雲ひとつない、抜けるような空だった。
けれど騎士団の朝礼場には、冷えた緊張が張り詰めていた。
ガリンダ団長が一歩前に出る。
堂々たる体格。
鋼のように通る声が、沈黙の空間を切り裂いた。
「来週、アストレイ殿下が雪原地帯へ公務に赴かれる。
これに伴い、殿下直属の護衛任務に就く五名の選抜が行われた。
人選は、殿下ご自身の指名によるものだ」
ざわっ、と空気が揺れた。
視線が交錯し、ざわめきが喉の奥でくすぶる。
雪原地帯、青の国との国境。
戦火こそ交わされてはいないが、緊張が続く場所。
下手をすれば、命を落とすような任務もある。
そんな場所に殿下が向かうのだ。
「護衛任務、か……俺たちにはあんまり関係ないだろうな」
私の隣で、レオン先輩がぽつりと漏らす。
腕を組み、やや神妙な面持ち。
「そうなんですか?」
「うん。殿下の命を預かる任務だよ? たった五人って話なら、信頼と実績のあるベテランで固めるのが普通だろ。
新人のお前たちはもちろん、俺ですらその枠にゃ入らないさ」
もっともな話だった。
言われてみれば、納得しかない。
でもなぜだろう。
胸の奥に、引っかかるものがあった。
そして、その嫌な予感は現実になる。
ひときわ透き通る声が、整列する騎士たちの前に響いた。
「――今回、私が選出した五名を発表する」
アストレイ殿下が、凛とした足取りで壇上に立つ。
その佇まいだけで、全員の背筋がぴんと伸びた。
「ホーテン・カイゼル。セルマ・ヴァレンツ。ザムエル・トゥーレ。ドラン・シュタイン――」
次々に呼ばれる名。
誰もが一目置く実力者たち。
周囲から小さな感嘆の声が漏れる。
そして。
「――リシェド。君だ」
時間が止まったように、空気が固まる。
それは私の名だった。
いや、偽名だけれど。
「……え?」
ぽろりと、口から音が漏れる。
静まり返った朝礼場に、視線が集まった。
「リシェドって……あの新人か?」
「何かの間違いじゃ……」
「いや、でも……この間のあれか? 演習での?」
混乱と困惑、驚きと動揺がごちゃまぜになって、空気が一気にざわめき立つ。
私は、声のする方を振り返ることができなかった。
殿下の青い瞳が、まっすぐこちらを見ていたから。
そのまなざしが、温かくも鋭くて。
だから、逃げ出すこともできなくて。
私はひとつ息を吸って、震える足を前に出した。
「……は、はい」
声は裏返り、口はカラカラに乾いていた。
殿下は微笑んだ。
あの、すべてを受け入れるような眩しすぎる笑顔で。
「……何考えてんだよ、王子サマ?」
柔らかな殿下の微笑に割り込むように、鋭い声が場を裂いた。
ノクスが、前に出ていた。
普段の飄々とした態度とは違う。
その目にははっきりと苛立ちが宿っていた。
「まだ入団して日も浅い奴を、王族の護衛に使う?
ふざけてんのか。正気でやってるなら、相応の理由を聞かせろよ」
「おい貴様、殿下に対して――!」
殿下の側に控える近衛兵が、剣の柄に手をかけながら一歩前へ。
ざわっ、と周囲が騒めく。
空気が一気に緊張に包まれる中、アストレイ殿下はそれを片手で制した。
「下がってくれ」
その言葉だけで、近衛は一歩退いた。
そして殿下は、ほんの一瞬だけ目を細めてノクスに視線を向ける。
「君と打ち合ったあの日を、思い出したよ」
ノクスの眉がぴくりと動いた。
殿下は静かに続ける。
「あの時から分かっていた。君の実力は、騎士団でもトップクラスだろう。
彼を君が支えたいと願うなら、同行を認めよう」
含みのある微笑。
その言葉の端々に、真意を見透かしているような鋭さがあった。
「……結局、質問には答えねぇんだな」
ノクスは鼻で笑って言った。
「けどまあ、同行していいならオレ様も乗ってやるよ。
ほっといたらすぐ無茶するからな、コイツ」
そう言ってノクスはくるりと踵を返し、私の隣に戻ってくる。
そのまま、こそっと身体を寄せてくるようにして囁いた。
「感謝しろよ」
「ふふっ……心配してくれてありがと、ノクス」
私は小さく笑って、彼の肩を肘で軽くつついた。
「心配? 眷属に死なれると面倒なだけだ」
視線を逸らしてそっぽを向くその姿が、少しだけ赤く見えた気がして。
私はさらにこっそりと、もう一度笑った。
「それでは、先に発表した五名に彼を加え――」
「――ちょ、ちょっと待ってください……!」
殿下の言葉を遮るように、切羽詰まった声が響いた。
驚いて振り返ると、声の主はベレトだった。
ベレトが?
人前に立つのすら苦手そうな彼が、自分から声を?
驚く私の前で、ベレトは一歩、壇の方へと踏み出した。
制服の袖がかすかに揺れ、彼の指先がほんの少し震えているのが見えた。
でも、その目はまっすぐに殿下を見据えていた。
「ぼ、僕も……同行させてください」
声は震えていたけれど、濁りのない意志がそこにはあった。
「雪原地帯は、僕の故郷なんです。
気温、風の動き、装備の扱い。地形も含め、熟知しています。
何かとお役に立てるはずです」
会場が静まり返る。
その中でアストレイ殿下は静かに目を細め、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……なるほど。一理ある」
殿下の声が響くと同時に、場の空気が少しだけ緩むのを感じた。
「戦術訓練での働きは、教官たちから聞いている。
未知の脅威と向き合う場において、君のように冷静に先を読む者は貴重だ。許可しよう」
ベレトはふっと息を吐いて、深々と頭を下げた。
その背中が、いつもよりずっと大きく見えた。
「ベレト……すごいな」
思わず、私の口から呟きが漏れた。
「おいおいおいおい……!」
頭を抱えて前に出てきたのは、やっぱりレオン先輩だった。
足取りは軽やかでも、その眉間には深いしわ。
「あーもうっ! 放っとけるかよ!
部屋のやつ全員連れてかれて、俺だけ留守番とか、冗談じゃないです!
……ってことで、俺も行きます!」
威勢のいい声に、朝礼場が一瞬だけ和む。
くすっと笑いが起き、場の緊張が少しだけほぐれた。
殿下もその様子を見て、やわらかな笑みを浮かべた。
そして、ゆっくりとガリンダ団長に視線を向ける。
「彼の評価は?」
問われた団長は、腕を組んだまま短くうなずいた。
「新人三名の世話役です。精神的支柱と言っても差し支えない。
腕の方も、先に選ばれた五名に劣らぬだけの力はある。
……経験は少ないが、悪くない選択かと」
「なるほど。ならキミも許可しよう」
「了解しましたっ!」
レオン先輩がびしっと敬礼し、いつもの軽さのない真顔を見せた瞬間、少しだけ胸が熱くなった。
気づけば、名前を呼ばれた者たちは八名になっていた。
殿下は軽く息を吐き、整列する騎士たちを見渡しながら静かに口を開く。
「本来、護衛は五名の予定だった。だが志を持ち、自ら名乗り出た者がいたことで八名へと増えた。
それはとても喜ばしく思う」
そこに、ふっと表情が引き締まる。
「しかし青の国との情勢は今のところ落ち着いており、雪原地帯への遠征では物資・輸送面の負担も大きい。
よって予定通り、最少人数での編成に戻す」
場が静まり返る。
「選抜を改めて告げる。リシェド、ノクス、ベレト、レオン。以上の四名を、正式な随行者とする」
一拍置いて、殿下はガリンダ団長を見た。
「そして彼らを導く存在として、ガリンダ・アーマード団長。あなたに同行を願いたい」
静寂を破る、騎士たちの驚きの声。
「団長……!」
「そ、それなら納得……!」
ガリンダ団長は、大きな溜息をついた。
「殿下のご命令とあらば、断る理由はありません」
その姿に、場の空気が再び落ち着きを取り戻す。
殿下がにっこりと笑って言う。
「急な申し出ですまないね。受けてくれたことを感謝する。
予定ではひと月の遠征になる。出発前に、奥方と娘さんに行ってきますの――」
「だあああああっ!! 殿下ァァァァ!!」
団長の顔が見る間に真っ赤になり、豪快な叫び声をあげた。
思わず笑いがこぼれる騎士たち。
私もつられて、笑ってしまった。
こんな日が来るなんて、思ってもみなかった。
不安はある。
怖くないわけがない。
でも選ばれた、選んでくれた。
ノクスも、ベレトも、レオン先輩も。
きっと、私のことを気遣って志願してくれた。
その想いが、私の背中を押してくれる。
だから――
「……やれる」
こっそりと、小さく口の中で呟いた。
その言葉は、凍える雪原よりもずっと遠くに向かって、静かに燃えていた。