天響研究所を後にした紡、藍、神崎の三人は、夜明け前の薄闇の中、神崎が手配した一台の黒い車両に乗り込んだ。
車は音もなく滑るように走り出し、アスファルトの路面を静かに進む。
窓の外には、遠ざかる研究所のシルエットと、点滅するパトランプの赤い光が小さくなっていく。
車内は静寂に包まれていた。
林 耀の消滅という非日常の極みが過ぎ去ったばかりだというのに、現実世界はゆっくりと確実にその余波を受け始めていた。
神崎が操作するタブレット端末からは、刻一刻と変化する速報が流れている。
神崎は、タブレットの画面を紡に見せた。
そこに表示されていたのは、林 耀の顔写真と、その横に書かれた「行方不明」の文字。
「林 耀は、世界の法則から完全に『消滅』しました。彼の肉体も、存在した証も、すべてが塵となって消えた。警察や政府には『行方不明』として処理されていますが、我々のデータベースからは、彼の存在自体が失われたことが確認されている。」
神崎の声は低く、淡々としていた。
その言葉に、紡は息をのんだ。
林 耀を「終わらせた」という実感はあった。
だが、それが、彼の存在そのものを世界から消し去るほどの力だったとは……。
別のタブレットの画面には、ニュース速報が流れていた。
『速報:大手IT企業「ヘイブン」がサーバーダウン、データの一部が完全に消失か』
『各地で発生した建築物の同時多発的な老朽化、警察が関連性を捜査』
画面の文字を追う紡に、神崎はさらに続けた。
「彼の所有する資産の同時多発的な崩壊は、もはや隠しきれません。
速報では『大規模なデータ破損と、それに伴う物理的な老朽化』と発表されていますが、林耀の所有する金融資産、企業、そして一部の物理的な施設までが、ほぼ同時に存在を『消滅』させつつあります。世界中の経済システムに、既に大きな影響が出始めている。」
紡の心に重く響いた。
自分の力が、世界の常識を揺るがしている。
その実感は、まだ薄い不安の膜のように彼女を包んでいた。
(林耀は消滅した……でも、その影響が、こんなにも世界に及んでいる。私は、本当に正しいことをしたのだろうか……)
この力は、これから何を引き起こすのだろうか。
藍は、隣に座る紡の手をそっと握った。
その温かさが、紡の思考の渦を一時的に静める。
「紡、神崎さんの言うこと、よくわからないけど……でも、紡が世界を守ってくれたんでしょ?
きっと大丈夫だよ。」
藍の言葉は、単純で紡の心を強く支えた。
純粋な信頼が、紡の内に揺らぎ始めた自己の存在意義に、かすかな光を当てていた。
(藍は、何も変わらない……。私のこの力を、私のことを、信じてくれる……)
やがて車は、都心から離れた郊外へと向かっていた。
窓外の景色は、高層ビル群から、やがて緑豊かな丘陵地帯へと変わっていく。
車は人里離れた森の中にひっそりと佇む、一見すると普通の民家のような建物へと到着した。
その建物の周囲には、目に見えない厳重なセキュリティが張り巡らされているのが、神崎の仕草や周囲の気配から見て取れた。
「ここです。外界からは認識されにくいようになっています。」
神崎は、車を降りながら言った。
「ここでは、あなたが持つ力の真実、『欲望の地図』の全てを解明できます。
もちろん、あなたの『空っぽな承認欲求』を『器』として満たすための手助けも。」
建物の中は、外観とは似ても似つかない、広大で近代的な空間が広がっていた。
最先端の分析装置が並び、壁には複雑な数式や、藍沢博士の研究室で見かけたような紋様がホログラムで投影されている。
ここは、まさしく秘密の研究施設だった。
紡は、足を踏み入れた瞬間に、空気の質が変わったのを感じた。
この場所全体が、自身の「空っぽ」な部分と共鳴しているかのように、心地よさと共に得体の知れない感覚がする。
「藍さんは、隣の居住スペースで休んでください。
小鳥遊さんのサポート役として、しばらく滞在してもらうことになります。」
神崎が藍に指示を出した。
藍は少し驚いた顔をしたが、紡の横を離れることはなかった。
「私も、紡と一緒にここにいる。紡が一人で不安にならないように。」
藍の強い意志に、神崎はわずかに目を細めたが、何も言わずに頷いた。
紡は、神崎に導かれるまま、中央にある大きな円卓へと歩み寄った。
円卓の表面には、先ほどまで神崎のタブレットに表示されていた「欲望の地図」が、立体的なホログラムとして浮かび上がっている。
それは、複雑な幾何学模様と、無数の光の点が結びつき、まるで生きた脈絡のように輝いていた。
「これは、人の『欲望』を視覚化したものです。それを『昇華』させるための道筋を示している。」
神崎が、ホログラムの地図を指し示した。
「藍沢博士は、これを完成させようとしていました。この地図を『魂の羅針盤』と呼んでいました。」
神崎の言葉は、林 耀が語っていた「空虚な再構築」とは全く異なる、生命の尊厳を尊重する思想に基づいていた。
藍沢博士の真の目的が、彼の持つ力を歪んだ形で利用しようとした林 耀の思想とは真逆であったことを、紡は改めて知った。
「あなたの『器』は、この『欲望の地図』を受け入れ、世界の歪みを正す唯一の力となるでしょう。あなたの『死への渇望』は、不要なものを『無』に帰し、新たな『秩序』を生み出すためのものです。」
神崎の言葉は、紡の能力を具体的な意味へと昇華させていく。
(「死への渇望」は、不要なものを無に帰し、新たな秩序を生み出すためのもの……)
林 耀を消滅させたあの力が、破壊ではなく、新たな創造のための力だというのか。
紡は、そっとホログラムの地図に手を伸ばした。
触れると、地図の光が、紡の指先に反応するように脈動した。
まるで、地図が紡を「導き手」として認識しているかのようだ。
その時、紡の脳裏に、再び招待状の「声」が響いた。
『「器」は、「真実」を「受け入れ」、
「欲望」を「昇華」させる。
「終わり」は、「始まり」を告げ、
「空白」は、「可能性」を拓く。』
招待状のメッセージが、紡の心に深く刻まれていく。
林 耀を「終わらせた」こと。
それは「終わり」であると同時に、自身の「空っぽ」が「可能性」を拓く「始まり」だったのだ。
「この地図は、世界中の人々の無意識の欲望と繋がっています。その欲望が歪んだ時、世界に異常をきたす。林 耀はその歪みを『再構築』しようとしましたが、あなたはそれを『浄化』し、『昇華』させることができる。」
神崎は、真剣な眼差しで紡を見つめた。
「あなたの『器』は、この『欲望の地図』を通して、世界の歪みを感知し、それを正すことができる唯一の存在なのです。」
紡の心に、新たな使命感が芽生え始めていた。
林 耀を倒しただけでは満たされなかった「空っぽ」が、この「欲望の地図」と、自身の能力の真の意味を知ることで、少しずつ埋まっていく感覚があった。
それは、他者からの承認ではなく、自分自身の存在意義を見出す喜びだった。
窓の外は、すでに朝日に染まり、新しい一日の光が降り注いでいた。
林 耀との戦いは、確かに終わりを告げた。
紡の「空っぽな承認欲求」を巡る物語は、ここから「器」として世界の真実を受け入れ、自身の力で「未来」を紡いでいく、長く壮大な旅路へと踏み出すのだった。
(つづく)