天響研究所、地下研究室。
薄暗い通路に、藍沢博士らしき人物の足音が響く。懐中電灯の光が、埃にまみれた実験器具や、壁に書かれた数式をぼんやりと照らしていく。紡は、崩れた壁の陰に身を潜めながら、その姿を凝視した。
(本当に、藍のお父さん……?)
心臓が激しく鳴る。彼は火災で亡くなったはずだ。これは幻覚なのか、それとも林 耀が見たという「記憶の残像」なのか。だが、彼の存在はあまりにも現実味を帯びていた。微かに聞こえる息遣い、白衣の擦れる音。
藍沢博士は、通路の奥、さらに深い闇へと消えていく。
紡は、躊躇した。このまま彼を追うべきか。だが、招待状の言葉が脳裏をよぎる。
『「未完成」なる「鍵」が、ここにある。』
この地下に、林 耀がまだ気づいていない、あるいは到達できていない「鍵」があるというなら、それは藍沢博士に関係しているに違いない。
紡は、意を決して、博士の後を追った。足音を立てないよう、慎重に、しかし素早く進む。地下研究室は、迷路のように複雑な構造をしていた。いくつもの実験室が連なり、通路はさらに奥へと続いていた。
やがて、藍沢博士は、一つの大きな扉の前で立ち止まった。扉は、重厚な鋼鉄製で、表面には複雑な紋様が刻まれている。その紋様は、「欲望の地図」に描かれていたものと、どこか似ている。
博士は、扉に手を触れ、何かを呟いた。扉は、微かな機械音を立てながら、ゆっくりと開いていく。
中から漏れ出すのは、青白い光と、微かに耳鳴りのような高周波の音。
紡は、息をのんだ。中を覗くと、そこは巨大な実験室だった。中央には、いくつものケーブルが繋がれた、カプセル状の装置が鎮座している。その内部は、青白い液体で満たされており、まるで生命が眠っているかのようだった。
そして、部屋の壁には、膨大な量の数式や、人間の脳の構造図、そして、見たこともない複雑な回路図がびっしりと書き込まれていた。そのどれもが、「人間の意識」と「物質」の相互作用について記されている。
「……ここが、博士の……」
紡が思わず声に出しそうになった瞬間、招待状が激しく熱を帯び、脈動した。
招待状の白い表面に、新たな文字が浮かび上がる。
『「死」と「生」の境界を操る者。
「再構築」の「原型」が、ここに。
しかし、「魂の器」は、未だ「空」』
招待状の「声」が、紡の脳内に直接響き渡る。
「再構築の原型」――。林 耀が求めている「死を克服し、意識を再構築する」研究の、最初の形がここにあるというのか。
「魂の器は、未だ空」――。それは、藍沢博士の研究が、未完成であることを意味するのだろうか。
その時、藍沢博士がカプセルの前に立ち、何かを操作し始めた。彼の指が、装置のパネルに触れるたび、内部の青白い液体が微かに波打つ。
紡は、その様子をじっと見つめていた。すると、博士の背後から、もう一人の人影が現れた。
若き日の林耀だ。
林 耀は、博士の隣に立ち、興奮した様子で装置を見つめている。
「博士、本当にこれで……!?」
「ああ、耀。これで、意識の完全な抽出と、物質への定着が可能になるはずだ。」
藍沢博士の声は、疲れていながらも、確信に満ちていた。
「しかし、まだ『魂の器』が問題だ。適合する器がなければ、意識は安定しない。」
その言葉に、紡の心臓が大きく跳ねた。
「魂の器」――。それは、まさか、自身の「空っぽ」な心が関係しているのだろうか。
林 耀が、紡の「真の欲望」を「核」と呼んだ理由。それは、紡の「空っぽさ」が、「魂の器」として利用できるからなのか。
次の瞬間、実験室の奥から、けたたましい警告音が鳴り響いた。
赤いランプが点滅し、装置から火花が散る。
「まずい!オーバーロードだ!」
林 耀が叫ぶ。
「なぜだ!?計算は完璧だったはず……」
藍沢博士の顔に、絶望の色が浮かんだ。
装置が、激しい音を立てて爆発した。
爆風と炎が部屋中に広がり、紡の視界は、一瞬にして白く染まった。
熱風が肌を焼く。
(この光景は……あの火災……!)
紡は、林 耀の記憶の断片で見た、あの研究所の火災の瞬間に立ち会っているのだと気づいた。
炎の中で、藍沢博士は、何かに手を伸ばそうとしていた。
「耀!これだけは……!これだけは、お前が持っていけ……!」
博士の手から、何かが宙に投げ出された。
それは、かすかに青白い光を放つ、一枚の白い紙片。
(招待状……!)
紡は、思わず手を伸ばした。
その白い紙片は、炎の中で、林 耀の幼い姿の近くを通り過ぎ、まるで導かれるように、紡の指先に触れた。
その瞬間、紡の視界が歪み、空間が捻じれる。
炎、爆発音、藍沢博士と林 耀の声、全てが遠ざかっていく。
そして、次に意識を取り戻した時、紡は再び、林 耀の館の書斎に立っていた。
林 耀の視線が、驚愕と、しかし深い執着を宿して、紡の姿を捉えている。
彼の館にワープする前の、あの瞬間に戻ったのだ。
「……まさか……貴女は……!」
林 耀の声は、震えていた。
彼は、紡が彼の過去の記憶に触れ、そして、招待状の真の起源を垣間見たことに気づいたようだった。
紡は、自分の手のひらを見た。
そこには、しっかりと招待状が握られていた。
招待状は、静かに、しかし確かに、温かい熱を帯びていた。
まるで、全ての真実をその内に秘めているかのように。
林 耀の瞳が、狂気じみた光を宿し、紡を見つめる。
「貴女は、見たのですね……私の『根源』を。そして、『書』の誕生を……!」
天響研究所の地下で見た「未完成なる鍵」。
林 耀の「真の欲望」の原型。
そして、火災の瞬間に、招待状が紡へと渡された、その真実。
全ての点と点が、今、一本の線で繋がり始めていた。
(つづく)