目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第25話:残された光、新たな邂逅

光の粒子となって散り、虚空へと還った林 耀。

その存在が消え去った後、部屋には鉛のように重い静寂が訪れた。

つい先ほどまで狂気的な機械音と絶叫が響き渡っていた空間は、まるで何もなかったかのようにひっそりと息を潜めている。


紡は、その場に崩れ落ちたまま、ぼんやりと虚空を見つめていた。

掌の中の招待状は、もうまばゆい光も、脈打つ熱も失い、ただの白い紙片に戻っている。

薄暗い中でもその白さは際立ち、あまりにも非日常的で、現実感がない。


全身から力が抜け、へとへとになっていた。

身体の震えが止まらない。

だが、それ以上に、心に広がる底なしの虚無感が紡を支配していた。


あの狂気を止めた。


世界を「守護」した。


それは確かだ。


間違いなく、誰もが望むべき結果だったはず。


なのに、どうしてこんなにも心が満たされないのだろう?


自身の「空っぽ」は、本当にこれで満たされたのだろうか?

「終わらせた」ことの意味が、まだ紡の心には理解しきれていなかった。


周囲の光景は、紡の力の凄まじさを物語っていた。

林 耀の消滅と共に、起動寸前だった巨大な装置は急速に朽ち果て、見るも無残な鉄の塊と化している。壁に書き込まれていた複雑な数式や図形も、まるで時が何十年も早送りされたかのように、色褪せて崩れ落ちていた。


すべてが「無」へと帰された痕跡。


紡が持つ「死への渇望」が具現化した結果だった。


その時、閉ざされていた厳重な扉の向こうから、微かな足音が聞こえた。


それは一つではなく、複数だ。

疲弊しきった体と心に、再び警戒心がよぎる。

紡は、残された最後の力を振り絞るように、ゆっくりと顔を上げた。


地下研究室の通路の奥から、懐中電灯の光が、こちらへと向かってくるのが見えた。

その光は、暗闇の中で唯一の希望のように見えながらも、同時に新たな脅威を予感させた。


光は次第に近づき、やがて二つの人影が、その光の中に浮かび上がった。

その瞬間、紡の目が見開かれた。

そこに立っていたのは、何よりも待ち望んでいた、予想だにしなかった顔。


藍と神崎厳だった。


藍は、紡の姿を見つけると、目に涙を浮かべ、安堵と不安が入り混じった表情で駆け寄ってきた。

その顔には、煤と埃がついており、ここまで必死に走ってきたことが伺える。

息を切らせ、藍は紡の前に膝をついた。

温かい手が紡に差し伸べられる。

紡は反射的にその手を払いかけたが、藍は構わず、そっと紡の冷えた手に触れた。

その温もりが、紡の心をゆっくりと確かに解きほぐしていく。


神崎は、冷静さを保ちながらも、周囲の異様な光景に目を奪われていた。

神崎の視線は、朽ち果てた装置の残骸で止まる。

すべてが「無」に帰されたその場を、静かに見つめていた。

表情は、驚愕から、深い考察へと変わっている。


藍の促しと、神崎の無言の視線に、紡はゆっくりと立ち上がった。

不穏な気配は消え失せているが、崩れかけた天井や、炭化した配線は、ここに何があったかを物語っていた。


三人は、神崎が持つ懐中電灯の光を頼りに、迷路のような地下通路を戻り始めた。

足元には、朽ちかけた紙の束が散乱している。紡が近くを通るたび、それらは脆く崩れ落ちていった。


長い通路を抜け、地上へと続く階段を上るにつれて、外の空気が肌に触れる。

ひどく蒸し暑い。

夜が明け始めているのか、遠くの空が僅かに白み始めていた。

研究所の外に出ると、そこには夜明け前の薄闇に包まれた、見慣れた町の風景が広がっていた。


紡にはその風景が、どこか違って見えた。

あの脅威が去ったことで、世界は何も変わっていないはずなのに、紡自身の認識が変わってしまったかのようだった。


林 耀の邸宅もまた、異様な状態になっていたと、神崎は無言で視線で伝えた。

まるで何十年も時間が進んだかのように、急速に荒廃していたという。

紡の力は、物理的な距離を超え、彼の存在と関連するものを「終わらせる」力を持っていたのだ。

林 耀からの脅威は、完全に消え去った。


それでも、紡の心は晴れなかった。

(林 耀は消えた。でも、私の「空っぽ」は……)


その時、紡のポケットから、静かに招待状が滑り落ちた。

白い紙片は、床の瓦礫の上に、何の変哲もないただの紙切れとして落ちた。

その存在は、この場で起こった超常的な出来事とは全く結びつかない。


藍が、その招待状に気づき、屈んでそっと拾い上げた。


「これ……紡の……? ボロボロだね、こんな紙切れ一つで何があったの……?」


藍が招待状に触れた瞬間、招待状から、再び微かな青白い光が放たれた。

それは、全てを飲み込むような激しい光ではない。

まるで、穏やかな呼吸のような、かすかな脈動だった。

その光は、藍の手のひらで優しく瞬き、彼女の戸惑いを溶かすかのように、ゆっくりと紡へと向けられた。


その光が、藍の手から紡の指先へと伝わった。冷え切った指先に、じんわりと温かさが広がる。

そして、紡の脳内に、招待状の「声」が、かつてないほど優しく、そして明瞭に響いた。


『「承認」とは、

「他者」からの「評価」ではない。

「自ら」の「存在」を「受け入れる」こと。


「空っぽ」は、

「真実」を「紡ぎ」、

「未来」を「照らす」器となる。』


招待状のメッセージが、紡の心にじんわりと確実に染み渡る。

「自らの存在を受け入れること」――。それが、紡が本当に求めていた「承認」の意味だったのか。

「真実を紡ぎ、未来を照らす器となる」――。それが、自身の「空っぽ」が持つ、真の役割。空虚な穴ではなく、あらゆる可能性を内包し、未来へと繋ぐための「器」なのだ。


紡は、招待状を見つめた。その光は、再び消えていた。

林 耀との戦いは、自身の「空っぽ」の意味を教えてくれた。それは、誰かに満たされることを待つ「穴」ではなく、様々な真実や可能性を受け入れ、未来へと繋ぐための「器」なのだと。


藍は、紡がぼんやりとしているのを見て、心配そうに紡の横にそっと座り込んだ。

その温かい手が、紡の冷えた手に、そっと触れる。藍の存在が、紡の心に、ゆっくりと確かな光を灯していく。


それは、林 耀が求める「再構築」ではない、純粋な「存在」の温かさだった。


神崎の視線が、紡へと向けられる。神崎の目は、多くを語らずとも、紡の持つ力と、紡が越えたものを理解しているようだった。林 耀が消えたこと、この研究が「無に帰した」こと、そして「欲望」という概念と「書」の存在は消え去っていないこと。

沈黙の中に、新たな課題への思いが滲んでいた。


夜明けの光が、研究所の廃墟に差し込み始めた。

この戦いは終わり、一つの幕が閉じた。


紡の「空っぽな承認欲求」を巡る物語は、ここから新たな「真実」を紡ぎ、自らの「器」を満たしていく、長い旅路の始まりだった。



(つづく)

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?