次の浄化の現場は、日本の某地方都市。
神崎が指し示した場所は、広大な工業地帯の片隅にある、ごく普通のカフェだった。
そのカフェを中心に、インターネット上の匿名掲示板で過激な誹謗中傷が飛び交い、現実世界で集団的な暴動やハッキング事件が多発しているという。
「ここが、今回の『病理』の中心地です。」
神崎は、カフェの前に立つと、周囲の建物をちらりと見やった。
表向きは静かなカフェだが、彼の目には、目に見えない不穏なエネルギーの流れが見えているようだった。
「特定の個人を標的にした悪意ある書き込みが連鎖し、その憎悪の感情が『凝り』となり、現実世界に影響を及ぼし始めています。今回の『凝り』は、デジタル空間から発するもので、より広範囲に、そして速やかに拡散する性質を持っています。」
紡は、カフェの入り口を見つめた。
これまで浄化してきた「凝り」は、物理的な場所に根差したものだった。
今回は「デジタル空間」という、目に見えない場所から発せられる感情の歪み。その対処法は、これまでとは異なるのかもしれない。
「浄化の対象は、そのカフェにある特定のサーバーです。そこが、最も悪意のある書き込みの『凝り』が集中している場所だと特定できました。」
神崎は説明した。
「ただし、物理的な破壊ではありません。サーバーに直接触れ、その『凝り』を『浄化』する必要があります。」
藍は、不安げに紡の腕に触れた。
「デジタルって……触れるだけで、どうにかなるものなの?もし、サーバーが壊れちゃったら?」
藍の素朴な疑問は、紡の心にも同じ疑問を抱かせた。
紡は、神崎に視線を送った。
神崎は、静かに答える。
「あなたの『器』は、物理的な存在だけでなく、情報や概念にも作用する。それが、あなたの力の真髄です。破壊するのではなく、その歪んだ情報を『浄化』し、『秩序』を取り戻すのです。」
神崎の言葉は、紡の能力の新たな可能性を示唆していた。
カフェの開店と同時に、紡、藍、神崎の三人は客を装って店内に入った。
店内は、一見すると普通のカフェだが、客たちの表情はどこか暗く、疲弊しているように見えた。
彼らの多くが、スマートフォンやノートパソコンを操作し、何かに取り憑かれたように画面を凝視している。
その指の動きは速く、画面からは不穏な光が漏れ出していた。
紡の「器」は、店内に充満する重苦しい空気を敏感に感知した。
それは、無数の個人から発せられる、特定のターゲットに向けられた悪意、不満、そして嫉妬の感情が、まるで粘着質な霧のように絡み合って形成された「凝り」だった。
その「凝り」は、カフェの奥にあるバックルームの方向から、特に強く脈打っているのが感じられた。そこにサーバーがあるのだろう。
「神崎さん、この空気…… 私、すごく嫌な感じがする。」
紡は、思わず声を潜めて言った。
心臓が不規則に脈打つ。
「彼らは、現実とデジタルの境界が曖昧になり、自分たちの放つ悪意が、どれほど他者を傷つけているか理解していない。あるいは、理解しようとしない。」
神崎は、紅茶を一口飲みながら、静かに答えた。
「あなたの『器』で、その歪みを『受容』し、『浄化』するのです。」
藍は、紡の手を握りしめた。
その手は、冷たく汗ばんでいる。
「大丈夫、紡。私がそばにいるから。」
神崎は、店員がバックルームに入る隙を狙い、紡に合図を送った。
紡は、緊張しながらも立ち上がり、神崎の指示に従ってバックルームへと向かった。
鍵はかかっていなかった。
バックルームは、薄暗く、埃っぽい。
壁際には、複数のサーバーラックが音を立てて稼働している。
無数のコードが絡み合い、サーバーのランプが不気味に点滅していた。
その中心に、最も強く「凝り」が集中しているサーバーがある。
それは、まるで悪意の塊が物理的な形を取ったかのようだった。
紡は、深呼吸をした。
そして、特製の手袋を嵌めた手を、そのサーバーへと伸ばした。
触れた瞬間、冷たい金属の感触と共に、膨大な情報と感情の濁流が、紡の意識へと流れ込んできた。それは、過去から現在へと続く、無数の匿名の悪意の履歴だった。
言葉の暴力、根拠のない中傷、個人攻撃……それら全てが、紡の「器」へと容赦なく押し寄せる。
「うぅっ……!」
紡は、全身の毛穴が開くような不快感に襲われた。
頭の中が、無数の
自分の存在そのものが否定されるような、強烈な不快感だった。
(これは……「承認」を求めていた私が、一番恐れていたもの……)
その瞬間、紡の「空っぽ」な「器」は、吸収した悪意の感情で満たされ、限界を迎えようとしていた。
身体が鉛のように重くなり、意識が遠のきそうになる。
このままでは、浄化どころか、自分がこの悪意に飲み込まれてしまうほどだった。
「紡!」
外で待機していた藍が、異変を感じ取ってバックルームに飛び込んできた。
彼女の目に、苦痛に歪む紡の姿が映る。
その時、紡の脳裏に、招待状のメッセージが強く響いた。
『「拒絶」ではない、「受容」を。
「空白」は、「可能性」を拓く。』
(そうか……これは、私の「空っぽ」が、他者の「渇望」と共鳴するための……)
紡は、自身の「空っぽ」の中に、一筋の光を見出した。
この憎悪と絶望の渦の奥に、わずかに残された、「誰かに認められたい」という、満たされない渇望の「コア」が、かすかに光っているのを感じた。
「私は……全てを受け入れる……!」
紡は、全身の痛みに耐え、意識を集中させる。
自分の「空っぽ」が、その光の「核」を吸収し、濁った悪意の感情を、ゆっくりと確実に昇華させていく。
憎しみが薄れ、絶望が溶けていく。
その代わりに、理解されなかった痛みと、繋がりたいという純粋な願いだけが、紡の「器」の中に残った。
やがて、サーバーから放たれる不穏なエネルギーが収まり、ランプの点滅が穏やかになった。
サーバー全体を覆っていた悪意の「凝り」が、完全に浄化されたのだ。
紡は、力が抜け、その場にへたり込んだ。
顔には、疲労と安堵の表情が入り混じっている。
「紡!大丈夫だったの!?」
藍が駆け寄り、紡を抱きかかえる。
神崎がバックルームに入ってきた。
サーバーの様子を確認し、満足そうに頷いた。
「見事です、小鳥遊さん。デジタル空間に蔓延した『凝り』の浄化に成功しました。」
紡の新たな力を確信する響きを持っていた。
紡の心には、浄化の成功とは異なる、新たな問いが生まれていた。
(この「渇望」は、どうすれば満たされるんだろう……)
浄化のたびに、自身の「空っぽ」は満たされていく。
だが、浄化された感情の根底にあった「渇望」は、まだどこか虚ろなままだった。
紡の「器」は、今、世界のあらゆる「歪み」を浄化しながら、その根底にある「渇望」と向き合い、その真の意味を探る、より深く、そして本質的な旅路を歩み始めたのだった。
(つづく)