが心配そうな顔で報告してくれたが、私はただ頭を抱えるばかりだった。ランドルフ公爵家に行けば、向こうの嫡男――アルバート・ランドルフとやらにお披露目されることになるだろう。だが、私の心は完全にエドワードとの結婚に傾きかけている。今さら「はい、よろしくお願いいたします」と頭を下げる気になど到底なれない。
その日、父は私の部屋には顔を出さなかった。どうせ顔を合わせても、また同じ言い争いになるだけだと分かっているからだろうか。私は部屋にこもりきりになっても仕方ないと思い、せめて気を紛らわせようと廊下に出る。
すると、そこにいたのは父の“新たな秘書”のように振る舞っている元メイド長。初めて私に仕えてくれた頃はとても優しい人だったが、数か月前に突然解雇され、それがいつの間にか父の近くで働くようになっていたらしい。彼女は私を見つけると、あざ笑うように声をかけてきた。
「あら、お嬢様。こんなところで何をウロウロなさって? 早く次の婚約者様に愛想を振りまきに行かないと、ローウェル家は本当に潰れてしまいますわよ?」
「……あなたに言われる筋合いはないわ」
「これは失礼。わたくしは公爵様のご命令を受けて、ランドルフ公爵家との話が円滑に進むように手配をしておりますの。お嬢様にはどうか、余計な反抗などなさらぬようお願いしたいものですね。ここで逆らえば、ローウェル家だけではなく、お嬢様自身も将来を失うことになりますから」
嫌味たっぷりな口調でそう言い残し、彼女は足早に通り過ぎて行く。その背中を睨みつけるしかできない自分が情けない。私は拳を握りしめながら、何とか冷静を保とうとする。
しかし、その言葉の通り、私は家に逆らい続ければ、ローウェル家が危機に陥るだけでなく、自分の将来すらも危うくなる。それが厳しい貴族社会の常識なのだ。今まではそこを何とか“エドワードとの結婚”で回避できると思っていたのに、今やそれすら奪われようとしている。
――どうしてこんなに苦しいのだろう。以前、まだエドワードと出会う前なら「家のための結婚」も仕方ないと、ある程度は覚悟していたはず。それがいつの間にか、「エドワードでなければ嫌だ」という思いに変わりつつある。彼のことを詳しく知っているわけではない。でも、彼としか築けない未来があるのではないかと感じるのだ。
その小さな光すら、父は自分の都合で踏みにじろうとしている。
(このままじゃ駄目だわ。私がエドワード様に連絡しないまま、ただ従うだけで終わるなんて――)
そう思った矢先、私はすぐエドワードに手紙を書こうと決意した。そもそも父は、クラレンス侯爵家に「離婚」をどう切り出すつもりなのか。まだ話していないはずだ。もし父が勝手に手続きを進める前に、私の口から何らかの事情を伝えられれば……エドワードなら、何か打開策を考えてくれるかもしれない。
私は急ぎ部屋に戻り、机に向かった。インク壺の蓋を開け、ペンを握って白紙に向かう。しかし、どう書けばいいのか分からず、手が震える。書きかけては消して、書きかけては消して……。結局、何とか文面をまとめて封をしようとしたとき、部屋の扉が乱暴に開かれた。
「……アマンダ。今すぐ支度をしろ。ランドルフ公爵家へ出発するぞ」
突入してきたのは父だった。苛立ちを隠そうともせず、私の机上の手紙に目をとめる。そして、その封をまだしていなかった手紙を無遠慮に引ったくる。
「これは……エドワードへの手紙か?」
「や、やめてください! 返してください!」
私は必死で取り戻そうとするが、父は手紙を読もうとし、私の手などお構いなしに引き離す。結局、もみ合いの末に父の手がペン立てに当たり、机の上のインクが書類や床にこぼれ落ちた。床に大きな黒い染みが広がっていく。私は呆然と父を見上げるしかない。
「こんな手紙を書いている暇があったら、早く身支度を整えろ。手紙は預かっておく。――勝手にエドワードに連絡など許さんぞ」
自分の着衣にもインクが飛んでいるのを気にも留めず、父は手紙を乱雑に折り畳んで懐に入れた。私が呆然としている間に、“元メイド長”を呼ぶと、私の背中をぐいっと押して「ほら、ドレスに着替えてくださいませ。馬車が待っていますよ」と急かす。
「今から行く、というのですか!? そんな、急すぎます!」
「向こうにも都合があるからな。公爵家がわざわざ迎えの馬車を差し向けてくれているのだ。お前はそれに乗って、向こうの嫡男とご対面――それでおしまいだ。おとなしくしろ」
父は一方的に言い放つと、私に“こんなの受け取りたくもない”と言わんばかりの視線を向けた。私が抵抗しても無駄だと思い知っているのか、彼の態度には確信がある。
こうして、私は半ば強制的に支度をさせられ、ランドルフ公爵家の馬車へと乗せられてしまった。
3. 招かれざる客として――ランドルフ公爵家の屋敷
ランドルフ公爵家の屋敷は、都の中心部にも近い高台に位置していた。王城から馬車でそれほど遠くない場所で、門の外には複数の衛兵が警備を固めている。父の話に違わず、まるで小さな城のような佇まいだ。
私は緊張に耐えきれず、シートを握りしめながら窓の外を見つめる。あれほど抵抗したのに、結局こうしてランドルフ家へやってくる羽目になった。今や自分がどれほど無力かを痛感する。エドワードとの連絡手段も断たれ、父はどんな顔をして帰りを待っているのか――考えると頭が混乱するばかりだ。
「ご到着です、ローウェルお嬢様」
御者の声がして、扉が開かれる。出迎えに降り立ったのは、この家の執事らしき男性。私が馬車から足を降ろすと、彼はふかぶかと頭を下げて言った。
「本日はようこそお越しくださいました。ご案内させていただきます」
――ようこそ? 私としては来たくて来たわけではないのだが……。そんな言葉を飲み込み、私は渋々屋敷の中へと足を踏み入れた。
中はクラレンス侯爵家にも劣らぬ壮麗な内装だった。ただ、その豪華さはどこか強烈な“権威”を感じさせる。調度品もきらびやかな金銀が目立ち、シャンデリアや柱に惜しげもなく宝石があしらわれている。あれほど整然としていたクラレンス家とは異なる、いわば“圧倒的な力”を誇示するような空気――それが私には少し息苦しかった。
「お嬢様は、ご当主様と嫡男様がお待ちの応接室へどうぞ」
執事に案内され、私は長い廊下を歩いていく。緊張で足がすくみそうになるが、なんとか礼儀を崩さずに済んだ。大きな扉の前に立つと、「失礼します」という声が聞こえ、執事が扉を開く。
「――これはこれは、お待ちしておりましたよ、ローウェル公爵家の令嬢。お噂はかねがね伺っております」
部屋に入るなり響いたのは、低く落ち着いた男性の声。豪華な椅子にどっしりと腰を据えている壮年の男――彼こそがランドルフ公爵当主、すなわちアルバート・ランドルフの父親であるヘンリー・ランドルフ公だろう。その隣には、私より少し年上に見える青年が立っていた。きっと彼が嫡男――アルバート・ランドルフだ。
アルバートは金髪で、どこか整った顔立ちをしていたが、薄い唇と鋭い目つきが醸し出す雰囲気には冷たいものを感じる。彼が私に向かって笑みを浮かべたものの、それはまるで獲物を見つけた猛禽類のような表情で、私は背筋に寒気が走った。
「父上、この方がローウェル家のご令嬢ですか。なるほど、確かに噂どおり端麗な容姿ですね。……よろしく、アマンダ・ローウェル嬢」
差し出された右手に、私は戸惑いながらも礼を返す。握手でも求めているのかと思ってそっと手を重ねると、彼はその手を強く握りしめた。痛いと感じるほどの圧力で、私は思わず眉をひそめる。
「……あの、ランドルフ公爵家の嫡男、アルバート様でしょうか。ごきげんよう」
「ええ、あなたと今後、深い仲になるかもしれない者ですよ。こうして会えて光栄です。……ずいぶん緊張していますね。そんなに怖がらずともいい」
アルバートはそう言って手を離すが、彼の口調にはどこか嘲りが混じっているようにも聞こえる。
ヘンリー公はそんな私の様子を面白がるかのように見つめ、悠々と上質な椅子に身体をあずけた。
「ローウェル家の事情は大方承知しております。なるほど、クラレンス侯爵と結婚する予定だったのですよね? けれど、あなたのお父上は賢明だ。私どもに話を持ってきてくれました。――王家も認める我々の力があれば、ローウェル家は安泰でしょうし、あなたにも不足はないでしょう。何しろ、アルバートは跡取りとしてこの先、さらに大きく地位を築く男ですから」
「……はあ」
何とも返事しがたい言葉で、私はただ曖昧に相槌を打つしかない。彼らにとっては、私はただの政略の駒なのだろう。何の悪びれもなく、“クラレンス侯爵がどうこう”と踏み台にするような発言を繰り返す。
そしてアルバートが私をじろじろと眺め回しながら呟く。
「聞けば、あなたはけっこう頭の回るお嬢様だとか。……まあ、顔も悪くないし、誰かと結婚するくらいなら、俺を選ぶ方がはるかにお得ですよ? 金にも領地にも不自由しませんからね。実際、ローウェル家の莫大な借金を肩代わりしてあげるんですし、感謝してほしいくらいだ」
そのあまりの傲慢な言いぶりに、私は唇を噛む。エドワードなら、絶対にこんな物言いはしない。彼は確かに冷徹な一面を持ちつつも、相手を見下すような態度を取ることはなかった。
私がクラレンス侯爵を思い出していると、ヘンリー公が急に声を張り上げた。
「ところで、あなたがクラレンス侯爵とどういう約束をしていようと、この先は我々の側に来てもらう。結婚式も早々に挙げるつもりだ。――別れの手続き? それはローウェル公爵が全てやってくれるはずだ。あなたには心配無用ですな」
「……」
何も言えない。下手に抵抗して父を窮地に追い込むわけにもいかない。でも、本当にそれでいいのか。背筋に嫌な汗が伝う。エドワードとの未来を、自分から手放してしまうのか――。
「まあ、今日はお試しというか、顔合わせ程度のつもりでした。いずれ改めて“正式な婚約”の式典を催しましょう。その時は盛大に祝いますよ。なにしろ、アルバートの花嫁になるのだからな」
ヘンリー公の傲岸不遜な言葉に、アルバートは冷笑を浮かべて相槌を打つ。私には彼らが話している内容が、どこか他人事のように聞こえてしまう。それほどまでに、強引かつ一方的だ。これでは私の意思などどこにも存在しないかのようだ。
もう、どうにでもなってしまえ――そう思いかけたとき、私の頭に一つの疑問が生じる。
(……どうしてランドルフ家は、ここまでして私を迎えようとするのだろう?)
ローウェル家の借金を肩代わりするほどの価値が、私との結婚にあるのだろうか。貴族社会での政略結婚とはいえ、何かしらの“見返り”がなければ、ここまで出血大サービスのような条件を提示するのは普通ありえない。
私は意を決して口を開く。
「あの……お聞きしてよろしいでしょうか。ランドルフ公爵家が私を迎える理由は何なのでしょう。ローウェル家はそこまで大きな領地を持っているわけでもなく、政治力も貴家に比べれば弱い。そのうえ莫大な借金まであるのですから……」
ヘンリー公は少し驚いたように目を細めたが、すぐに口元に笑みを浮かべた。
「おや、確かにそこまで活気ある家ではないでしょうな。ローウェル家は。しかし、地図をよく見てみなさい。あなたが持参する形になる一部の領地――あれは貿易路の要衝に当たる場所だ。そして、そこには我々がかねてより狙っていた“特別な鉱山”の開発権が含まれている」
「特別な鉱山……?」
まるで悪役の告白のように、ヘンリー公は情報を明かし始めた。確かにローウェル家が所有する領地には小規模の山岳地帯があり、昔から鉄や銅が取れるという話は聞いていた。だが、それがさほど重要視されてこなかったのは、埋蔵量が不確かだったからだ。
ところが最近になって、新たな鉱脈が発見され、そこから相当量の希少金属が見つかったという噂が流れている。ヘンリー公はどうやらその“確度”を掴んでいるらしく、いち早く権利を押さえようとしているのだ。公爵家の財力があれば、大規模な採掘や流通が可能になり、更なる富と権力を得る――。
「なるほど、そういうことだったんですね。私を嫁がせることで、その鉱山を実質的に手に入れようと……」
「ふふ、頭の回転が早いようで何よりだ。要は“土地と借金の交換”というわけだよ。あなたが私たちの家に入れば、名実ともにその領地は私たちの管理下に置かれる。おまけにローウェル家の負債はチャラ。大団円ではありませんか」
私はゾッとした。クラレンス侯爵との縁組よりも“もっと有利な”話だという父の説明にも合点がいく。父は私をランドルフ家に嫁がせることで、莫大な借金をリセットすると同時に、ローウェル家がいずれ受け取るはずだった鉱山の収益の一部を恩恵として得ようとしているのだ。
すべては金と権力。私の気持ちなど、はじめから眼中にない。アルバートも“綺麗な顔”というだけで私を所有物にしたいだけであり、心から愛しているわけではないだろう。
(これが貴族社会の現実……。でも、こんなの嫌。私は――私はもう、ただの駒として使われるのは嫌だ!)
そう思うものの、ここで声を荒らげても意味がない。父が裏で交渉をすでにまとめつつある以上、私が一人で反対しても覆る可能性は低い。それを考えると、胸が押しつぶされそうになる。
そしてアルバートが私の顔を覗き込み、軽く笑う。
「どうしました、沈んでいるようですね。あなたには何不自由ない暮らしを保証しますよ。それとも、あの冷酷なクラレンス侯爵がお忘れになれない? あんな男、あなたに何をしてくれるというのか。所詮、“冷酷”な貴族にすぎない。領地の住民には人気だというが、私に言わせれば、それもただの見せかけだ。甘い顔をして、裏では何を企んでいるか分かったものではない」
「……エドワード様は、そんな人ではありません」
気づけば、言葉が口をついて出ていた。アルバートの言い分が許せなかったのだ。私が何を言っても無駄と分かっていながらも、あの方を侮辱されるのがたまらなく悔しい。
しかし、アルバートはそれに対して鼻で笑い、まるで子供をあやすように続ける。
「へえ、あなたがそう思いたいなら勝手だがね。いずれ分かるさ。どのみち、あなたはここへ嫁ぐことになる。……だから、他の男の話なんかしないでおくれ」
ゾッとするような笑い声が、私の耳をかすめた。私はどうにも耐えきれず、視線を落として唇を噛む。――もう限界だ。このままでは自分の意思が押しつぶされる。何とかしてここから逃げ出せないものか。だが、公爵家の衛兵が見張るこの屋敷から勝手に飛び出すなど、現実的ではない。
そんな私を見下ろすアルバートは、次の瞬間、私の手を再び握りしめ、少し強引に引き寄せてきた。
「痛っ……」
「おやおや、こんなに華奢な手をしているのか。――ねえ、あなたはきっと俺に従順でいてくれるよな? この結婚は、ローウェル家とランドルフ家の未来を左右する。あなた一人が駄々をこねたところで、変えられるわけがないんだから」
彼の口調は囁くようでありながら、凍てつくように冷ややか。私は腕を振りほどこうとしたが、かなわない。すると、そのとき――。
突然、応接室のドアが大きな音を立てて開いた。
4. 劇的な再会――「彼女を離せ」
「――失礼します」
聞き慣れた、落ち着いた声。目を向けると、そこには黒髪を整えた長身の男性――エドワード・クラレンス侯爵が立っていた。表情は冷静だが、その瞳には鋭い光が宿っている。私が呼吸を止めていると、彼は静かに部屋の中を見渡し、私とアルバートの状況を一瞥するや否や、厳しい口調で言い放った。
「アルバート・ランドルフ……彼女を離せ」
アルバートが一瞬動揺して手を離したため、私はぐらりと後ろへよろめく。エドワードは素早くこちらに歩み寄り、私を支えるようにして腕を貸してくれた。その腕の中に飛び込む形となった私は、心臓が爆発しそうなほどドキドキしている。
「エドワード様……どうしてここに……」
私が尋ねると、彼はさっと視線をそらし、少しだけ苦笑したようにも見える。
「……詳しい話は後でする。とにかく君がここに連れ込まれたと聞いて、駆けつけた。まさか無理やり“別の縁談”を押し付けられる状況とは思わなかったが……状況は大体、推測がつくよ」
そう言うと、今度はヘンリー公とアルバートへ向き直る。彼の表情は穏やかさを欠片も残していない。まるで、冷徹な闘志を燃やしているかのようだ。それは私が見たことのない“本気”の表情だった。
「随分と傲慢な真似をするのだな、ランドルフ公。まだ正式な結婚契約が生きている女性を、こうも強引に取り込み、自分のものにしようとは」
その言葉に、ヘンリー公は鼻で笑いながら椅子から立ち上がる。アルバートも、その横で目を見開き、嫌悪感むき出しにエドワードを睨みつけていた。
「ほう、まさかあなたがわざわざ出向いてくるとは思わなかった。――だが、ローウェル家の当主は“娘を差し出す”と明言しているぞ。公的な手続きも進めている。あなたに口を挟む権利はあるのか?」
「口を挟む権利があるかどうかは、あなたではなく法律が決めることだ。まだ正式な挙式が行われていなくても、アマンダ嬢と私は“仮契約”を結んでいる。そして、ここに書類もある。――一方的に破棄できるものではないはずだが?」
そう言い放ったエドワードは、懐から書簡の束らしきものを取り出して見せる。どこから手に入れたのか分からないが、恐らくローウェル家との契約書の控えだろう。それをちらつかせながら、彼は冷ややかに微笑む。
「ローウェル公爵が裏でどんな交渉をしていたかは知らないが、私の方にもそれ相応の手段がある。――もちろん、あなた方とも“正攻法”でやり合うつもりだよ」
エドワードの言葉は冷静そのものだったが、その瞳には炎のような怒りが潜んでいる。私を“奪われる”ことに対する彼の怒りなのか、それともランドルフ家の横暴に対する正義感なのか――いずれにせよ、こんな彼の表情を見るのは初めてだった。
一方で、ヘンリー公もアルバートも露骨に不快そうな顔をし、アルバートは声を荒らげる。
「いい度胸だな、クラレンス侯爵。貴様には無理だ。王都の政界でも、ランドルフ家と肩を並べられる貴族など限られている。あなた一人が何をやろうと、我々の計画が覆ることはない」
「ふん、その点はご安心なく。――もっとも、私がこうして単身で乗り込んできたのは、あなた方と揉め事を起こすためではない。アマンダ嬢に話がある。ランドルフ家の思惑に巻き込まれる筋合いはないのだから、彼女を返してもらう」
まるで無言の圧力をかけるかのように、エドワードは一歩前へ進む。アルバートは思わず身構えたが、ヘンリー公が右手をかざしてそれを制止した。どうやら彼は、ここで乱闘のような愚行をするつもりはないらしい。
「いいだろう、アマンダ嬢に選ばせればいい。――ただし、あなたがここで彼女を連れ去るのであれば、ローウェル家が我々と結んだ契約は破棄だ。莫大な借金の返済に行き詰まったローウェル家は、いずれ破産するだろう。それで構わないのか?」
威圧的な問いかけに、私は胸が苦しくなる。そうだ、ここでエドワードに救いを求めれば、私のせいでローウェル家は破産に追い込まれるかもしれない。父は絶望の淵に立たされるだろう。
エドワードが私の肩を抱くようにして耳元でそっと囁く。
「大丈夫。あなたが気に病む必要はない。――私を信じて?」
その低く落ち着いた声が、どこか懐かしい温もりを伴って私の胸に届く。父がこの場にいないこともあって、私の思考は大きく揺れ動いたが、最終的にはエドワードの言葉を信じる決断を選んだ。たとえ家がどうなろうとも、父がどう罵ろうとも――私の幸せまで踏みにじられるのはもう嫌だ。
「……はい。エドワード様と一緒に帰ります」
その宣言に、アルバートは「くっ……!」と舌打ちし、ヘンリー公は苦々しい表情を浮かべる。
「お嬢様、よろしいのですか? これでローウェル家は――」
「それは私が考えることではありません。……貴方たちが望むような形で嫁ぐつもりはありません」
最大限の礼儀を崩さないように、私もきっぱりと返す。こうしてランドルフ家に屈しないという意志を表明した。
すると、エドワードは私の肩を支えたまま、ヘンリー公とアルバートに向けて冷ややかな笑みを浮かべた。
「彼女は私と共に帰る。それ以上の詮索は無用だ。――もっとも、あなた方がどうしても鉱山の利権を手に入れたいのなら、正当な手段で入札でもすればいい。しかし、強引に奪い取るような真似は許さない。それを国王もよしとはしないだろう」
「貴様……」
憤るアルバートをよそに、エドワードは軽く頭を下げて踵を返した。私も震えながらついていく。扉の外では緊張した面持ちの衛兵たちがいたが、エドワードの威厳ある態度の前で誰一人手出しができないようだった。
――こうして私は、ランドルフ公爵家の屋敷を脱出するような形で後にした。事態は混乱しており、正直、先のことなど全く見通せない。それでも、エドワードの背中が頼もしく感じられ、私は心の底から安堵する。もう、この人の元から離れたくない――そんな思いすら芽生えていた。
5. 溺愛の証明――「君を守る。何があっても」
屋敷を後にすると、近くの通りにはエドワードの馬車が控えていた。乗り込むと、私は緊張の糸が切れたのか、どっと疲れが押し寄せる。エドワードは私の隣に座り、そっと手を握ってくれた。
屋敷内でアルバートに握られた時とは違い、その手は驚くほどあたたかく、優しさに満ちている。
「よく耐えましたね。怖かったでしょう?」
エドワードが静かに問う。私は頷きながらも、涙をこぼすのを必死でこらえた。何とか言葉を紡ぐ。
「私……父から、離婚しろと言われて……ランドルフ家に無理やり連れて行かれて……。どうしてこんなことになるのか分からなくて、怖くて……でも、もうどうしようもなくて……」
言いながら、声が震えて止まらない。エドワードは少し目を伏せてから、ぎゅっと私の手を包み込み、そして抱き寄せるように腕を回してくれた。
「大丈夫ですよ、アマンダ嬢。あなたは何も悪くない。あなたが頑張って勉強して、私と一緒に領地のことを考えてくれようとしていたのも知っています。――すべてを奪われるなんて、私がさせません」
「で、でも、ローウェル家は……」
その先を口にしようとすると、エドワードがかぶりを振る。
「ええ、借金の問題ですね。あなたの父上はローウェル家を救うために、ランドルフ家から多額の融資を期待したのでしょう。――でも安心してください。その程度の資金なら、私の方で肩代わりする準備はできています」
「え……?」
思わず間抜けな声が出てしまう。エドワードの言葉は本気だろうか。父が“ランドルフ家しか助けてくれない”と言っていた負債を、エドワードが肩代わりできる?
彼は私の驚きに微笑を返し、まるで当然だというように続ける。
「土地の開発や投資で得た利益が、近年かなりの額になっているんです。私としては、あなたを救えるのならば、惜しむつもりはありません。――もっとも、それをローウェル公爵が素直に受け入れるかは別ですが」
「そんな……」
頭がついていかない。まさかここまでの“溺愛”とも呼べる行動を、エドワードが見せてくれるなんて。まるで夢のようだ。私は半信半疑ながらも、彼の真摯な眼差しに引き込まれそうになる。
「あなたは私にとって、大切な存在です。――私のものになってくれませんか? 家がどうとか、政治的な思惑がどうとか、そういう理屈を超えて、あなた自身を誰よりも大切にしたい。それが、今の私の願いです」
きっぱりと言い切るエドワードの言葉に、私は言葉を失う。政略結婚として始まるはずだった関係なのに、気づけばそこには“愛”に近いものが育っているとしか思えない。彼がここまで言ってくれるということは、あるいは本当に私のことを……。
胸が熱くなり、涙がにじむ。私は震える声で答えた。
「……こんな私でも、いいのですか? ローウェル家の状況は最悪ですし、私自身だって何もできないかもしれない。あなたに迷惑をかけてしまうかも――」
「それでも構いません。私があなたを守ります。何があっても、あなたを手放すつもりはない」
強い眼差しに射貫かれ、私はこの人にすべてを預けたくなった。エドワードの腕の中には、不思議と安堵と幸福が広がっている。私が欲していたのは、これだったのかもしれない――そう痛感する。
自然と顔が彼の胸に寄り、私は静かに目を閉じた。馬車が動き出す振動に合わせ、エドワードは私の髪をそっと撫でてくれる。
「アマンダ嬢……あなたが“離婚”を拒否する意志さえ示してくれれば、私はどんな手を使ってでもあなたを守る。――信じて、ついてきてくれますね?」
「……はい」
その答えは、もう私の中で揺るぎないものだった。父がどう出ようと、ランドルフ家がどう絡んでこようと、私はこの人と生きていきたい。どんなに困難が待ち受けていても、私たちならきっと乗り越えられる――彼がそう信じさせてくれる。
涙が零れ落ちる代わりに、私はエドワードの温もりを抱きしめながら、そっと微笑んだ。悲しみの涙ではなく、希望の光で満ちた笑みを。
6. 父との対峙――「彼女はもう、あなたの所有物ではない」
後日――私はエドワードの申し出を受け、彼の領地の屋敷に身を寄せることにした。突然家を出るという選択肢は考えもしなかったが、父に逆らって自宅に留まっていても、再びランドルフ家に連れ出される可能性があったからだ。
もちろん、ただ家出同然に逃げ込んだわけではない。エドワードが正式な手続きを取り、私を“保護”する形で同居する許可を王宮に申請してくれたのだ。政略結婚の渦中にある娘が相手方の領地に滞在するのは異例かもしれないが、エドワードの人脈と政治力があれば不可能ではないらしい。
そんな私に対して、父は激怒したらしい。何度も使者を出して「アマンダを連れ戻せ」と迫ってきたが、エドワードは一切譲らなかった。そもそも、父は“私をランドルフ公爵家に嫁がせる”と決めているのに、今さら私と話し合いをする意味などないだろう。
やがて父は観念したのか、あるいは別の打算があるのか、「直接エドワード侯爵と話をしたい」と申し入れてきた。エドワードが承諾し、私のいる屋敷に父が訪ねてくることになったのは、それから間もないことだった。
そして迎えた当日。エドワードの執務室に、父と私、そしてエドワードが顔を合わせる。父は私を見るなり、怒りでこわばった表情を浮かべた。
「アマンダ……なんということを。勝手に家を出て、こんな場所で……」
「勝手に、ですって? お父様が私を無理やり別の公爵家に差し出そうとしたことの方が、よほど勝手ではありませんか。私はもう、あなたの“道具”ではありません」
父は言葉に詰まるが、すぐにエドワードを睨みつける。
「……クラレンス侯爵。いったいどんな手を使って娘をそそのかしたのだ? ローウェル家を破滅に追い込む気か?」
エドワードは椅子から立ち上がり、父と向き合った。彼の表情は落ち着いているが、瞳の奥には凛とした光が宿っている。
「私はアマンダ嬢を“そそのかした”わけではありません。彼女が自分の意志で私を選んでくれたのです。それに――」
そう言いかけると、エドワードはサイドテーブルに用意された書類の束を手に取り、父の目の前に差し出した。
「こちらをご覧ください。ローウェル家が抱える借金の総額、債権者、返済期限、それらすべてを精査した書類です。――私はこれを肩代わりする用意がある」
「……なっ……」
父が絶句するのも無理はない。すでに多くの貴族から見放され、ランドルフ家くらいしか助けてくれる先がないと思い込んでいたのだから。
エドワードはさらに続ける。
「ローウェル家の土地や領地の一部を担保とする形であれば、私が融資や買い取りを引き受けましょう。そうすれば、ランドルフ公爵家の提案以上に、有利な条件で借金を返済できます。――貴方はローウェル家を守りたいのですよね?」
父は書類を手に、唖然とページをめくりながら目を走らせる。額には玉のような汗が浮かんでいる。そして、声をかすかに震わせてエドワードを見つめた。
「なぜ……なぜ、そこまでしてアマンダに肩入れする。貴方にとっても、こんな負債を背負うのはリスクだろう?」
それに対して、エドワードは全く揺るがぬ口調で答えた。
「私にとって、彼女は何よりも大切な存在だからです。――もしこれが、“娘を愛する父”である貴方の本心と対立するなら、残念ですが、もう言葉は通じないかもしれませんね。アマンダ嬢はもう、貴方の所有物ではない。私の妻になる人だ」
“私の妻になる人だ”――その言葉に、私は胸が熱くなる。ひとつの確かな“証明”のようにも聞こえる。エドワードがここまではっきり言ってくれることが、ただ嬉しかった。
一方、父は完全に追いつめられた様子だった。ランドルフ家に頼らなくとも、ここに救済策があるのなら、わざわざ娘を差し出す大義名分はなくなる。しかし、父に残された道は何か。“アマンダを説得してランドルフ家へ嫁がせる”という選択肢は、当の本人の意思も、エドワードの決意もあってほぼ不可能だ。
「……どうするかは、よくお考えください。ローウェル家の未来を願うならば、私の申し出は決して悪いものではないはずです」
エドワードは最後通告のように言い放つ。父は悔しそうに唇を噛み、やがて小さく肩を落とした。
この瞬間、私と父との力関係が逆転したことを実感する。かつて父が私をクラレンス家に押しやったように、今度は私が父に選択を迫っている。皮肉なものだが、これが現実。父は政治や金のことで私を追いつめたが、今それが自分に跳ね返ってきたのだ。
「……お前は、もうローウェル家には戻らないのか?」
父が沈んだ声で私に問いかける。その言葉に、一瞬胸が痛む。私が幼い頃、父がどれほど私を可愛がってくれたかを思い出すと、すべてが嘘のように感じられる。しかし、私はもう気持ちを決めていた。
――私はエドワードと生きる。それが、私のたどり着いた答えだ。
「私は、エドワード様と共に歩みます。政略結婚じゃなく、私が選んだ未来として」
きっぱりと答えると、父は深いため息をついた。そして手にした書類を握りしめ、うなだれた様子で執務室の扉へ向かう。もう、ここにい続ける意味はないという風情だ。
「……分かった。アマンダ、勝手にしろ。……ただし、ローウェル家の再建は頼むぞ、クラレンス侯爵」
それだけ呟いて、父は部屋を出ていった。その背中を見送る私は、不思議と悲しさよりも安堵を感じていた。ようやく長かった束縛から解放されたのだ――私はもう、“家の道具”ではない。
エドワードはそっと私の手を引き、扉が閉まった後の静寂の中で、穏やかに微笑んでくれる。
「これで、一つの決着がつきましたね。あなたの父上も、きっといつか分かってくれるでしょう。――私たちが幸せになることで、ローウェル家も救われるのだと」
私は涙を浮かべながら、エドワードの手をぎゅっと握り返す。ランドルフ家との縁談は破談。父にとっては苦渋の決断だろうが、今なら分かる。どんなに家が苦しい状況でも、私の人生を奪う権利は誰にもない。
思えば、エドワードが言っていた「あなた個人の夢や目標を支援する」という言葉。それはまやかしなどではなく、本気の思いだったのだ。彼は私をただの政略の駒ではなく、“一人の女性”として尊重してくれる。そして、どこまでも守ってくれる――それを今回の騒動で身をもって証明してくれた。
「エドワード様、ありがとうございます。わたし、あなたのそばで頑張っていきたい。領地のことも、政治のことも、もっと学んで……あなたの力になれたらと思います」
「ええ。あなたがそう言ってくれるだけで、私はとても嬉しい。――これからも、どうかよろしくお願いしますね」
エドワードは私を優しく抱き寄せ、額にそっとキスを落とす。私の心は幸せで満たされ、もう不安という不安が消え去ったかのようだ。
こうして、ランドルフ家との危うい縁談は解消され、私は再びエドワードとの結婚へ向けて進み出すことになった。政略結婚だったはずが、いつの間にか私たちは“お互いを尊重し合う結婚”へと近づいている。
――やがて訪れる挙式の日、どんなドラマが待ち受けているのか。まだ想像もつかないが、きっとこの人となら大丈夫。何があっても、私はもう一人じゃないから。