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第31話:浄化の波紋、深まる器の力

秘密施設に戻った紡は、浄化を終えたばかりの心身の疲労に深く沈み込んでいた。


廃屋の負の感情の「凝り」を吸収し、浄化する過程は、想像を絶するほど過酷だった。

吐き気に似た感覚と共に、他者の絶望や憎悪が押し寄せ、自身の「空っぽ」を満たそうとするたび、精神は引き裂かれるようだった。


夜には、浄化中に触れた無数の負の感情が、悪夢となって紡を襲った。

誰かの悲痛な叫び声、後悔の念、憎しみの視線……目覚めてもなお、その残滓が肌にまとわりつくような不快感。


藍は、浄化を終えて戻った紡の憔悴しょうすいしきった姿を見て、すぐにその異変に気づいた。

「紡!大丈夫!?顔色が真っ青だよ!」

藍は、紡の傍らに駆け寄り、その冷たい手をそっと握った。

何も言わずに、紡の額に滲む汗を拭い、濡らしたタオルを首筋にあてた。

その温もりが、辛うじて紡を現実へと引き戻す。


神崎は、冷静な面持ちで紡の様子を観察していた。

紡の苦痛を理解しつつも、それが「器」としての成長に不可欠な過程であると見極めているかのようだった。


「無理もないでしょう。今回浄化した『凝り』は、特定の個人ではなく、集合的な無意識が長年にわたって蓄積した負の感情の残滓です。それを自身の『器』で受け入れたのですから。」

紡が成し遂げたことの大きさを物語っていた。


横になった紡の脳裏には、廃屋で感じた感情の嵐が鮮明に蘇っていた。

それは、ただの苦痛ではなかった。

怒り、悲しみ、絶望のその奥に、かろうじて残された、微かな「渇望」の輝きがあったのだ。


それは、満たされなかった「承認」への叫び、あるいは、失われた「繋がり」への切望。


(私と同じ……)


その「渇望」が、自身の「空っぽな承認欲求」と共鳴したとき、紡の内に「浄化」の道筋が見えたのだ。

他者の感情をただ破壊するのではなく、その根底にある「渇望」を受け入れることで、負の「凝り」を昇華させる。


それが、「器」の真の役割だった。


数日間の休息の後、紡は再び「欲望の地図」と向き合っていた。

以前と比べて、地図上の光の点の動きが、より鮮明に立体的に感じられる。

地図の示す「歪み」の場所や性質が、はっきりと心に直接響いてくるかのようだった。


「浄化を行ったことで、あなたの『器』は、より深く『欲望の地図』と接続されました。」

神崎は、紡の横に立ち、ホログラムの地図を指し示した。

「『根源的な欠落』は、一つではありません。世界には、様々な形で『凝り』が形成され、新たな『病理』を生み出しています。あなたは今、それらを感知し、浄化する力を手に入れました。」


地図上には、以前の赤い点とは異なる、新たな歪みがいくつも浮かび上がっていた。


それは、特定の場所で発生する集団的な不安や、地域社会に蔓延する閉塞感、あるいはデジタル空間で増幅される無数の憎悪の念……。

かつて世界を揺るがした巨大な存在が姿を消した後、世界の表面は一時的に落ち着きを取り戻したが、その奥底では、人々の抑圧された負の感情が、静かに確実に波紋を広げ始めていたのだ。


藍は、紡が地図と向き合う姿を、心配そうに見つめていた。

神崎から渡された専用端末で、外界の情報を集め続けている。

社会の動勢は、以前のような大規模な事件は減ったものの、小さな不気味な事件が各地で頻発していることを示していた。


「ニュース見てると、なんか、嫌な事件が増えてる気がする……。

みんな、なんでこんなにイライラしてるんだろうね?」

藍の素朴な疑問は、地図が示す「凝り」の具現化そのものだった。


紡は、藍の言葉に頷きながら、地図上の赤い点の一つに意識を集中させた。

それは、ある地方都市の若者の間で発生している、異常なほど高い自傷行為の件数を示していた。その背後には、社会への絶望と、誰にも理解されない孤独が渦巻いているのが感じられた。


(これは……私が、満たされなかった時と同じ……)

紡の心臓が、再び共鳴する。

今回は以前のような苦痛だけではなかった。

その苦しみの中に、自身の過去の痛みが重なり合う。

その痛みこそが、他者の「渇望」を受け入れ、浄化する力を引き出す鍵なのだと、紡は悟り始めていた。


「次の現場は、ここです。」

神崎が、新たな地点を指し示した。

それは、ネット上で過激な誹謗中傷が飛び交い、社会問題となっている、匿名の掲示板が発端となる事件が多発している地域だった。


紡は、深呼吸をした。

恐怖がないわけではなかった。

自身の「空っぽ」が、この世界の歪みを浄化することで、少しずつ満たされていくという感覚が、彼女を突き動かしていた。

それは、他者からの承認を求める渇望とは異なる、自己の存在意義を見出す喜びだった。


「はい。行きましょう。」

紡は、力強く答えた。

その瞳には、迷いはなかった。


彼女の「器」は、今、世界に広がる無数の「凝り」を受け入れ、浄化し、

自身の「空っぽ」を満たしていく、長く本質的な旅路を歩み始めたのだった。


(つづく)

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