「はあ……」
今日、何度目のため息だろう。
昨日のことを思い返すたび、胸がちくりと痛んだ。
アストレイ王子との模擬戦。
私の動きは完全に見切られ、手も足も出ずに倒されてしまった。
相手が殿下ということもあって、全力を出せたわけではないけれど、それでもあれは無い。
先輩団員達は「自分たちの中でも殿下に勝てる奴はほぼいない」と慰めてくれた。
でも、それでも、悔しいものは悔しい。
「おい、ボケっとすんな。油断してるとまた押し倒されるぞ?」
上段ベッドから聞こえた声に、びくっとなる。
ノクスだった。
人型の姿で、布団にくるまったままこちらを睨んでいる。
「う、うるさい……今日はちゃんとやるもん」
「はいはい、せいぜい頑張れよ。ま、王子サマ~好きにして~ってなら、止めねーけど」
ノクスはそう言って、かっかっかと高笑いをした。
私は握りこぶしに力を込めながら「覚えてなさいよ」と小さく呟く。
なんであいつ、いちいちこういう言い方しかできないんだろう。
まあでも、言う通りっちゃ言う通りだ。
今日は、ちゃんとしなきゃ。
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「お前ら、口動かす前に頭使えー。今はお喋りの時間じゃなくて、戦術訓練だぞー」
そう言って、シャルド教官が地図と条件書を各班に配った。
今回の訓練は、教官が今言った通り戦術のお勉強。
騎士団の訓練はほとんどが身体を動かすものだけど、たまにこういう座学も含まれる。
戦闘に活かすための魔法理論とか、騎士たるもの人格者であれと道徳とか。
今日のテーマは、少人数での陣地防衛。
こちら十名、相手は五十。
使える魔法も資源も限られている中で、どう切り抜けるのか、が問われている。
「実際の戦争だとじっくり考える余裕も無いぞー。早さも大事だ、早さもー」
シャルド教官は差し棒でテーブルをパンパン叩いて急かしてくる。
この人、のほほんとした見た目で口調も間延びしてるのに、頭の回転はもの凄いんだよね……。
他の団員たちが、地図を囲んで口々にアイデアを出し始めた。
「やっぱり砦に全員詰めて、助けが来るまで時間稼ぎじゃねえ?」
「いっそ正面から奇襲して、敵の主力をやっちまえば良いんだよ!」
「逆に正門を開けて誘い込んで――」
「――全部、却下だ」
シャルド教官の一言で、場がしんと静まり返る。
「籠城をするには物資が足りないし、火力勝負もこの人数差では絶望的。
下手に誘導なんかしてみろ、そのまま一気に押し崩されるか、背後に回られて挟み撃ちだー」
パッと思いつく案は、どれも粉々になってしまった。
誰もが黙りこくる中、すっと声が上がった。
「失礼します」
ベレトだった。
珍しい、あまり前に出ない彼が。
「この条件なら、教本の十八章にある可変式防壁陣を基盤に、敵の侵攻ルートを制御すべきです。
遮蔽物と地形を生かし、侵攻してくる敵部隊を吸収することで、リソースを自然と削れます」
地図に手を伸ばしながら、彼は淡々と説明していく。
「正解だー。よく教本を読み込んでるなー」
教官が頷く。
「だが、この戦法にはひとつ大きな弱点があるー。敵の動きが早い場合――」
「その場合は遮蔽物の配置が間に合わず、吸収点が一方的に叩かれる可能性が高まります。
そのため、陽動型副戦線を手前に配置し、侵攻速度に合わせて意図的にルートを広げたり狭めたりすることで、本陣への到達を抑制できます」
教官の言葉をまるで待ち構えていたように遮って、ベレトが改善案を重ねた。
そして、時が止まった。
「…………」
場の誰もが沈黙する。
それを破ったのは、シェルド教官だった。
「これは、教本を書き換える必要がありそうだなー」
「う、おお……」
「マジかよ……すげーなお前……」
先輩団員たちがベレトを囲んで賞賛を浴びせる。
私はそれを聞きながら、ただ呆然としていた。
ベレトって、いつも本を読んでてのんびりしてて、体力訓練になるとすぐバテて休憩して。
でも今目の前で見たのは、言葉一つで教官を唸らせる、圧倒的な知の力。
別に馬鹿にしていたわけではないけれど、勝手に“
でも、違う。
彼には他の誰より優れた力があるんだ。
凡人の私とは、大違いだな。
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夕方、訓練が終わったあと。
誰もいない裏庭の一角で、私は一人で木剣を振っていた。
思いきり体を動かして、頭を空っぽにする。
そんなことでもしなきゃ、劣等感に押し潰されそうだった。
「お疲れさまです。でも、無理なさらない方がいいですよ」
声をかけてきたのは、他でもないベレトだった。
「あ、ありがと。……でも、ちょっとだけだからさ」
「そうですか」
しばらく黙って私の動きを見ていた彼は、ふっと笑った。
「リシェドくんは、凄いですね」
その発言に、私は思わず固まってしまう。
今日の主役が何を言い出すのか。
「……俺? 全然だよ。それより、凄いのはそっちでしょ。
『君にはもっと聞きたいことがあるー』って、シェルド教官に気に入られてたじゃん」
のどを広げて低い声を出してみる。
ちょっと似てたんじゃないだろうか。
「いえ、ボクは本で読んだ知識を並べただけですから」
「ふーん? その本を書き換えさせた張本人が、白々しいですなー?」
じとっと横目で睨みながら言うと、ベレトは「勘弁してよ」と笑った。
「ボクは小さい頃から体が弱くて。でも騎士への憧れはあったので、本で戦術や戦史を知ることが楽しかったんです。今日のは、それがたまたま上手く活かせましたね」
「へぇ、小さい頃から。凄いなあ、好きこそものの……なんたらってやつだ」
私は言葉が出てこずに、言った後で笑ってごまかす。
ベレトは「上手なれ、ですね」とすかさずカバーを入れてくれた。
「ということは、リシェドくんは誰より騎士に向いている、ということになりますね」
「……え?」
私は剣を止めた。
「好きなんですよね、騎士団が」
「う、うん。だけど、何で知ってるの?」
私が騎士団に憧れていたことは、ベレト以外誰にも言っていない。
だって、ダメダメな私がそんなこと言うと笑われそうだし。
ベレトにでも聞いたのかな、でもアイツ、そんなこと言わなそうだけど。
そう考えていると、ベレトは「ふふっ」と優しく笑ってから口を開いた。
「――わかりますよ。ずっと、見てますから」
その一言が、あまりに自然で優しくて。
風のない静まり返った裏庭に、彼の声だけが溶けていく。
翡翠色の瞳が、真っ直ぐにこちらを射抜いていた。
揺れも迷いもない、凪いだ湖面のような瞳。
胸の奥を全て見透かされているような気がして、私は目を逸らすことができなかった。
まるで、時が止まったみたい。
どくん、と心臓の音だけがやけに大きく響く。
「う、あ……え、そ、それは……どういう……?」
言葉がうまく出てこない。
ようやく絞り出した声で尋ねると、ベレトはぱちりと瞬きをする。
「あ、え、ちがっ、いや違わないんですけど、その、そういう意味じゃ……なくはないですが……!」
突然、焦りに染まった顔が真っ赤に染まる。
普段はあんなに冷静な彼が、ここまでうろたえるなんて。
「ぷっ」
思わず、笑いがこぼれた。
肩を震わせて笑うと、ベレトも「あはは」とぎこちなく笑い始めて。
いつの間にか、二人して大笑いしていた。
どちらともなく、少しずつ声を落としながら、頬を緩めて見つめ合う。
「……なんか、ベレトって可愛いね」
思わず漏らした本音に、ベレトが再度頬を赤らめる。
その表情は夕焼けの光に溶けて、少しだけ切ないくらいに眩しかった。
やがて、風が吹いた。
落ち葉がさらさらと足元を通り抜ける音の中、私たちはぽつりぽつりと言葉を交わし続けた。