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第26話:揺らぐ日常、秘められた真実

天響研究所、地下研究室の入り口は、既に警察と特殊部隊によって厳重に封鎖されていた。

まるで巨大な獣が暴れた後のように、地表には深い亀裂が走り、周囲の木々は焦げ付いたように枯れている箇所もある。


地下での出来事が何一つ知らされないまま、多くの規制線が張り巡らされ、物々しい雰囲気が辺りを覆っていた。

夜が明けきらない薄明かりの中、パトランプの赤い光だけが不規則に点滅し、異常事態を告げていた。遠くから、救急車のサイレンが断続的に聞こえてくる。


紡は、藍と神崎と共に、騒ぎの中心から離れるようにして研究所の裏手から脱出した。

藍は紡の腕をしっかりと支え、その震える体を気遣っている。

紡の頬には煤がつき、髪は乱れ、服はところどころ破れていた。

激しい戦いの跡が生々しく残っている。


「本当に、大丈夫なの、紡?」

藍の声には、目の前の友人を心配する純粋な響きがあった。


林 耀の消滅、そしてあの地下の惨状を、藍は言葉で理解しきれないまでも、紡がどれほどのものを経験したのかを直感していた。

藍の視線は、紡の顔から、時折ちらりと見える掌へと向けられた。

そこには、うっすらとだが、招待状を強く握りしめた跡が残っているようだった。


神崎は、どこか遠くを見つめるようにして空を仰いだ。

夜明けの空は、まだ漆黒の闇と、薄いグレーのグラデーションが混じり合っている。

神崎の表情は複雑で、安堵と、そして深い思索が混じり合っているようだった。

無言で、自身のスマートフォンを取り出し、素早く何かを操作している。

その指の動きには一切の無駄がなく、慣れた手つきだった。

「彼の消滅は、世界に大きな混乱をもたらすでしょう。

これは避けられなかった結末です。」

まるで全てを予見していたかのようだった。

その声には、冷徹さの中に、どこか諦めにも似た響きが混じっていた。


林 耀が光の粒子となって消え去ったことで、彼の計画の余波は現実世界に顕著に現れ始めていた。


警察無線からは、林 耀の邸宅だけでなく、彼が運営していた複数の関連施設が、夜明けと共に急速に老朽化し、崩壊寸前の状態になっているという報告が絶えず流れてくる。


テレビやネットニュースでも、不自然な建造物の崩壊を伝える速報が流れ始めていた。

紡が「終わらせる」力を発動させた影響が、彼の存在に深く結びついていた全ての物に、物理的な距離をも超えて及んだのだ。


「あれほど強固な建築物が、一晩で廃墟と化すとは……彼の執着の深さ、それを『無』に帰す力の恐ろしさ……」

神崎は呟いた。

彼の視線は、再び紡へと向けられる。

その瞳には、畏怖と、そして探求の光が宿っていた。

その力は、あまりにも強大で、あまりにも危険。

同時に、あまりにも魅力的だと、彼の目が語っていた。


紡は、神崎の視線から逃れるように顔を伏せた。

あの者を消滅させたこと。

その圧倒的な力の行使。

それは確かに世界を守ったが、紡の心には、まだその重さが深くのしかかっている。

心の奥底の「空っぽ」は、満たされたどころか、より深く、その底を見せているかのようだった。

まるで、巨大な穴が、自分の内にぽっかりと空いているような感覚。

この穴は、何をすれば本当に埋まるのだろうか。


「小鳥遊さん。これから、私と共に来ていただきたい。」

神崎が、静かに紡に語りかけた。

有無を言わせぬ強い意志を秘めていた。

「あなたは今、彼が到達しようとした、そして藍沢博士が真に目指した『欲望の地図』の『本物の導き手』となった。

その力は、世界の均衡を大きく左右するものです。

私には、あなたを導き、その力を理解し、正しく使うための役割があります。」


紡は顔を上げた。

彼の言葉は、まるでこれまで知らなかった世界の裏側へと誘うかのようだった。


神崎は、藍沢博士の研究、「招待状」にまつわる秘密を全て知っているようだった。

言葉の端々からは、紡が知り得ない、この世界の隠された秩序や組織の存在が垣間見えた。


藍が、不安げに神崎を見た。彼女の瞳には、友人を守りたいという強い決意が宿っている。「神崎さん、紡をどこへ連れていくつもりですか?また、危険な場所へ?」藍は、紡を前にして、初めて神崎に反発するような声を出した。


神崎は、藍に向き直り、静かに答えた。

「危険がないとは言えません、藍さん。

むしろ、これまでの比ではないほどの危険を伴うかもしれません。

彼女の持つ力は、もう普通の生活に戻れるレベルのものではない。

私には、彼女を守る義務があります。

これは、私の、私の属する組織の使命でもある。」

神崎の言葉は、藍の不安を完全に打ち消すものではなかったが、その真剣な響きは、彼が紡を道具として見ているわけではないことを示唆していた。


その言葉に、藍は複雑な表情を浮かべた。

紡の顔から、あの極限状態の疲弊が少しずつ薄れ、何かを受け入れるような、あるいは決意のような色が宿り始めているのを藍は感じ取っていた。

藍自身も、紡がもう普通の日常には戻れないことを、薄々悟っていたのかもしれない。


紡は、ポケットの中の招待状を握りしめた。

もう光も熱も発しないその紙片は、まるで新たな旅の始まりを告げる羅針盤のように感じられた。指先が、紙片の縁をなぞる。

そこには、確かに自分の意思で選んだ痕跡が残っている。


(私の「空っぽ」は、まだ満たされていない。

でも、これからは、誰かに満たされるのを待つんじゃない。

私が、私自身を……)

招待状の最後のメッセージが、脳裏で反響する。


『「承認」とは、「自ら」の「存在」を「受け入れる」こと。』

そして、

『「空っぽ」は、「真実」を「紡ぎ」、「未来」を「照らす」器となる。』


紡は、あの者を「終わらせた」力だけでなく、その内側に秘められた「器」としての可能性に気づき始めていた。

「空っぽ」は、誰かの期待を満たすためのものではなく、自身の真の欲望を受け入れ、この世界の真実と向き合い、新たな未来を創造するための「空間」だったのだ。


それは、決して満たされることのない「欠陥」ではなく、無限の可能性を秘めた「余白」なのかもしれない。


夜明けの光が、研究所の廃墟の向こうから、ゆっくりと世界を照らし始めた。

その光は、瓦礫の山となった建物を照らし、新たな一日の始まりを告げていた。

あの者との戦いは終わり、一つの大きな幕が下ろされた。


紡の「空っぽな承認欲求」を巡る物語は、ここから自身の「器」を満たし、この世界の「真実」を紡ぎ、「未来」を照らすための、長く、そして深く掘り下げられた旅路が始まるのだった。


(つづく)

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