紡と林 耀の避けられない直接対決。
しかし、その場所は、真実が眠る「根源」の地だった。
天響研究所の跡地。
夜の闇が、瓦礫と化した建物のシルエットを深く押し潰す。吹き荒れる風が、錆びた鉄骨の間を不うなり声を上げて通り過ぎていく。そんな荒涼とした空間に、林耀の茫然とした声が虚しく響いた。
「……消えた……? まさか……」
彼の顔から、いつもの完璧な仮面のような冷静さが完全に消え失せていた。そこに浮かんでいたのは、純粋な困惑と、思い通りにならない事態に対する、ごくわずかな苛立ち。これまで常に一歩先を行き、全てを掌握していたはずの彼の計算が、目の前で崩れ去った瞬間だった。
「私の予測を超えただと? ありえない……」
彼は独りごちた。
「『欲望の地図』は、全ての可能性を示しているはずだ。なぜ、この段階で、まだ『未踏の道』がある……?」
林 耀は、自らの掌を見つめる。まるで、紡がその手から滑り落ちたこと自体が、彼の完璧な計画に対する冒涜であるかのように。
その時、廃墟の奥から、微かな「声」が聞こえた気がした。
それは、紡の耳に響いた招待状の「声」とは異なる、もっと古く、深く、そして陰鬱な響きを持つものだった。
『お前は、まだ何も理解していない……』
その「声」は、林 耀の心に直接響いた。彼の瞳が、大きく見開かれる。
「……何だと?」
林 耀が、あたりを慌ただしく見回す。だが、もちろん、そこには彼の言葉に答える者など誰もいない。風の音だけが、彼の焦燥を嘲笑うかのように鳴り響く。
彼は、苛立ちを抑えきれない様子で、拳を握りしめた。関節が白くなるほどだ。
「藍沢博士……貴方は、何を隠していた……!」
彼の口から、藍の父親の名前が、まるで呪詛のように漏れた。それは、深い憎しみとも、裏切られた者特有の激情ともとれる響きだった。林耀は、あの火災の時に、藍沢博士が何か重要な情報を隠した、あるいは伝えていないことがあったのではないかと、強く疑っているようだった。彼の計画の根幹に、藍沢博士の「遺産」が関わっていることは明らかだ。
その夜、天響研究所の跡地は、いつにも増して冷たい風が吹き荒れていた。林 耀の心にもまた、計画の綻びに対する苛立ちと、予測不能な事態への不安が、静かに、しかし確実に広がり始めていた。完璧な支配を夢見る彼の世界に、初めて不確定要素が割り込んだ瞬間だった。
一方、林 耀の目の前から姿を消した紡は、どこにいたのだろうか。
視界が白く染まり、空間が歪む、あの目眩がするような感覚の後。紡が意識を取り戻したのは、ひどく埃っぽく、冷たい空気に満たされた、薄暗い場所だった。肌を刺すようなひんやりとした空気が頬を撫で、腐食した金属と湿気を帯びた土の匂いが鼻腔の奥をくすぐる。
あたりからは、錆びついた金属の軋む音、そして遠くで微かに機械が作動しているような、規則的な低音が聞こえてくる。
(ここは……どこ……?)
紡は、恐る恐るあたりを見回した。
彼女が立っていたのは、地下へと深く続く、錆びついた鉄骨の階段の踊り場だった。階段の手すりは崩れかけ、踏み板には腐食の跡が生々しい。周囲の壁は、頑丈なコンクリートでできており、耐火構造だったのだろう、ところどころに焼け焦げた跡が生々しく残っていたが、崩壊は免れている。
足元に気をつけながら、軋む階段をゆっくりと降りていく。さらに奥へと続くのは、果てしなく長い、一本の通路だった。通路の両脇には、ガラスが割れ、内部の機材が散乱した実験室らしき部屋がいくつも連なっている。どの部屋も、厚く埃が積もり、蜘蛛の巣が張られ、時間の流れから完全に隔絶されたかのように、ひっそりと静まり返っていた。
ここは、まさに天響研究所の「地下研究室」だった。
林 耀が次に狙っていた場所。神崎 厳が、あの火災の際にも奇跡的に焼失を免れたと語っていた、「封鎖区画」だ。
(どうして……? 私が来たかったのは、こんな場所じゃないのに……)
紡は、混乱した。林 耀の支配から逃れたいと強く願ったはずなのに、なぜ、彼が最も執着している、この危険な場所へとワープしてしまったのか。それはまるで、彼女の「拒絶」の欲望が、皮肉にも林耀の「核心」へと続く道を開いたかのようだった。
ポケットの中の招待状をそっと取り出す。
招待状は、微かに熱を帯び、脈動している。
その白い表面には、林 耀の館からワープする直前に見た、あの巨大な紋様が、薄っすらと、しかし確かに残っていた。それは、まるで「欲望の地図」全体が凝縮され、招待状そのものに刻印されたかのような、複雑で神秘的な図形だった。
そして、その紋様が、まるで紡に語りかけるように、新たな文字を浮かび上がらせた。青白い光が、闇の中で文字を縁取る。
『「拒絶」は、「真の欲望」を明確にする。
「渇望」の示す「道」は、
常に「核心」へと続く。
「未完成」なる「鍵」が、ここにある。』
招待状の「声」が、紡の脳内に直接響き渡る。その言葉は、紡の混乱を解きほぐすかのようだった。
「核心」へと続く――。この地下研究室こそが、林 耀の目的の「核心」なのか。
「未完成なる鍵」――。まだ、林耀も知らない、あるいは到達できていない、しかし彼が求める力にとって不可欠な「鍵」が、この場所に隠されているというのだろうか。
紡は、招待状のメッセージを胸に刻み、通路の奥へと視線を向けた。
その時、遠くの暗闇の中から、微かな光が見えた。
光は、ゆっくりと、しかし確実にこちらへ近づいてくる。
同時に、規則的な、しかしどこか重い足音が聞こえ始めた。それは、一人分の、ゆっくりとした足音だった。
(まさか……林 耀さん……?)
紡は、反射的に身を隠す場所を探した。崩れた壁の陰に身を潜める。
光は、次第に大きくなり、その足音も、はっきりと紡の耳に届き始めた。心臓が、ドクドクと不規則なリズムを刻む。
そして、その人影が、紡の隠れている場所の角を曲がった。
そこに立っていたのは、林 耀ではなかった。
薄暗い通路に現れたのは、擦り切れた白衣をまとった、背の高い男だった。
その顔は、紡が藍沢邸で「欲望の地図」と共に発見した、あの古い写真の中の人物と瓜二つだった。
藍の父親、藍沢博士だ。
彼は、手にした古びた懐中電灯で、薄暗い通路の足元をぼんやりと照らしながら、まるで何かを探しているかのように、ゆっくりと歩いていた。その表情は、どこか疲れているようにも、深い後悔に沈んでいるようにも見えた。しかし、その瞳の奥には、変わらぬ知的な光と、何かを求めているかのような、執着めいた輝きが宿っていた。
(どうして……藍のお父さんが、ここに……!?)
紡は、息をのんだ。彼は、あの天響研究所の火災で亡くなったはずではなかったのか?
それとも、これは林 耀が見たという「記憶の残像」なのだろうか?
しかし、彼の存在は、あまりにも現実味を帯びていた。呼吸さえ聞こえてくるようだ。
藍沢博士は、紡の隠れている場所に気づくことなく、ゆっくりと通り過ぎていく。彼は通路の奥、さらに深い闇へと、足音を響かせながら進んでいった。
その背中を見つめながら、紡は混乱と疑問に苛まれた。
この地下研究室には、一体どんな真実が隠されているのか。
そして、藍沢博士は、なぜここにいるのか。生きているのか。死んでいるのか。
「未完成なる鍵」――。
招待状の言葉が、紡の脳裏に深く響く。
この地下の迷宮で、紡は、林 耀の過去と、自身の「真の欲望」の全てを知ることになるのだろうか。
(つづく)