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第22話:藍沢博士の悔恨、継がれる狂気

薄暗い通路の奥へと消えていく、藍沢博士らしき人物の背中を、紡は息を潜めて見つめていた。彼の歩みは、まるで定められた道を辿るかのように、迷いがなかった。


(一体、どこへ……?)

紡は、足音を立てないよう、慎重に後を追った。地下研究室は、迷路のように複雑な構造をしていたが、藍沢博士の存在が、まるで道標のように紡を導いているようだった。


やがて、博士は、通路の最奥に位置する、さらに厳重な扉の前で立ち止まった。その扉は、これまでのものとは異なり、無数のケーブルが複雑に絡みつき、中央には古びたパスワード入力装置が埋め込まれている。


扉の周囲の壁には、どこか見覚えのある紋様がびっしりと刻まれていた。それは、藍沢邸で見た「欲望の地図」の一部を拡大したかのようだった。


藍沢博士は、パスワード入力装置に手をかざし、ゆっくりと数字を打ち込んでいく。彼の指が触れるたび、装置から微かな電子音が響いた。


扉が、重々しい機械音を立てて開く。中から漏れ出す光は、これまで見たどの場所よりも強く、目を細めるほどだった。その光は、青白いだけでなく、かすかに虹色に輝いているようにも見えた。


紡は、博士が中へ入るのを確認し、自身もゆっくりと足を踏み入れた。


そこは、これまでの実験室とは一線を画していた。部屋の中央には、巨大な円筒状の装置が鎮座している。それは、青白い光を放ち、無数の配線が複雑に絡み合い、天井へと伸びていた。装置の周囲には、巨大なスクリーンが複数設置されており、それぞれに複雑なグラフや数式、人間の脳の活動を示す波形が映し出されている。


壁には、数多くのデッサンや設計図が貼り付けられている。その中には、人間の意識を模したと思われる光の粒子が、カプセルの中で漂う様子が描かれたものもあった。


そして、部屋の奥には、一台の机があり、その上に、一冊の古びたノートが置かれていた。


藍沢博士は、装置の前に立ち尽くしていた。その表情は、疲弊と後悔、そして諦めが混じり合った、複雑なものだった。

「……完成しなかった……」

博士の声が、虚しく響いた。

「魂の器……生命の螺旋……」


招待状が、紡のポケットの中で激しく脈動する。

『「未完成」なる「鍵」の「場所」』

招待状は、紡をこの部屋へと導いたのだ。


その時、林 耀の言葉が脳裏をよぎる。

「藍沢博士は、『書』の力を人工的に引き出す研究の過程で、この『欲望の地図』を作成した。

それは、人間の心の深層にアクセスし、『真の欲望』の道筋を示すものだ。」

「しかし、博士は、あと一歩のところで道を誤った。そして、貴女の『書』――『本物の導きの書』の存在に、最後まで気づかなかった。」


藍沢博士は、そのノートに手を伸ばした。

「耀……私は、間違っていたのだ……」

博士は、ノートを開いた。そのページには、林 耀の記憶の中で見た、幼い頃の林 耀と、博士自身の笑顔が描かれたスケッチがあった。その下には、何らかの数式と、手書きの走り書きが続く。


「この研究は……人間が、決して踏み入れてはならない領域だった……」

博士の声が、震える。

「『欲望の地図』は、心の螺旋を辿るための道具。だが、それ自体が、真の『欲望』を生み出すものではない。それは、あくまで『導き』に過ぎないのだ。」


招待状が、さらに激しく光を放つ。

『「真の欲望」は、

「誰か」から与えられるものではない。

「魂の器」は、

「空っぽ」である故に、「満たされる」』


招待状の「声」が、紡の脳内に直接響いた。

「魂の器は、空っぽである故に、満たされる」――。

紡の「空っぽな承認欲求」が、「魂の器」であり、それが林 耀の求める「完成」とは全く異なる意味を持つことを示唆している。


藍沢博士は、ノートをゆっくりと閉じた。その手は、まるで何かを諦めたかのように、力を失っていた。

「耀……お前は、私と同じ過ちを繰り返すのか……」

彼の視線は、虚空に向けられていた。まるで、遠い未来の林 耀を見ているかのように。

「『死を克服する』という欲望は、真の『生』を奪う。それは、ただの空虚な再構築に過ぎない……」


その言葉に、紡の心臓が激しく脈打った。

(空虚な再構築……!)

林 耀の目的は、「死の克服」という名の「空虚」を生み出すことだったのだ。


その時、部屋の入り口に、一つの影が差し込んだ。

振り返ると、そこに立っていたのは、林 耀だった。

彼の瞳は、怒りと、そして強い執着に燃えている。


「ようやく見つけたぞ、藍沢博士……!」

林 耀の声は、冷たく、そして狂気に満ちていた。

彼は、まるで時を超えて、この場所にいる藍沢博士の「残像」に語りかけているかのようだった。

「貴方は、私に全てを教えなかった!この『未完成なる鍵』を、私から隠していたのだな!」

林 耀は、部屋の中央の装置を指差した。


藍沢博士は、林 耀の方をゆっくりと振り向いた。彼の表情は、疲弊しきっている。

「耀……お前は、私の言っていることが、まだ分からないのか……」

「黙れ!貴方は、あの時、私を置いていった!貴方は、真の『完成』を恐れたのだ!」

林 耀は、藍沢博士へと詰め寄る。


「真の完成は、生命の冒涜だ! 私は、それに気づいたのだ! だからこそ、この研究を止めた……!」

藍沢博士が、悲痛な声で叫んだ。

「あの『書』は、人が『真の欲望』を追求する力を与える。しかし、その力が、暴走すれば……世界を滅ぼす!」

博士は、紡のポケットの中の招待状を、まるで全てを見透かすかのように、じっと見つめた。

その視線が、紡の心に突き刺さる。


「それが、私の『空っぽ』な心と、どう関係しているのですか……?」

紡は、思わず口にしていた。

藍沢博士は、紡の姿をはっきりと認識したようだった。彼の瞳に、微かな驚きと、深い悲しみが浮かぶ。

「貴女は……『書』に選ばれた者……」

博士が、紡へと手を伸ばそうとした。


その瞬間、林 耀が動いた。

藍沢博士の横をすり抜け、円筒状の巨大装置へと飛びついた。

「この『未完成なる鍵』があれば、貴方の『失敗』を、私が『完成』させてみせる!」

林 耀は、装置のパネルを力強く叩いた。


装置の青白い光が、激しく点滅し始める。

そして、部屋全体が、不吉な機械音と、高周波の耳鳴りに包まれていった。

林 耀の顔に、狂気じみた勝利の笑みが浮かぶ。

「さあ、全てを再構築するのだ……!」


紡は、直感した。このままでは、林 耀は取り返しのつかないことをする。

彼の求める「完成」は、世界を「無」へと導く「空虚」なものだと、招待状は告げていた。

「やめて!林 耀さん!」

紡の叫び声が、不吉な音に包まれた地下研究室に響き渡った。


(つづく)

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