光の粒子となって散り、虚空へと還った林 耀。
その存在が消え去った後、部屋には鉛のように重い静寂が訪れた。
つい先ほどまで狂気的な機械音と絶叫が響き渡っていた空間は、まるで何もなかったかのようにひっそりと息を潜めている。
紡は、その場に崩れ落ちたまま、ぼんやりと虚空を見つめていた。
掌の中の招待状は、もうまばゆい光も、脈打つ熱も失い、ただの白い紙片に戻っている。
薄暗い中でもその白さは際立ち、あまりにも非日常的で、現実感がない。
全身から力が抜け、へとへとになっていた。
身体の震えが止まらない。
だが、それ以上に、心に広がる底なしの虚無感が紡を支配していた。
あの狂気を止めた。
世界を「守護」した。
それは確かだ。
間違いなく、誰もが望むべき結果だったはず。
なのに、どうしてこんなにも心が満たされないのだろう?
自身の「空っぽ」は、本当にこれで満たされたのだろうか?
「終わらせた」ことの意味が、まだ紡の心には理解しきれていなかった。
周囲の光景は、紡の力の凄まじさを物語っていた。
林 耀の消滅と共に、起動寸前だった巨大な装置は急速に朽ち果て、見るも無残な鉄の塊と化している。壁に書き込まれていた複雑な数式や図形も、まるで時が何十年も早送りされたかのように、色褪せて崩れ落ちていた。
すべてが「無」へと帰された痕跡。
紡が持つ「死への渇望」が具現化した結果だった。
その時、閉ざされていた厳重な扉の向こうから、微かな足音が聞こえた。
それは一つではなく、複数だ。
疲弊しきった体と心に、再び警戒心がよぎる。
紡は、残された最後の力を振り絞るように、ゆっくりと顔を上げた。
地下研究室の通路の奥から、懐中電灯の光が、こちらへと向かってくるのが見えた。
その光は、暗闇の中で唯一の希望のように見えながらも、同時に新たな脅威を予感させた。
光は次第に近づき、やがて二つの人影が、その光の中に浮かび上がった。
その瞬間、紡の目が見開かれた。
そこに立っていたのは、何よりも待ち望んでいた、予想だにしなかった顔。
藍と神崎厳だった。
藍は、紡の姿を見つけると、目に涙を浮かべ、安堵と不安が入り混じった表情で駆け寄ってきた。
その顔には、煤と埃がついており、ここまで必死に走ってきたことが伺える。
息を切らせ、藍は紡の前に膝をついた。
温かい手が紡に差し伸べられる。
紡は反射的にその手を払いかけたが、藍は構わず、そっと紡の冷えた手に触れた。
その温もりが、紡の心をゆっくりと確かに解きほぐしていく。
神崎は、冷静さを保ちながらも、周囲の異様な光景に目を奪われていた。
神崎の視線は、朽ち果てた装置の残骸で止まる。
すべてが「無」に帰されたその場を、静かに見つめていた。
表情は、驚愕から、深い考察へと変わっている。
藍の促しと、神崎の無言の視線に、紡はゆっくりと立ち上がった。
不穏な気配は消え失せているが、崩れかけた天井や、炭化した配線は、ここに何があったかを物語っていた。
三人は、神崎が持つ懐中電灯の光を頼りに、迷路のような地下通路を戻り始めた。
足元には、朽ちかけた紙の束が散乱している。紡が近くを通るたび、それらは脆く崩れ落ちていった。
長い通路を抜け、地上へと続く階段を上るにつれて、外の空気が肌に触れる。
ひどく蒸し暑い。
夜が明け始めているのか、遠くの空が僅かに白み始めていた。
研究所の外に出ると、そこには夜明け前の薄闇に包まれた、見慣れた町の風景が広がっていた。
紡にはその風景が、どこか違って見えた。
あの脅威が去ったことで、世界は何も変わっていないはずなのに、紡自身の認識が変わってしまったかのようだった。
林 耀の邸宅もまた、異様な状態になっていたと、神崎は無言で視線で伝えた。
まるで何十年も時間が進んだかのように、急速に荒廃していたという。
紡の力は、物理的な距離を超え、彼の存在と関連するものを「終わらせる」力を持っていたのだ。
林 耀からの脅威は、完全に消え去った。
それでも、紡の心は晴れなかった。
(林 耀は消えた。でも、私の「空っぽ」は……)
その時、紡のポケットから、静かに招待状が滑り落ちた。
白い紙片は、床の瓦礫の上に、何の変哲もないただの紙切れとして落ちた。
その存在は、この場で起こった超常的な出来事とは全く結びつかない。
藍が、その招待状に気づき、屈んでそっと拾い上げた。
「これ……紡の……? ボロボロだね、こんな紙切れ一つで何があったの……?」
藍が招待状に触れた瞬間、招待状から、再び微かな青白い光が放たれた。
それは、全てを飲み込むような激しい光ではない。
まるで、穏やかな呼吸のような、かすかな脈動だった。
その光は、藍の手のひらで優しく瞬き、彼女の戸惑いを溶かすかのように、ゆっくりと紡へと向けられた。
その光が、藍の手から紡の指先へと伝わった。冷え切った指先に、じんわりと温かさが広がる。
そして、紡の脳内に、招待状の「声」が、かつてないほど優しく、そして明瞭に響いた。
『「承認」とは、
「他者」からの「評価」ではない。
「自ら」の「存在」を「受け入れる」こと。
「空っぽ」は、
「真実」を「紡ぎ」、
「未来」を「照らす」器となる。』
招待状のメッセージが、紡の心にじんわりと確実に染み渡る。
「自らの存在を受け入れること」――。それが、紡が本当に求めていた「承認」の意味だったのか。
「真実を紡ぎ、未来を照らす器となる」――。それが、自身の「空っぽ」が持つ、真の役割。空虚な穴ではなく、あらゆる可能性を内包し、未来へと繋ぐための「器」なのだ。
紡は、招待状を見つめた。その光は、再び消えていた。
林 耀との戦いは、自身の「空っぽ」の意味を教えてくれた。それは、誰かに満たされることを待つ「穴」ではなく、様々な真実や可能性を受け入れ、未来へと繋ぐための「器」なのだと。
藍は、紡がぼんやりとしているのを見て、心配そうに紡の横にそっと座り込んだ。
その温かい手が、紡の冷えた手に、そっと触れる。藍の存在が、紡の心に、ゆっくりと確かな光を灯していく。
それは、林 耀が求める「再構築」ではない、純粋な「存在」の温かさだった。
神崎の視線が、紡へと向けられる。神崎の目は、多くを語らずとも、紡の持つ力と、紡が越えたものを理解しているようだった。林 耀が消えたこと、この研究が「無に帰した」こと、そして「欲望」という概念と「書」の存在は消え去っていないこと。
沈黙の中に、新たな課題への思いが滲んでいた。
夜明けの光が、研究所の廃墟に差し込み始めた。
この戦いは終わり、一つの幕が閉じた。
紡の「空っぽな承認欲求」を巡る物語は、ここから新たな「真実」を紡ぎ、自らの「器」を満たしていく、長い旅路の始まりだった。
(つづく)