天響研究所、地下研究室。
装置から放たれる虹色の光が、藍沢博士の半透明な姿を薄れさせ、やがて完全に消し去った。林 耀は、その光景を呆然と見つめていたが、博士が消え去った瞬間、その顔は憎悪と怒りで歪んだ。
「なぜだ!なぜ、貴方は私を拒むのだ、藍沢博士!」
林 耀の絶叫が、地下研究室に虚しく響き渡る。彼の完璧な計画は、目の前で紡によって阻まれ、尊敬していたはずの藍沢博士にまで拒絶された。彼の理性は、もはや限界に達していた。
林 耀は、憎悪に満ちた目で紡を睨みつけた。
「貴女が……貴女が邪魔をしたのだな、小鳥遊さん……!」
その声には、獣じみた唸りが混じっていた。彼は、一歩、また一歩と、紡へと近づいてくる。その手は、まるで紡の命を掴み取るかのように、大きく開かれていた。
紡は、ポケットの中の招待状を強く握りしめた。招待状は、藍沢博士が消え去った後も、変わらず熱を帯び、脈動している。その熱は、紡の心臓の鼓動と共鳴し、全身に力を満たしていくようだった。
(私の「空っぽ」は、貴方の道具じゃない……!)
(私が満たすのは、私自身の「承認」だ……!)
招待状の「声」が、紡の脳内に直接響く。
『「空っぽ」な器は、自らで「満たす」ことで、初めて「真の力」を得る……』
紡の「承認欲求」は、これまで他者の評価を渇望し、常に満たされない「空っぽ」だった。しかし、今、林 耀の支配を拒み、大切な藍を守りたいと願う強い意志によって、それは自らの内側から満たされようとしていた。
その瞬間、紡の全身から、招待状から放たれるものと同じ、青白い光が溢れ出した。
光は、紡の体を包み込み、彼女の「真の欲望」を具現化する。
紡は、装置に手を伸ばした。
「触れるな!」
林 耀が叫び、紡へと飛びかかった。
だが、紡の意識は、すでに装置の内部、青白い液体の中で渦巻く無数の光の粒子へと向かっていた。
(この光は……意識の断片……)
(林 耀さんは、これを『器』に入れようとしている……)
紡の「拒絶」の欲望は、林 耀の「再構築」のプロセスを阻害しようとする。
そして、「世界を守護せよ」という招待状の言葉が、紡の心に新たな「認識」を生み出した。
紡の指先が、装置の表面に触れた。
その瞬間、装置から放たれていた青白い光が、一瞬にして、虹色の光へと変化した。
虹色の光は、装置の内部で渦巻く無数の光の粒子を包み込み、それらがまるで溶け合うかのように、一つに集約されていく。
「な……何だと……!?」
林 耀の声が、驚愕に震えた。
彼の計画では、意識は「抽出」され、「定着」されるはずだった。しかし、紡の力は、それを「集約」し、さらに「変化」させている。
虹色の光の塊が、装置の中央で輝きを放ち、やがて、その光の中から、一つの「形」が生まれ始めた。
それは、人間の形をしていた。
しかし、その姿は、林 耀が求めていた「完璧な再構築」とは、全く異なるものだった。
光の塊から現れたのは、半透明で、どこか朧げな姿の、藍沢博士だった。
彼の表情は、苦痛と、しかし深い安堵が混じり合った、複雑なものだった。
「耀……」
藍沢博士の声が、部屋に響き渡る。
林 耀は、その姿を見て、凍りついた。
「藍沢博士……? まさか……貴方が……」
彼の顔に、狂喜と絶望が入り混じった、複雑な表情が浮かんだ。
彼が求めていたのは、過去の完璧な再現だったはずだ。しかし、目の前の藍沢博士は、彼の知る「生きた」藍沢博士とは明らかに異なっていた。
「私の『真の欲望』は……『生命の尊厳』を守ることだった……」
藍沢博士は、林 耀に、そして紡に語りかけるように言った。
「この装置は……『欲望の地図』は……『魂の器』は……全て、人間が、自らの『真の欲望』と向き合い、それを『昇華』させるためのもの……」
彼の言葉は、林 耀の「再構築」の概念を根底から覆すものだった。
「昇華……? 馬鹿な!そんなものは、ただの幻想だ!」
林 耀が叫び、装置に手を伸ばそうとした。
「私は、貴方の失敗を、私の手で『完成』させる!」
しかし、藍沢博士の半透明な手が、林 耀の腕をそっと掴んだ。
その手は、冷たく、しかし確かな力を持っていた。
「耀……お前は、まだ、この『書』の真の意味を理解していない……」
藍沢博士の視線が、紡のポケットの中の招待状へと向けられた。
「『空っぽ』な器は、自らで『満たす』ことで、初めて『真の力』を得る……」
その言葉が、紡の心に深く響いた。
「空っぽな承認欲求」――。
それは、他者に満たされるのを待つのではなく、自らの意志で、自らの欲望を満たすことで、真の力となる。
林 耀は、藍沢博士の手を振り払おうともがいた。
「離せ!私は、もう貴方の教えなど聞かない!私は、私自身の『欲望』を完成させる!」
装置から放たれる虹色の光が、さらに強くなる。
そして、藍沢博士の半透明な体が、光の中に溶け込んでいくかのように、薄れていった。
「紡さん……貴女の『真の欲望』を……信じるんだ……」
博士の声が、消え入りそうに響いた。
林 耀は、藍沢博士が完全に消え去るのを見て、絶叫した。
「なぜだ!なぜ、貴方は私を拒むのだ、藍沢博士!」
彼の絶叫は、地下研究室に虚しく響き渡る。
紡は、目の前の光景に、呆然としていた。
藍沢博士の出現。そして、彼の言葉。
林 耀の「再構築」は、真の「生」ではない。
そして、自身の「空っぽな承認欲求」の真の意味。
林 耀は、装置の前に立ち尽くし、憎悪と混乱に満ちた目で紡を睨みつけた。
「貴女が……貴女が邪魔をしたのだな、小鳥遊さん……!」
彼の顔は、怒りで歪み、もはや理性のかけらも残っていなかった。
紡は、招待状を強く握りしめた。
この地下研究室で、林 耀との最後の対決が、今、始まろうとしていた。
彼女の「真の欲望」が、この狂気を止められるのか。
林 耀は、紡へと向かって、再び飛びかかった。その手は、紡の命を奪うためだけに、大きく開かれている。
「私を……私を認めないのなら……貴女も『無』になれ……!」
紡は、一歩も引かなかった。彼女の全身から、招待状から放たれるものと同じ、まばゆい青白い光が再び溢れ出す。その光は、これまで紡が発動させてきた瞬間移動の比ではない、純粋な「拒絶」と「消滅」の力として、地下研究室に満ちていく。
紡から放たれる光の粒子が、部屋中の機械や装置、壁に書き込まれた数式に触れるたび、それらが一瞬にして発光し、そして朽ちていく。まるで、生命力を吸い取られたかのように、急速に古び、崩れ去る現象だった。
「私の『死への渇望』……」
紡の脳内に、招待状の「声」が響いた。
『「死への渇望」は、
「支配」されず、「自ら」が「終わらせる」こと。
「承認」とは、「消滅」の中に「存在」を刻むこと。』
紡の「死への渇望」は、自らの終わりを望むことではなく、他者に支配されずに、自らの意思で物事を「終わらせる」力。そして、「消滅」の中に、自身の「存在」を刻みつけるという、これまでとは全く異なる意味を持っていたのだ。
林 耀は、その異変に気づいた。彼が必死に起動させようとしていた装置が、紡から放たれる光に触れ、急速に錆びつき、ヒビが入り始めている。
「やめろ!私の『再構築』の装置が……!貴女の力が、これを『無』に帰すというのか!」
林 耀は、自身の計画を妨げようとする紡の力に、恐怖の色を浮かべた。
「貴方の欲望は、全てを『空虚』にする!私は、それを『終わらせる』!」
紡は、林 耀へと向かって、光を放ちながら歩みを進めた。
紡の足元から、光の波紋が広がり、床や壁に触れるたびに、周囲のものが朽ちていく。
それは、紡が持つ「死への渇望」が、「触れたものを無へと帰す力」として具現化したものだった。
林 耀は、後ずさりながら、壁に打ち付けられた非常停止ボタンに手を伸ばした。
「そんな力……!制御不能だ!貴女は、世界を破壊するつもりか!」
「違う!私は、世界を守る!」
紡の声は、かつてないほどの強い意志に満ちていた。
彼女の「拒絶」の欲望は、林耀の支配だけでなく、彼の存在そのものを「終わらせる」力へと変わっていたのだ。
林 耀の指が、非常停止ボタンに触れる寸前。
紡の放つ光が、彼の身体へと到達した。
林 耀の体から、光の粒子が吹き出し、彼の肉体が、まるで砂のように、急速に崩れていく。
その瞬間、林 耀の意識の奥底で、かつての記憶が走馬灯のように駆け巡った。
幼い頃の自分。
研究に没頭し、自分を見向きもしない父親と、常に自分を認めてくれた藍沢博士。
博士の言葉、「耀、お前は素晴らしい才能を持っている。いつか、私を超える存在になるだろう。」
その言葉が、林 耀の全てだった。認められたい。博士に、そして世界に。
火災の炎の中、崩れ落ちる研究所で、博士が放った言葉。
「耀!これだけは……!これだけは、お前が持っていけ……!」
その手から投げ出された、青白い光を放つ紙片――「招待状」。
林 耀は、それを拾い上げた。その時、彼の心には、博士の死を受け入れられない絶望と、この「書」の力で全てを「再構築」し、博士の夢、そして自身の存在価値を「完成」させたいという、歪んだ「承認」への渇望が生まれた。
彼の「空っぽ」は、博士に認められたい、そして博士を超えたいという、他者への依存から来る渇望だったのだ。
「博士……私は……貴方を超えようとした……私を……認めてほしかった……」
彼は、最後の瞬間、幼い頃の満たされない承認欲求が、全てを支配していたことに気づいたようだった。
「な……馬鹿な……私が……消える……だと……!?」
彼の顔に、恐怖と、そして一瞬の、絶望的な理解がよぎった。
林 耀は、最期まで抗おうとしたが、紡の「終わらせる」力は、彼自身の「再構築」」の欲望をも上回っていた。
彼の体は、瞬く間に光の粒子となって散り、やがて、完全に消滅した。
地下研究室には、林 耀の存在を示すものは何も残らなかった。
林 耀が消滅した瞬間、装置から放たれていた虹色の光も、紡の全身を包んでいた青白い光も、ゆっくりと収まっていった。
部屋には、再び、重い静寂が訪れる。
埃と、焦げ付いたような匂いだけが、そこに林 耀がいたことを示していた。
紡は、その場に崩れ落ちた。全身から力が抜け、へとへとになっていた。
掌の中の招待状は、もはや光も熱も帯びていない。ただの、白い紙片に戻っていた。
静まり返った地下研究室で、紡は一人、呆然としていた。
林 耀は消えた。彼の狂気的な計画は、阻止されたのだ。
しかし、その心には、得も言われぬ虚無感が広がっていた。
(これで……終わり……?)
「空っぽな承認欲求」――。
林 耀を倒し、世界を「守護」した。それは、確かに彼女の「真の欲望」の一端を満たしたのかもしれない。
だが、心の奥底に残る、あの「空っぽ」な感覚は、まだ完全には消え去っていなかった。
その時、閉ざされていた扉の向こうから、微かな足音が聞こえた。
そして、その足音は、一つではない。複数だ。
林 耀を追ってきた者がいるのか。
あるいは……。
紡は、警戒しながら、ゆっくりと顔を上げた。
地下研究室の通路の奥から、懐中電灯の光が、こちらへと向かってくるのが見えた。
(つづく)