目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第33話:深まる共鳴、見えない境界線

デジタル空間の「凝り」を浄化した後も、紡の疲労はすぐには癒えなかった。身体の奥底に、無数の他者の感情の残滓が、まるで微細な棘のように残っている感覚があった。特に、最後に感じ取った「満たされない渇望」の余韻は、紡自身の「空っぽ」と深く共鳴し、彼女の心を静かに揺さぶり続けていた。


秘密施設の自室で、紡はベッドに横たわり、天井を見上げていた。隣の椅子には、藍が心配そうに座っている。

「紡、まだ眠れないの?さっきからずっと、うつろな顔してるよ……」

藍の声には、疲弊した紡を気遣う優しさが滲んでいた。温かいミルクの入ったマグカップを紡の手にそっと握らせた。


「うん……なんだか、頭の中がざわざわして……」

紡は呟いた。目を閉じれば、浄化中に感じた無数の声が、幻聴のように聞こえてくる。それは、恨み言ばかりではない。「助けて」「理解してほしい」という、弱々しい叫び声も混じっていた。


「きっと、紡の力が強くなってるんだよ。だから、色々なものが、もっとはっきりわかるようになったんだよ。」

藍は、紡の髪を優しく撫でた。藍の温かい手と、飾らない言葉が、紡の心を少しずつ落ち着かせていく。この非日常の中で、藍の存在だけが、紡にとって揺るぎない錨だった。


神崎は、翌日、紡の前に新たなデータを見せていた。浄化を行ったサーバーから得られたものだという。

「浄化後、このサーバーへの悪意あるアクセスは激減しました。そして、関連する匿名掲示板での誹謗中傷の投稿も、劇的に減少しています。」

神崎の声には、明確な成果に対する満足感が滲んでいた。


紡の心には、別の問いが生まれていた。

「浄化された感情の『核』……あの『渇望』は、どうなるんですか?」

紡は、あのカフェで感じた、言葉の暴力の奥底にあった、満たされない「繋がり」への切望を思い返していた。それを「浄化」したとして、その「渇望」自体が消滅したわけではないと、紡は直感的に感じていた。


神崎は、紡の問いに、わずかに目を細めた。

「『渇望』は、人類の根源的な感情です。それは消え去ることはありません。あなたの『器』は、その歪んだ形を『昇華』させ、再び本来の形へと戻す役割を担います。つまり、毒を薬に変えるようなものです。」

神崎の言葉は、紡の能力の深淵をさらに示唆していた。


「昇華された『渇望』が、すぐに満たされるわけではない。」

神崎は続けた。

「浄化は、あくまでも『病理』を取り除く行為です。その後の社会のあり方、人々の意識が変化しなければ、再び同じ『凝り』が生まれる可能性も否定できません。」


神崎の言葉は、紡に新たな課題を突きつけた。自身の「器」が世界を浄化しても、その根本的な原因が解決されなければ、無限に続く戦いになる。


それは、彼女の「空っぽな承認欲求」が、単に他者から与えられる「承認」では満たされなかったことと、どこか似ていた。


その日の午後、紡は「欲望の地図」と向き合っていた。浄化を行った場所の赤い点は薄れ、その周囲の光の点も、以前より穏やかに輝いている。

地図全体を見渡せば、まだまだ無数の赤い点、つまり「凝り」の兆候が見て取れた。


地図を凝視していると、紡は一つの奇妙な感覚に気づいた。それは、地図上の光の点と、自身の意識が、以前よりもさらに強く繋がっているという感覚だった。

(まるで、私自身が……地図の一部になったみたい……)


すると、紡の脳裏に、これまで聞こえていた招待状の「声」とは異なる、新たなどこか懐かしい「声」が響いた。それは、神崎が「魂の羅針盤」と呼んだ、「欲望の地図」そのものの声のようだった。


『「器」よ、聞け。

「渇望」は、決して消えぬ。

「歪み」を解き放つは、

「真実」への眼差し。

「均衡」は、常に揺らぐ。

「満たす」は、

「終わり」にあらず、

「始まり」を告げる。』


その「声」は、紡の「空っぽ」の深淵にまで響き渡った。

浄化によって「満たされた」と感じていたものが、実は新たな始まりに過ぎなかったというメッセージ。そして、世界の「均衡」は常に揺らぎ続け、終わりのない戦いが続くという示唆。


紡は、その「声」に、どこか恐ろしさを感じながらも、自身の「器」の奥底に、新たな力が覚醒していくのを感じていた。それは、これまで以上に、世界の「凝り」の根源を深く見通す力、そして、浄化された「渇望」の真の形を読み取る力だった。


藍が、飲み物を持って紡の元へと戻ってきた。

「紡、少し休んだら?顔、また少し青くなってるよ。」

藍の声が、優しく響く。


紡は、藍の顔を見上げた。藍の優しい瞳には、彼女自身が抱える、ささやかな「渇望」が映し出されているのが、はっきりと見えた。それは、紡が無事に帰ってくることへの安堵であり、この非日常が早く終わってほしいという願いであり、そして、紡の役に立ちたいという純粋な思いだった。


(藍の「渇望」は……こんなにも温かい……)

紡は、今まで、他者の「渇望」をこんなにも鮮明に、そして純粋な形で感じ取ったことはなかった。まるで、自身の「空っぽ」が、藍の心を映し出す鏡になったかのようだった。


神崎は、そんな紡の様子を遠くから静かに見守っていた。紡の成長に対する期待と、同時に、これから直面するであろう道のりの厳しさを物語っていた。


夜が深まり、秘密施設の中は静寂に包まれる。

紡の「器」は、新たな「声」と、深まる共鳴の中で、世界の「見えない境界線」を越えようとしていた。


(つづく)

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?