神崎が手配した秘密施設での生活が始まった。
外観とは裏腹に、内部は最新鋭の設備が整い、広々とした空間が広がっている。
紡は、ここで自身の能力、そして「欲望の地図」について学ぶ日々を送ることになった。
藍もまた、紡の隣で、慣れない環境ながらも懸命に紡を支えようとしていた。
施設の中央に鎮座する「欲望の地図」のホログラムは、常に微かな光を放ち、紡の視界の隅で脈動している。
それは、世界中の人々の無意識の欲望が複雑に絡み合い、視覚化されたものだと神崎は説明した。地図上の光の点や線の動きは、まるで生き物のようだった。
「この地図は、世界の『
神崎は、真剣な表情で紡に語りかける。
彼の指が、ホログラム上のいくつかの赤い光の点を示した。
「林 耀が消滅したことで、一時的に大きな歪みは収まりました。
支配によって抑圧されていた、あるいは増幅されていた小さな歪みが、今、表面化し始めています。」
神崎の説明によれば、林 耀は自身の支配欲によって人々の欲望をコントロールし、「欲望の地図」に意図的に歪みを生じさせていたという。
彼がいなくなったことで、その歪みが一時的に解放された結果、新たな問題として顕在化しているのだ。
紡は、地図上の赤い点に意識を集中させた。
すると、その点がまるで脈打つかのように膨張し、紡の心臓が不規則に鼓動するのを感じた。
その鼓動は、地図が示す「歪み」と共鳴しているかのようだった。
「これは……人々の、苦しみ……?」
紡は、地図から伝わってくる感覚に、思わず目を閉じた。
それは、怒り、悲しみ、そして満たされない渇望が入り混じった、複雑な感情の波だった。
「そうです。それが、世界の歪みです。そして、あなたの『器』は、それを感知し、浄化する能力を持っている。」
神崎の言葉は、紡の能力の新たな側面を明確にした。
紡は、自身の「空っぽな承認欲求」が、単なる欠陥ではなかったということを、少しずつ理解し始めていた。
それは、他者の感情や欲望を吸収し、それを「浄化」し、「昇華」させるための「器」だったのだ。林 耀はそれを「再構築」という形で利用しようとしたが、藍沢博士の真の目的は、その「器」を通して、人々の欲望を「昇華」させ、世界を調和させることだった。
施設での訓練は、多岐にわたった。
神崎は、紡に「欲望の地図」との同調の仕方、そして自身の「死への渇望」の力を、破壊ではなく「浄化」として制御する方法を教え込んだ。
当初は、自身の力が周囲のものを朽ちさせてしまうことに戸惑いを隠せなかった紡だが、藍の献身的なサポートと、神崎の冷静かつ的確な指導により、少しずつ能力をコントロールできるようになっていった。
「『拒絶』は、『無』への回帰を促す力。しかし、『受容』は、『浄化』へと導く力です。」
神崎の言葉は、深い意味を含んでいた。
紡が林 耀を消滅させたのは、彼の狂気を「拒絶」した結果だった。
世界の歪みを「浄化」するためには、その歪みを一旦「受容」し、自身の「器」の中で変容させる必要があるのだと。
紡は、瞑想のように目を閉じ、自身の内なる「空っぽ」に意識を集中させた。
その「空っぽ」は、以前のような不安や虚無感ではなく、無限の広がりを持つ、澄んだ空間のように感じられた。
そこに世界の全ての感情を受け入れることができるかのように。
外界では、林 耀の消滅によって引き起こされた混乱が、徐々に収束しつつあった。
彼の所有していた財産は凍結され、関連企業は急速に解体されていった。
政府や関係機関は、一連の異常な事態の解明に追われていたが、超常的な現象の真相は、ごく一部の者にしか知らされないまま、公式には大規模なテロ活動として処理されていく。
藍は、紡が訓練に励む傍らで、外界の情報を集めていた。
神崎から渡された専用端末で、インターネットやニュースをチェックし、社会の動向を紡に伝えていた。
「林 耀さんのことが、どんどん過去の出来事になっていくね……。でも、世界は、まだ何か、変な感じがするよ。」
藍は、地図上の赤い光の点が増えていることを、感覚的に察知していた。
紡もまた、日を追うごとに、地図上の赤い点の数が増えていくのを感知していた。
林 耀という巨大な悪が消えたことで、一時的に世界の表面は落ち着いたが、その裏では、人々の中に潜む小さな「歪み」が、嵐の前の静けさのように、じわじわと広がり始めていたのだ。
ある日の夜、紡は「欲望の地図」に深く同調していた。
地図上の無数の光の点が、まるで紡の神経と直結しているかのように感じられる。
その中に、ひときわ大きく、強く脈動する赤い点があった。
それは、これまで感知したことのない、強烈な「歪み」を放っていた。
紡の全身に、
それは、特定の個人や集団から発せられる欲望の歪みとは異質だった。
世界そのものに刻まれた、根源的な「渇望」のような、途方もないスケールのものだった。
(これは……一体……?)
その時、神崎が紡の隣に静かに立っていた。
彼の視線もまた、地図上のその大きな赤い点へと向けられている。
「……ついに、表面化しましたか。」
神崎の声には、諦めにも似た深い決意が滲んでいた。
「これは……何ですか?」
紡は、震える声で尋ねた。
神崎は、ゆっくりと答えた。
「これは、人類が誕生して以来、常に抱えてきた、満たされることのない、根源的な『欠落』です。その『欠落』が、今、世界の『均衡』を崩そうとしている。林 耀ですら、その存在に気づいていたかは定かではない。」
神崎の言葉に、紡の心臓は激しく波打った。
自身の「空っぽな承認欲求」が、この世界の「欠落」と共鳴しているかのようだった。
林 耀との戦いは、ほんの序章に過ぎなかったのかもしれない。
紡の「器」は、今、真に満たされるべき、
そして真に受け入れるべき「世界の歪み」と、その根源的な「欠落」の存在を感知し始めていた。
夜が明け、新たな一日が始まる。
紡の「満たされる器」の旅は、ここから世界の根源に迫る、真の試練へと突入しようとしていた。
(つづく)