ふかふかの絨毯。
足音すら吸い込まれてしまいそうな、深紅の織り模様。
透き通るような金縁のティーカップは、薄く澄んだ光を窓からの陽に反射していた。
その隣には季節外れの白い百合。
陶器の花瓶に丁寧に活けられている。
どれもこれも、令嬢時代にすら一度も見たことのない、本物の高級品ばかりだった。
私はその空間の中、重厚なソファの端にちょこんと腰かける。
まるで展示品にでも触れてしまったかのような気まずさを覚えながら、背筋だけが異様に伸びていた。
つい昨日、命を救ったとはいえ。
新入りの私が
緊張で心臓がバクバクと跳ねる。
呼び出しの理由もわからない。
もしかして、昨日のあれが問題になったとか……?
勝手に飛び出して、魔法で火球を消して。
やりすぎだった? 怒られる? 除隊?
そんな不安をぐるぐると巡らせていると、優雅な手つきで茶器を扱っていた殿下が、ふと視線をこちらに向けた。
「――どうぞ。冷める前に」
声に促され、侍女が銀のトレイを滑らせるように差し出した。
ティーカップの隣に、華やかな小さいケーキ。
宝石のように輝く果実が飾られている。
やばい、すでに緊張のピーク超えてる。
「あ、ありがとう……ございますっ」
最悪。
声が裏返った。
それでも殿下は、微笑んで頷くだけだった。
私は震える手でフォークを取り、ケーキに刺す。
カチャリと小さな金属音が響いて、なぜかそれだけで心拍数が跳ね上がった。
ケーキの先端をそっと切り取り、口元へ。
でも味なんてわからない。
ただ、ふわりと溶けていくような感触だけが舌に残った。
「どうかな?」
紅茶を手にした殿下が、優しく尋ねる。
「っ……は、はい、とってもオイシイデス」
自分でも棒読みすぎて引いた。
しかし殿下は心から安心したように、ふっと穏やかに笑った。
ああ、ずるい。
なんでこんなに、優しくて美しくて、まぶしいの。
「これはね、東方のレフレア地方でしか採れない実を使ったものなんだ」
「レフレア地方……」
聞いたことはある。
赤の国の東端、辺境にある田舎町。
でも、そこにこんな名産品があったなんて話、聞いたことがない。
私がぽかんとしていると、殿下は少し眉をひそめて言った。
「……嬉しくなかったかな?」
「う、嬉しい……デス! はい、とても!」
しどろもどろになりながらも、なんとか答える。
ケーキ自体は好きだし、普通にありがたい。
「それは良かった。君がレフレアの出だと聞いてね。
せっかくだから懐かしさを感じてもらえればと思って、わざわざ取り寄せたんだ」
「……っ」
目の前が白くなる。
そうだ、思い出した。
入団時の書類に、出身地をレフレアって書いたんだった。
王都に近い地名だと何かの拍子にバレるかもって思って、とっさに出任せで……。
――そんなの、こんなに丁寧に拾ってくれると思わないよ!
胃が痛い。
ケーキ美味しいけど胃が痛い。
「さて――本題に入ろうか」
カップを置く小さな音が、静かな部屋に吸い込まれていく。
私があたふたと姿勢を直している間に、アストレイ殿下は一口だけ紅茶を含み、優雅に目線を戻してきた。
その青の瞳が、真っ直ぐにこちらを見据える。
「……五色魔法、わかるかな?」
問いかけは穏やかだったが、空気がすっと引き締まるのを感じた。
私は咄嗟に背筋を伸ばし、声を出す。
「は、はい。赤、青、黄、白、黒……この五色が、基本の魔法属性です」
「正解。では、それぞれの特色は?」
テストのような質問。
けれど不思議と、プレッシャーのようなものはなかった。
殿下の声には相手を試すのではなく、信頼の温度があったからだと思う。
私は記憶を手繰るように、口を開いた。
「赤は炎や雷などの自然現象を操り、
青は召喚術、黄は妨害系、白は回復と守護。
黒は呪いや精神系の不安定な魔法とされています」
「うん、完璧だね。とてもよく勉強している」
殿下は嬉しそうに頷きながら、今度は指先でティースプーンを軽く回した。
「なら、これは知っているかな」
瞳が再び細められる。
今度は、少しだけ含みをもった笑みとともに。
「この世界には、五色に加えてもう一つ、私にしか使えない魔法があるんだ」
私は一瞬息を飲み、すぐに答える。
「光、ですね」
「その通り」
アストレイ殿下は、そっとカップを受け皿に戻した。
「私の色は光。全てを照らす魔法」
その語り口には、誇示するような響きは微塵もなかった。
ただ静かに、確信と責任を湛えた、ひとつの事実として語っていた。
そして殿下の視線が、すっと鋭くなる。
「だが昨日、君が使った魔法は、そのどの色にも属していないように見えた」
私は、ぎくりと肩を強張らせた。
「他の者たちは、君が火球を“拳圧で打ち消した”と思っている。
だが私は見ていた。君の拳に、漆黒の魔力が宿った瞬間を」
「……っ」
「聞かせてくれるかい? あれは、何だったのか」
空気が一気に重たくなる。
頭の中が真っ白になり、心臓が跳ねた。
どうしよう、どう答えれば。
私は、何も言えなかった。
けれど殿下はそれ以上追及しなかった。
「言いたくないなら、それでもいい。ありがとう」
拍子抜けするほど、あっさりとした声音だった。
「て、てっきり、事情を問い詰められるのかと。最悪、除名されるとか……」
思わず漏れた本音に、アストレイ殿下は驚いたように目を瞬かせた。
そして首を横に振る。
「そんなことはしないよ。たとえ君がどんな力を持っていたとしても、私には関係のないことだ」
「え……?」
「魔法の色が、人格を決めるわけじゃない。
赤が最上、黒が劣るなんて、そんなのはただの思い込みだ」
その瞳には、まるで光そのもののような強さが宿っていた。
「私はね、色に縛られない世界を作りたいんだ。
誰もが自分の力を胸張って使えるような……そんな国を」
心臓が、高鳴った。
この人はただの理想家じゃない。
覚悟をもって、そうあるべき世界を作ろうとしている。
胸の奥が、じんと熱くなった。
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「さて、そろそろ終わりかな」
ケーキを食べ終わったころ、突然アストレイ殿下が立ち上がる。
直後、ドンドンと扉を叩く音。
「入って」
扉が開き、鋼のような体格の男性――ガリンダ団長が一歩、部屋へと足を踏み入れた。
「殿下、訓練視察の時間をとうに過ぎております」
「おっと、さすがガリンダ団長。時間には厳しいな」
「それにしても、なぜこの者が殿下の部屋に?」
鋭い視線がこちらに向く。
私は、すわ処刑かと全身に冷や汗をかいた。
「私が呼んだんだよ」
アストレイ殿下が、すっと庇うように前に出る。
「そうですか。また妙なことを」
ガリンダは頭をかきながら呆れたようにため息をついた。
「殿下、今日の視察先は三班。既に演習が始まっております」
重々しい声とともに、ガリンダ団長がピシッと直立する。
さすが騎士団の統率者。
その威圧感に、私は思わず背筋を正してしまう。
「うん、急がなきゃね」
アストレイ殿下はゆっくり立ち上がり、少しだけ楽しげに口元を緩めた。
「……しかし団長、今日はいつにも増して険しい顔をしている。何かあったのかい?」
「いえ、別に」
「へえ、まさかとは思うけど」
そこでふと、芝居がかった間を取る殿下。
「また奥方と娘さんに“行ってきますのキス”を忘れたとか?」
「な――なぜそれを……!?」
ガリンダ団長の顔が見る見るうちに赤くなっていく。
怒っているのか、照れているのか、判別不能なほど。
「……っ」
目線が、ぴたりと私に突き刺さる。
「リシェド。今の会話は、存在しなかったことにしろ……いいな?」
「っ、は、はいっ!! 忘れます! 完全に忘れます!!」
全力で頷いたけれど、もうダメだった。
団長の耳まで真っ赤な様子を見たら、限界突破。
「ぷっ……ふふっ……!」
こらえきれず、ついに笑ってしまった。
団長はゆでだこのように顔を真っ赤にしながら、踵を返す。
「行きますよ、殿下……!」
「そんなに落ち込まないように。帰ったら“ただいまのキス”を普段の倍すればいいじゃないか」
「……それ以上はほんとにやめてください」
その後ろ姿を見送りながら、私はまだ肩を震わせていた。