天響研究所、地下研究室。
不吉な機械音と高周波の耳鳴りが、部屋全体を包み込む。林 耀は、狂気じみた勝利の笑みを浮かべ、巨大な円筒状の装置のパネルを力強く叩いた。
「さあ、全てを再構築するのだ……!」
紡は、直感した。このままでは、林 耀は取り返しのつかないことをする。彼の求める「完成」は、世界を「無」へと導く「空虚」なものだと、招待状は告げていた。
「やめて!林 耀さん!」
紡の叫び声が、不吉な音に包まれた地下研究室に響き渡った。
装置の青白い光が、激しく点滅しながら、その輝度を増していく。無数のケーブルが、まるで生き物のように脈打ち、装置全体が不気味な唸り声を上げた。部屋の壁に映し出されたスクリーンには、複雑な数式が目まぐるしく変化し、人間の脳波らしき波形が異常な高まりを見せている。
「無駄です、小鳥遊さん!」
林 耀は、紡を振り返りもせず、装置に手をかざした。
「この『未完成なる鍵』は、藍沢博士が到達できなかった領域。意識を完全に抽出し、新たな『器』へと定着させるための、究極の装置なのだ!」
彼の声は、興奮で上ずっていた。
その時、藍沢博士の「残像」が、林 耀の背後でゆっくりと手を伸ばした。
「耀……やめるんだ……!それは、魂を冒涜する行為だ……!」
彼の声は、悲痛な響きを帯びていた。だが、林 耀には届かない。あるいは、届いていても、もはや聞く耳を持たない。
装置の内部を満たす青白い液体が、激しく渦を巻き始める。その液体の中に、無数の光の粒子が生まれ、まるで小さな星々のように輝き始めた。それは、かつてこの研究所で失われた、無数の「意識の断片」なのだろうか。
紡は、ポケットの中の招待状を強く握りしめた。招待状は、激しい熱を帯び、手のひらの中で脈打っている。
『「空虚」は、「新たな器」を求める。
「真の欲望」は、「自ら」の「意志」で満たされる。
「支配」を「拒絶」せよ。
「世界」を「守護」せよ。』
招待状の「声」が、紡の脳内に直接響き渡った。
「世界を守護せよ」――。
それは、林 耀の計画が、世界を破滅させることを意味していた。
そして、「真の欲望」は「自らの意志で満たされる」という言葉は、林 耀が紡の欲望を「利用」しようとしていることへの、明確な否定だった。
紡は、林 耀の背中を見た。彼の目的は、失われた命を取り戻すこと。だが、それは、真の「生」ではなく、ただの「空虚な再構築」に過ぎない。
(私の「空っぽ」は、貴方の道具じゃない……!)
(私の「承認欲求」は、誰かに支配されるためじゃない……!)
紡の心の中で、「拒絶」の意志が、再び激しく燃え上がった。
そして、その「拒絶」は、林 耀の「支配」に対する、純粋な「守護」の願いへと昇華されていく。
紡は、装置へと向かって走り出した。
林 耀が、紡の動きに気づき、振り返る。
「何をするつもりですか、小鳥遊さん!」
彼の顔に、苛立ちと、再び狂気の光が宿る。
その瞬間、紡の全身から、招待状から放たれるものと同じ、青白い光が溢れ出した。
光は、紡の体を包み込み、彼女の「真の欲望」を具現化する。
紡は、装置に手を伸ばした。
「触れるな!」
林 耀が叫び、紡へと飛びかかった。
だが、紡の意識は、すでに装置の内部、青白い液体の中で渦巻く無数の光の粒子へと向かっていた。
(この光は……意識の断片……)
(林 耀さんは、これを『器』に入れようとしている……)
紡の「拒絶」の欲望は、林 耀の「再構築」のプロセスを阻害しようとする。
そして、「世界を守護せよ」という招待状の言葉が、紡の心に新たな「認識」を生み出した。
紡の指先が、装置の表面に触れた。
その瞬間、装置から放たれていた青白い光が、一瞬にして、虹色の光へと変化した。
虹色の光は、装置の内部で渦巻く無数の光の粒子を包み込み、それらがまるで溶け合うかのように、一つに集約されていく。
「な……何だと……!?」
林 耀の声が、驚愕に震えた。
彼の計画では、意識は「抽出」され、「定着」されるはずだった。しかし、紡の力は、それを「集約」し、さらに「変化」させている。
虹色の光の塊が、装置の中央で輝きを放ち、やがて、その光の中から、一つの「形」が生まれ始めた。
それは、人間の形をしていた。
しかし、その姿は、林 耀が求めていた「完璧な再構築」とは、全く異なるものだった。
光の塊から現れたのは、半透明で、どこか
彼の表情は、苦痛と、しかし深い安堵が混じり合った、複雑なものだった。
「耀……」
藍沢博士の声が、部屋に響き渡る。
林 耀は、その姿を見て、凍りついた。
「藍沢博士……? まさか……貴方が……」
彼の顔に、狂喜と絶望が入り混じった、複雑な表情が浮かんだ。
彼が求めていたのは、過去の完璧な再現だったはずだ。しかし、目の前の藍沢博士は、彼の知る「生きた」藍沢博士とは明らかに異なっていた。
「私の『真の欲望』は……『生命の尊厳』を守ることだった……」
藍沢博士は、林 耀に、そして紡に語りかけるように言った。
「この装置は……『欲望の地図』は……『魂の器』は……全て、人間が、自らの『真の欲望』と向き合い、それを『昇華』させるためのもの……」
彼の言葉は、林 耀の「再構築」の概念を根底から覆すものだった。
「昇華……? 馬鹿な!そんなものは、ただの幻想だ!」
林 耀が叫び、装置に手を伸ばそうとした。
「私は、貴方の失敗を、私の手で『完成』させる!」
しかし、藍沢博士の半透明な手が、林 耀の腕をそっと掴んだ。
その手は、冷たく、しかし確かな力を持っていた。
「耀……お前は、まだ、この『書』の真の意味を理解していない……」
藍沢博士の視線が、紡のポケットの中の招待状へと向けられた。
「『空っぽ』な器は、自らで『満たす』ことで、初めて『真の力』を得る……」
その言葉が、紡の心に深く響いた。
「空っぽな承認欲求」――。
それは、他者に満たされるのを待つのではなく、自らの意志で、自らの欲望を満たすことで、真の力となる。
林 耀は、藍沢博士の手を振り払おうともがいた。
「離せ!私は、もう貴方の教えなど聞かない!私は、私自身の『欲望』を完成させる!」
装置から放たれる虹色の光が、さらに強くなる。
そして、藍沢博士の半透明な体が、光の中に溶け込んでいくかのように、薄れていった。
「紡さん……貴女の『真の欲望』を……信じるんだ……」
博士の声が、消え入りそうに響いた。
林 耀は、藍沢博士が完全に消え去るのを見て、絶叫した。
「なぜだ!なぜ、貴方は私を拒むのだ、藍沢博士!」
彼の絶叫は、地下研究室に虚しく響き渡る。
紡は、目の前の光景に、呆然としていた。
藍沢博士の出現。そして、彼の言葉。
林 耀の「再構築」は、真の「生」ではない。
そして、自身の「空っぽな承認欲求」の真の意味。
林 耀は、装置の前に立ち尽くし、憎悪と混乱に満ちた目で紡を睨みつけた。
「貴女が……貴女が邪魔をしたのだな、小鳥遊さん……!」
彼の顔は、怒りで歪み、もはや理性のかけらも残っていなかった。
紡は、招待状を強く握りしめた。
この地下研究室で、林 耀との最後の対決が、今、始まろうとしていた。
彼女の「真の欲望」が、この狂気を止められるのか。
(つづく)