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第12話 殿下が見に来られるようです

 いつもの朝。

 目覚ましの鐘より早く、ベレトが紅茶を淹れている音が聞こえる。

 茶葉に混じるほんのりとした果実の匂いで、私は自然と目が覚めた。

 まだ眠い目をこすりながら起き上がると、ノクスの寝息が対角のベッドから聞こえてくる。

 今日もギリギリまで寝てる気らしい。


「ふあぁ……おはよう、ベレト」


「おはようございます。今日は少し冷えますね、紅茶でもどうですか?」


「紅茶! ありがとうっ」


 カップを受け取って一口。

 あったかくて、ちょっと甘くて、ほっとする。

 令嬢だったころ、侍女が淹れてくれていたのを思い出すなあ。

 柔らかくて清潔なベッドがあって、小腹が空けばお菓子が出てきて、喉が渇けば紅茶を用意してくれる。

 普通だと思っていた日常が、なんて恵まれていたんだろうかと家を飛び出して思い知った。

 けれど後悔はしていない。

 これが私の夢だったのだから。

 なんてまったりしていたら、部屋のドアが勢いよく開いた。


「よーっし、全員起きてるな!? 今日の訓練、気合い入れていこうぜーっ!」


 レオン先輩が、今日も元気と一緒に寒気も引き込んでくる。


「レオン先輩……服、昨日より散らかってますけど」


「見なかったことにしよう!」


 そう叫んで、先輩はベッドの下にシャツを蹴り込んだ。


「ところでさ、今日さ、王子様が来るらしいぞ!」


 何気なく放たれたその一言に、私は紅茶を飲む手を止めた。


「……王子って、アストレイ・アルグレイド殿下、ですか?」


「他に誰がいるんだよ。俺らのトップ・オブ・トップだろ?」


「そっか……アストレイ殿下が……」


 心臓が、少しだけ跳ねた。

 幼い頃、とある儀式を行う殿下の姿を見たことがある。

 殿下は世界でただ一人、光の魔法を操る、この国の象徴みたいな人。

 そのとき見た、光の魔力をまとった美しい姿がずっと脳裏に焼きついてる。


「……浮かれてんじゃねぇ」


 ぼそりとノクスの声。

 反対側のベッドを見上げると、半分寝ぼけ顔でこちらを見下ろしていた。


「べ、別に浮かれてないし!」


「ほー、どーだか」


 どうしてだろう、ちょっとだけムカつく。




------




 その日は訓練場の空気が違っていた。

 皆背筋を伸ばし、落ち着きなく視線を散らしている。

 そして静かな風のあとに、それは現れた。


「こちらです、殿下!」


「――ありがとう、ガリンダ」


 金の陽光が差し込んだかと思うと、一団を率いて現れたのはまさしく“光の王子”だった。

 アストレイ・アルグレイド殿下。

 端整な顔立ち。

 銀に近い金髪と白装束のマント。

 全身からにじみ出る清廉さと力強さに、誰もが言葉を失う。

 私も、そのひとりだった。

 あのとき見た夢の続きを、現実にしてしまったような。


「……チッ、見惚れてんじゃねぇよ」


 隣に立ったノクスが小さく舌打ちする。


「べ、別に……!」


「シッ、殿下が話されるぞ」


 思わずノクスの挑発に乗りそうになり、レオン先輩に制される。

 うう、怒られてしまった。

 ノクスのせいだ。

 最近、どこか様子がおかしい時がままある。

 どうしちゃったんだろうか。


「やあ、赤の騎士団の皆。今日も精が出るね」


 落ち着きと強さを孕んだ声音。

 すっと耳に入って心まで浸透していく、不思議な感覚。

 先輩団員たちは声をそろえて「ありがとうございます!」と礼をした。


「今日は新入りの子たちを見に来たんだ」


 そう言って、王子は近くの団員から木剣を借りた。

 ひらりと構える姿は、まるで舞のように優雅。


「で、殿下がお相手なさるので……!?」


「おや、なんだいガリンダ。僕では力不足か?」


「っ……そんな、滅相もございません。殿下の腕前は充分すぎるほどでしょう」


 ガリンダ団長は侮っているのではなく、万が一にも主に傷をつけてはならないという心配の気持ちで言っているはず。

 殿下も恐らくその意図を理解していながら、わざと意地悪く問い返したのだ。

 団長にそんなからかうような態度を取れる人、初めて見た。


「ええと……いた。キミ、名前は?」


 殿下は木剣を携えたまま訓練場の中央へ。

 そして私の方へ顔を向け、聞いてきた。

 え、もしかして私が相手をするの!?


「り……リシェドです!」


 騎士団の中で使っている偽名。

 まだその名に慣れておらず、言う時はいつも少し汗がにじむ。

 けれど今回は、普段以上に緊張して口が乾いた。


「どこからでも、かかってきていいよ」


 殿下はそう言うと、姿勢を少し低くした。

 宝石のような碧く澄んだ瞳が、すっと細まる。


「え、えぇ、っと……本当に……?」


「ホラ、早く」


 そんな急かさないでよ!

 私は心の中で一度叫んでから呼吸を整えて、思いきって踏み込んだ。

 けれど。


「――っ!」


 次の瞬間、視界が回った。


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