秘密施設の一室で、夜明けの光が「欲望の地図」のホログラムを照らしている。
地図の中心で脈打つ、ひときわ大きく強烈な赤い点。
神崎が指し示したのは、とある大都市の郊外にある、古い住宅街の一角だった。
そこが、今回の「病理」の発生源。
「ここは、かつて活気のあった地域でしたが、ここ数年で急激に人口が減少し、犯罪率が異常なほど高まっています。
住民の間に、得体の知れない不安や攻撃性が蔓延していると。」
神崎は、冷静な声で説明した。
その言葉の裏には、過去の調査では解決できなかった事態への、彼自身の焦りのようなものが滲んでいた。
紡は、地図上のその赤い点を凝視した。
神崎の言葉だけでは理解できない、具体的な「苦しみ」や「憎悪」の感覚が、地図から直接心に流れ込んでくる。
自分自身がその感情の渦の中にいるかのようだった。
「これは……人々の、絶望……?」
紡の心臓は、共鳴するように激しく打ち鳴らされる。
その場にいないはずの感情が、あまりにも鮮明に伝わってくることに、戸惑いを隠せない。
「その通りです。それが『欠落』に吸い込まれた人々の負の感情が『凝り』となり、周囲に病理として広がりを見せている状態です。」
神崎は頷いた。
「あなたの『器』ならば、その『凝り』を感知し、浄化できるはずです。
ただし、林 耀を『終わらせた』時とは異なり、今回は『拒絶』ではなく、『受容』によって『浄化』を行う必要があります。」
『受容』。
それは、紡にとって未知の感覚だった。
これまで「死への渇望」の力は、無意識のうちに「拒絶」と結びつき、対象を「無に帰す」ことに特化していた。
今、求められているのは、世界を「破壊」から救う「浄化」の力だ。
藍は、紡の隣に立ち、その顔を心配そうに覗き込んでいた。
「紡、無理しないでね。怖いと思ったら、すぐに言って。」
藍の優しい声が、紡の緊張を和らげる。
「大丈夫……」
紡は、震える声で答えた。
この「浄化」が、自身の「空っぽ」を満たすため、この世界の「歪み」を正すための、最初の大きな一歩となることを理解していた。
翌日の未明、三人は目的地である住宅街へと到着した。
薄暗い空の下、家々はひっそりと佇んでいるが、その空気は異常だった。
どこかから聞こえる、不気味な囁き声のような音。
道端には、不自然に朽ちた植物や、ひび割れた壁の家が点在している。
活気の代わりに、重苦しい閉塞感が漂っていた。
「住民は避難させてあります。完全には対処できていません。」
神崎が簡潔に状況を説明する。
彼の組織も、この「病理」が持つ不可解な性質に苦慮していることが伺えた。
紡は、藍に手渡された白い手袋を嵌めた。
力を制御するための特製の手袋だが、これまでの「破壊」の力とは違う、「浄化」の力を扱うことに、心臓は高鳴っていた。
「『欲望の地図』が示す中心は、あの廃屋です。」
神崎が指差したのは、特に荒廃が激しい一軒の家だった。
窓ガラスは全て割れ、壁には不気味な染みが広がっている。
その家自体が、負の感情を吸い尽くして枯れたかのようだった。
紡は、藍と共にその廃屋へと足を踏み入れた。
内部は、外観以上に荒れ果てていた。
家具は破壊され、床にはゴミが散乱している。
カビの臭いと、埃っぽさが鼻につく。
何よりも、その空間を満たす、言葉にできないほどの憎悪と絶望の『凝り』が、紡の心に直接迫ってきた。
(これは……人々が、互いに向け合った、負の感情……)
紡は、目を閉じ、自身の「空っぽ」な「器」に意識を集中させた。
招待状が語りかけた「受容」の意味を、必死に探る。
破壊するためではない。
飲み込み、変容させるために。
紡が、そっと掌を廃屋の中心に向けた。
その瞬間、廃屋全体が、紡の心の中の「器」と共鳴し始めた。
目には見えない、確かに存在する負の感情の「凝り」が、紡の掌へと吸い込まれていくのを感じる。
それは、冷たく、重く、そして吐き気を催すような感覚だった。
「うっ……!」
紡は、思わず
過去の負の感情が、濁流のように押し寄せてくる。
他者への嫉妬、裏切り、そして自らへの後悔……。
それらの感情が、紡自身の「空っぽ」な部分を満たし、心をかき乱す。
藍が、紡の異変に気づき、慌てて紡の肩に手を置いた。
「紡!? 大丈夫!?」
神崎は、廃屋の外から、紡の様子をじっと見守っていた。
紡の身体から放たれる微かな光と、廃屋の周囲の空気が、ゆっくりとだが確実に変化しているのを捉えていた。
紡は、押し寄せる感情の波に耐えながら、心の中で叫んだ。
(私は……「器」だ!全てを受け入れる……!そして、これを……!)
紡の心に、招待状のメッセージが蘇る。
『「空っぽ」は、「真実」を「紡ぎ」、「未来」を「照らす」器となる。』
吐き気に耐え、全身の力を込めて、紡は自身の「器」の中で、吸収した負の感情を「昇華」させようと試みた。
濁った水を濾過するかのように、感情の「凝り」が、紡の内でゆっくりと透明に、そして温かい光へと変わっていく。
廃屋を覆っていた重苦しい空気が、ゆっくりと確実に晴れていくのが感じられた。
壁に広がっていた不気味な染みが薄れ、朽ちた家具からは僅かに生気が戻るような錯覚を覚える。消滅させた時のような破壊的な変化ではない。
静かで、確かな「浄化」の過程だった。
やがて、紡の身体から力が抜け、膝から崩れ落ちた。
顔には汗が滲み、呼吸は乱れている。
その顔には、安堵と、わずかな達成感が浮かんでいた。
廃屋を満たしていた負の感情の「凝り」は、完全に消え去っていた。
代わりに、そこには、どこか穏やかな、澄んだ空気が漂っている。
神崎は、廃屋の中へと足を踏み入れた。
空間の澄んだ空気と、わずかに生気を取り戻したかのような廃屋の様子を見て、静かに頷いた。
「成功です、小鳥遊さん。あなたは、この世界の『病理』を浄化する、最初の『器』となりました。」
藍が、紡を抱き起こした。
「紡、すごい……!本当に、良くなったみたい……!」
藍の言葉に、紡は小さく頷いた。
他者の評価や存在で埋めようとしていた自身の「空っぽ」が、実はもっと深く、自己受容という本質的な課題を抱えていたことを突きつけられる始まりに過ぎなかった。
紡の「満たされる器」の旅は、ここから世界の根源的な歪みと向き合い、それを浄化していく、長く、そして困難な道のりへと踏み出したのだった。
(つづく)