秘密施設の一室で、紡は「欲望の地図」のホログラムを前に、深く集中していた。
地図の中心で脈打つ、ひときわ大きく強烈な赤い点。
それは、個人の歪みとは比較にならない、世界そのものに刻まれた「根源的な欠落」だと神崎は語っていた。
その感覚は、まるで自身の「空っぽ」と直接繋がっているかのように、紡の心臓を不規則に打ち鳴らしていた。
「この『欠落』は、人類の歴史と共に存在してきたものです。」
神崎の声が、静かに響く。
ホログラム上の地図を操作し、地球全体を俯瞰するような視点へと切り替えた。
無数の光の点が織りなす網目の中で、いくつかの地域が暗く、赤く染まっているのが見える。
「それは、特定の時代、特定の場所で、人々の集合的な無意識が生み出してきた『欲望の歪み』の滞りのようなものです。争い、飢餓、差別……それら全てが、この『欠落』に吸い込まれ、増幅されてきた。」
神崎の説明は、まるで世界の歴史を別の角度から見せられているようだった。
林 耀が操ろうとした「欲望の地図」は、こんなにも深い意味を持っていたのか。
彼の試みは、この根源的な「欠落」を自らの手で「再構築」し、支配しようとする狂気だったのかもしれない。
「林 耀が消滅したことで、一時的にその活動は沈静化しました。
彼は、この『欠落』の存在に気づき、それを自身の支配欲を満たすための『器』として利用しようとしていた形跡があります。」
神崎の表情は、どこか苦渋に満ちていた。
林 耀の狂気が、想像以上に深い根を持っていたことを示していた。
紡は、地図上の赤い点が、まるで黒い影を伴っているかのように見えることに気づいた。
その影は、地図のあちこちに不規則に広がり、触れた光の点を徐々に蝕んでいくかのようだった。
「この影は……何ですか?」
紡は、思わず尋ねた。
「それは、『欠落』が具現化した、世界の『病理』です。」
神崎は答えた。
「『欠落』に深く蝕まれた地域では、不可解な事件や災害が多発しています。
人々の憎悪や絶望が異常な形で表出したり、自然現象が通常では考えられない規模で発生したり……」
神崎は、タブレット端末を操作し、いくつかのニュース映像を紡に見せた。
そこには、突然の集団ヒステリー、理不尽な暴動、科学では説明のつかない異常気象の映像が映し出されていた。
それらの現象は、互いに無関係に見えて、地図上の赤い点の周辺で発生していることが、紡には直感的に理解できた。
「私たちは、これまでこれらの現象を個別の事件として対処してきましたが、根本的な解決には至りませんでした。あなたの『器』ならば、この『欠落』に直接働きかけ、その『病理』を浄化することができるかもしれない。」
神崎の瞳は、紡に強い期待を寄せていた。
紡は、自身の内に広がる「空っぽ」な空間に意識を集中した。
そこは、以前の不安や虚無感に満ちた穴ではなく、静かで広大な「器」として存在している。
その「器」が、地図上の「欠落」の影と共鳴し始めているのを感じた。
その影を吸い込み、変容させることができるかのように。
「私の……この力が……」
紡の声は、まだ戸惑いを隠せない。
破壊の力として使った林 耀の「終わらせる」力。
それが、今度は世界の「病理」を「浄化」する力へと変わるというのか。
その時、藍が静かに紡の隣に歩み寄った。
神崎が見せた衝撃的な映像を、紡と同じように見ていた。
「紡……大変なことになってるんだね、世界が……。
でも、紡がいるなら、きっと……」
藍は、紡の手をそっと握りしめた。
その温かさは、どんな恐怖も打ち消してくれるかのように、紡の心を支えた。
「あなたの『器』は、『拒絶』によって歪みを『終わらせる』だけでなく、今度は『受容』によって歪みを『浄化』し、『昇華』させることが求められます。
それは、林 耀が果たせなかった、そして藍沢博士が真に目指した境地です。」
神崎は、紡の目を真っ直ぐに見つめた。
「あなたは、この世界の根源的な『欠落』と向き合い、それを乗り越えることができる唯一の存在なのです。」
紡は、自身の「空っぽ」が、まさにこの「欠落」を受け入れ、満たすための「器」として存在しているのだと理解し始めていた。
それは、他者に満たされることを渇望していた過去の自分とは、全く異なる存在意義だった。
この「欠落」こそが、自分の「空っぽ」を満たす「真の渇望」だったのかもしれない。
神崎は、ホログラム上の最も大きく脈動する赤い点、つまり世界の「欠落」の中心の一つを指し示した。
「最初の試練は、ここです。
この場所で、強烈な『病理』の兆候が観測されています。」
地図上には、ある大都市の郊外が示されていた。
そこは、紡が普段生活している場所からは遠く離れた、見知らぬ土地だった。
紡は、深呼吸をした。
もう、怯える自分はいない。
自身の「空っぽ」は、世界の「欠落」と共鳴し、それを満たすための「器」として、今、覚醒しようとしていた。
夜明けの光が、秘密施設の窓から差し込み、ホログラムの地図を照らしている。
紡の「満たされる器」の旅は、ここから世界の根源に迫る、真の試練へと突入しようとしていた。
(つづく)