ドナエル河西岸。王国軍は点在する自然堤防(河川の氾濫により形成された台地)を土塁や逆茂木で陣地化し、それらを塹壕や隧道で繋いで、蟻の巣めいた強固な防御陣地を形成していた。
土や樹の精霊の力を借りて強化され、風に精霊による通信網で相互に連携する、並大抵の軍隊では突破不可能な構えであった。
しかし帝国軍による容赦のない鉄の洗礼が陣地に降りかかった。
「退避、退避ィー!」
飛来する砲弾が着弾と同時に破裂。土塁を抉り吹き飛ばす、泥と血と火薬の匂いが陣地に充満している。
「防壁強化急げッ!」「とにかく撃ち返せ!」「火だ!水の精霊を喚んでくれ!」
陣地に詰める兵達の怒鳴り声をかき消すように、地鳴りのような轟音とともに、また一発、着弾した炸裂弾が爆発する。
泥濘の中、王国軍に前線指揮官ガレンは咄嗟に伏せ、飛んできた破片が彼のすぐ脇をかすめた。
「……ちっ、火を混ぜてきたな」
着弾と同時に炎を撒き散らす砲弾が混ざり始める、陣地の兵士たちは火を消すと同時に撤収を始めた。
精霊により強化された壕ですら、耐えきれなくなっていた。
「ここは一時放棄する。次の指揮所は四番に置く、負傷兵から撤退を始めろ。弓兵隊は援護を頼む」
「了解した。各自散開して敵の士官を狙撃、撃ったらすぐに移動しろ。ダークエルフ隊は身を隠して夜に備えてくれ」
頷いた長弓隊のエルフ達が、即座に壕から抜け出し、霧の中に紛れていく。
負傷兵の移動が済み、前線司令部要員が撤退にかかったあたりで、砲声が止む。
弓隊の狙撃だろう、僅かな防御壁の隙間を射抜くエルフ達の狙撃には何度も助けられていた。
「火砲か、厄介だな」
帝国軍に動き有り、警戒されたし。
共和国のからの急報が届いたのが約一月前。
もとより川幅の狭くなるここは重要な防御地点として整備はされていたが、この情報がなく奇襲を受けていればあっさり渡河されていただろう。
強固な陣地を作らざるを得ないことを王国軍首脳陣に理解させたのは、やはり共和国からの情報。
帝国軍の火砲の性能や数、戦術などが事細かに記された共和国の報告書を見た時は、その諜報能力高さに「味方で良かった」と薄ら寒いものを感じたものだった。
「援軍はまだなのか…」
情報はありがたい、兵糧も助かる、しかし、兵数に劣る王国が一番 望んでいるものはそれだった。
ガレンは唇を引き結び、湿った土を手に握りしめた。
◇◇◇
雨が止んだ。
連日、空を塞いでいた灰色の雲が散り、川面にうっすらと白い靄が立ち始めていた。
開戦以来昼夜を問わず続けられていた降雨の儀式だが、遂に術師達が限界を迎えていた。
彼らを夜間だけでも休ませるため、儀式は中断された。苦渋の決断だった。
膠着状態のドナエル河を挟んでの戦いは、新たな局面を迎えようとしていたーー
◇◇◇
夜の帳が下り、ドナエル河の川面に淡い霧が立ち込めていた。
王国軍の陣地では、破壊された塹壕の修復作業が静かに進められていた。
連日、帝国軍が大量の砲弾を叩き込み、粉砕したはずの陣地が――一晩で(少なくとも見た目には)元通りになる。その様子は、密かに帝国軍の士気をじわじわと削り、兵站担当士官らの精神を狂おしい程に蝕んでいた。
無論破壊されては直しまた破壊される徒労感は王国軍にしても同様であった、首脳部の焦燥感をよそに兵達に士気は高かった。
土の精霊の力を借りて泥を盛り、樹の精霊の加護でその骨組みを支える。
昼間の砲撃で深く抉られた陣地は、日が落ちるのを見計らって始められた作業によって、すっかり手慣れた兵達の手で、徐々にその姿を取り戻しつつあった。
「俺この戦争が終わったら職人になるわ」
「おう、ドナエル河帰りなら引く手数多になるぞ」
小声ではあるが作業の合間に兵達は軽口を叩いて互いを励まし合う。
ガレンは、小高い観測台からその様子を見下ろしていた。
「兵達は良くやってくれているが、術師達が限界だな」
雲間の切れ間から、久方ぶりに顔をのぞかせた満月の明かりが、疲労と泥にまみれながら黙と精霊を使役する術者達の蒼い顔を照らしていた。
人の魂は死後月に向かい月神セリウス=ルナの庇護の下で、今世の傷を癒し来世に備えるとされる。
しかし、星の海の外より来る化生から世界を守護する月神は、常に戦士の魂を欲している。
故に月は無慈悲に理不尽に、英雄の命を召し上げる。冥界の守護者であり、死神。
月は下界をのぞき込む月神の瞳、戦場を睥睨する満月は不吉の証であった。
「嫌な夜だ」
「そうか?」
漆黒の髪を後ろで結ったダークエルフの斥候隊長、シルヴィアが、霧の向こうから戻ってくる。
「良い満月だ。月の御方は勇敢なる戦士の魂を余さず掬い上げて下さるだろう」
黒い紗の眼帯越しに煌々と輝く琥珀色の瞳が月を仰ぎ見る。
天性の暗殺者として、その行為を「月神に捧げる神事」として神聖視するダークエルフらしい物言い。
ガレンが顔をしかめるのを見てシルヴィアは実に満足そうな笑みを浮かべる。月神に捧げるに足る戦士への歪んだ愛情……砕けて言えば屈強な男への嗜虐癖は彼女の度し難い悪癖であった。
「報告。対岸の帝国軍、川岸近くまで掘り進めていた塹壕から土嚢と防壁を搬出中。渡河用の橋頭堡建設の準備だな」
両軍が睨み合うこの地点の河幅は約200m、しかも中間あたりに渡守の川エルフ(水中に適応進化したエルフの支族)が拠点にしていた中洲がある。
そこまで船橋を作り中洲に陣地を構築。
帝国の太祖伝説にある「一夜城」の再現というわけだ。
「奴らの士気は爆発するぞ」
「雨が上がった途端だな」
ガレンは顎を撫でながら、霧の向こうに目を凝らす。
「ドワーフの工兵には、この月明かりは昼間と変わらん。朝には立派な橋と城が出来上がっているぞ」
その言葉に、ガレンは苦い顔で頷く。夜目の利くドワーフと人海戦術による圧倒的な作業力。
「精霊船を出してもらいましょう」
「参謀殿、なぜ前線ここに」
前線の様子を見に来ただけですよ。と返すエリシア・アルストリア。
共和国への留学経験もある才媛は周囲で働く兵達を労いながらやってくる。
能吏というタイプで数字、地図、情報を重視うる理詰の参謀ながら、小柄な体格とエルフの血を引いてる為年齢以上に幼く見える為、案外兵達の人気は高い。
本人は気合と筋肉で「なんとかしてしまう」タイプの王国軍とはあまり噛み合わないのだが。
演習でも筋肉と気合に策をねじ伏せられては、こんなのおかしいですよ!と悔し涙を浮かべているせいか、皆には愛されていた。
留学で同期だったアルベルトとかいう参謀が、まったく可愛げもなく、かつ筋肉と気合ではどうにもならない策で上層部をやり込めて、嫌われ、ついには左遷されたのとは対照的だ。
「招集して再編した屯田兵部隊が明日、それとリンデル市国とアルデン公国からの援軍がまもなくで到着します」
「おお」
共和国を宗主と仰ぐ同盟国家からの援軍が来てくれれば兵力差が大分埋まる。
連携や練度の問題はあるが、戦いは数である。
最悪渡河を許したとしても野戦で決戦が可能になる。
「今から招集すれば……ちょうどいい頃合いね」
私も同行するわ。嬉々とした表情でシルヴィアが申し出る。
「ああ、今宵は実に良い夜だ」
ガレンとエリシアは顔を見合わせ(味方でよかった)と内心で頷き合うのだった。